第21話 牽制

 その日から、レティリエの周りを不審な狼が彷徨くようになった。村の中心部で他の女衆と繕い物をしている時、野原で子供達の相手をしている時など、レティリエがふと視線を感じて振り向くと、見慣れぬ狼がじっとこちらを窺っている姿をよく見かける。グレイルが一緒にいる時は彼が吠えるとどこかへ逃げていくものの、またしばらく経つとその姿を彼女の前に現すのだ。

 さすがにジルバも真っ向からセヴェリオの意向に逆らうつもりはないらしく、彼が村にいる時はジルバの手下達が襲ってくる気配は無い。だが、常に誰かに見張られていると言う不気味さはレティリエを震え上がらせ、グレイルの神経を昂らせることに成功していた。


 ある日のことだ。レティリエは村の外でグレイルと一緒にキイチゴを摘みにきていた。狩りができない自分が子供たちを喜ばせるのはこれくらいしかできないからと、無理を承知でグレイルにお願いしたのだ。彼はあまり良い顔をしなかったものの、レティリエの気持ちを汲んでついてきてくれた。

 グレイルから離れすぎないように注意深く距離を取りながらキイチゴを摘んでいく。

 黙ってもくもくと摘んでいると、ふと何かを感じてレティリエは顔をあげた。耳を澄ますと、遠くの方でピイピイと小鳥の鳴く声が微かに聞こえる。苦しそうに鳴く声にいたたまれなくなり、レティリエは声のする方へと近づいていった。見ると、少し離れた先の木の下に、一羽の雛がバタバタと羽を動かしながらもがいていた。巣から落ちてしまったのだろうか。巣の上では親鳥が狂ったように鳴いている。


(可哀想に。巣から落ちてしまったのね)


 レティリエが雛を巣に戻してあげようと屈んだ時だった。

 背後からの鋭い殺気に背筋がゾワリと粟立ち、反射で地面に身を伏せる。と同時に一匹の狼が自分の頭上をかすめたのが見えた。敵の刺客だ。そう意識した瞬間にはもう足が動いていた。

 起き上がると同時に全力で走り、狼から距離を取る。だが、人の姿と狼では勝ち目があるわけがない。背後に荒い息づかいを感じた瞬間、背中に鋭い痛みが走り、レティリエは地面に思い切り叩きつけられた。狼がレティリエの体にのしかかり、ぐっと地面に縫いとめる。必死で抗おうとするも、鋭い爪で捕らわれている為、動くことができない。命の危機を感じた瞬間、ふっと背中が軽くなり、同時に狼が背後に吹っ飛ぶのが見えた。


「失せろ」


 黒狼姿のグレイルが低い声で唸る。地面に叩きつけられた狼は起き上がって臨戦する姿勢をとるものの、グレイルが鋭くにらみつけると、深追いをするつもりはないのか、そのまま森の中へと消え去った。


「レティリエ、大丈夫か」

「え、ええ、大丈夫よ…」


 人の姿に戻ったグレイルが差し伸べてくれる手を取ってゆっくりと身を起こす。心配させないようにと微笑むが、グレイルは黙ったまま彼女の背中に波打つ銀色の髪をそっとかきあげた。裂かれた服の隙間から見える傷と流れる鮮血を見て、彼の目に緊張が走ったのを感じた。


「グレイル……あの、私……ごめんなさい」

「いや、お前は悪くない……一先ず村へ戻ろう」


 グレイルが静かにかぶりを振る。だが、村に戻るまでの間、彼は険しい顔でずっと考えこんでおり、口を開くことはなかった。


 その一件以来、グレイルは常にレティリエを側に置いておくことにした。村にいる時は勿論、狩りに出る時でさえも彼女が離れるのを嫌った。

 例えグレイルがいたとしても、複数で襲えばレティリエを殺すことなど容易いはずなのだが、ジルバが寄越してくる刺客は必ず一匹だけだった。どちらかと言うとグレイルに対する牽制が目的なのだろう。だが、隙があれば彼女を殺す意思があることは森で襲われたことからも明白だ。そのことがグレイルの神経を最大限に昂らせていた。

 クロエもこの危機的状況を察したのか、グレイルにちょっかいを出さなくなった。代わりにレティリエを守ると約束してくれたが、二人に守られなければならないという状況に、レティリエは自身の無力さと情けなさを感じていた。



 その日も、朝から狩りに出る二人につれられて、レティリエは森を歩いていた。グレイルは尖った耳をピンと立たせ、険しい顔で周囲を警戒しながら無言で歩いている。話しかけるのを躊躇するくらいピリピリと神経を昂らせている彼に手を引かれて、レティリエは鬱屈とした気持ちで朝日が差し込む森を歩いていった。


 狩り場につくと、既に他の者達は集まっていた。開けた場所に草の大地が広がり、あちこちで草食動物達が草を食んでいる。グレイルは近くの木の麓にレティリエを連れていくと、優しく頭を撫でた。


「いいか。何かあったらすぐ声をあげるんだ。わかったな」

 

 そんな子供じゃないんだから、と笑おうとしたが、彼の真剣な目を見て言葉を飲む。代わりにレティリエは無言でこくりと頷いた。


※※※


 レティリエは木の麓に座ったまま、目の前で狼達が走っているを眺めていた。彼らが追っているのは鹿の群れだ。時折別の方角からも追い込みをかけながら、見事な連携で鹿を追い詰めていく。

 複数で追い回しているうちに、足並が乱れた一匹の若い雄鹿が群れを離れた。


「かかれ!」


 グレイルが檄を飛ばす。と同時にクロエが弾丸のように群れから飛び出て鹿に食らい付いた。狼の強靭な牙に襲われた鹿は暴れながらも地面に叩きつけられる。ついで彼女を追うかのように他の狼も次々に飛びかかり、肥えた鹿はやがて動かなくなった。


 レティリエはその様子を憧れと羨望の眼差しで見ていた。と同時に、この連携の要がグレイルとクロエであったことに、レティリエの胸がチクリと痛む。

 艶やかな黒い毛並みをなびかせて草原を駆け回るクロエは本当に美しかった。そして、今まで狩りをしたことがないレティリエから見ても、二人の息がピッタリなのは一目瞭然だった。

 グレイルの指示に完璧な動きを見せるクロエを見る度に、レティリエの胸は詰まったように苦しくなる。その光景を見ていたくなくて、レティリエは思わず視線を落とした。

 役に立つどころか、自分は守られているだけ。しかも、この状況は自分の失敗により招いてしまったものだ。グレイルがそのことを責めることはなかったが、彼に背負わせている重荷が増えてしまったことにレティリエは責任を感じていた。


 鬱々とした気持ちで地面を眺めていた為か、周囲への警戒が薄れていたようだ。カサッと背後で草が揺れる音がして、レティリエは「きゃっ」と小さく悲鳴をあげた。見ると、小さな野うさぎが草の影から飛び出してきた。敵の刺客では無かったことにホッと安堵のため息をつく。だが、その微かな悲鳴はグレイルの動揺を誘うのに十分だった。

 目の前の猪を追っていたグレイルが、レティリエの声に反応してハッと視線を向ける。意識をそらしたのは一瞬だ。だが、狩りではその一瞬が命取りになる。しまった、と思った瞬間には、怒りに狂った猪がグレイル目掛けて猛進していた。


「グレイル!!」


 鋭い牙を持つ猪に追突されれば大怪我は避けられない。青ざめたレティリエが悲鳴をあげた時だった。

 黒い弾丸が猪に体当たりを食らわし、わずかに軌道がそれた猪はそのままグレイルを掠めるようにして離れていく。クロエだ。クロエは遥か遠くへ走り去っていく猪を見届けるとくるりと踵を返し、人の姿に戻って怪我の有無を確かめているグレイルの元に駆け寄った。


「大丈夫?」


 言いながら、同じくこちらも人の姿に戻ったクロエがグレイルの腕をとる。少し牙が掠めたのか、腕から鮮血が流れ落ちた。


「ちょっと待ってて。今手当てするから」


 クロエが慌てて包帯を取りに行く。レティリエは、彼女がグレイルの真向かいに座って手当てをする様子をずっと眺めていた。


「──はい。次からは気を付けてね」


 包帯を結び終わり、最後にペチッと彼の腕を叩くクロエを見て、グレイルがふっと小さく微笑んだ。


「ああ、助かった……ありがとう」


 その笑みを見た瞬間──レティリエの目からポロッと涙がこぼれ落ちた。泣いているのを悟られないよう、パッと木の影に隠れてうずくまる。声が出ないように両手でしっかりと口を抑えるも、両の目から溢れ出てくるものはとめられなかった。


 自分が憧れた姿。なりたかった姿。

 クロエは、自分の理想そのものだった。


 今度こそ見ていられなくなって、レティリエはとうとう膝に顔を埋めた。 だが、この痛みを癒してくれるものは何も無かった。

 泣いているのを悟られないように木陰で休息をとっているフリをしながら、レティリエは声を圧し殺しながら泣いた。

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