第22話 すれ違い

 その晩。子供たちを寝かしつけ、諸々の雑事を終えたレティリエは静かに寝室の扉を開けた。中では寝台に腰かけて包帯を巻き直しているグレイルがいる。レティリエは彼の隣に座ると、そっと身を寄せた。

 さすがにクロエには別の場所で寝てもらっているものの、彼女が来てから夫婦の時間は設けられていない。もちろん、彼女がいることに加えて同じ建物内に子供達もいるからという理由にしているが、一番はレティリエの気持ちが大きかった。グレイルは以前と変わらず、抱き締めてくれたりキスをしてくれるものの、優しく素肌を撫でられる度に、本当はこれを享受してはいけない立場だということを思い出して悲しくなるのだ。

 グレイルの肩に頭を乗せながら、クロエが巻いてくれていた包帯にそっと触れる。


「……グレイル、ごめんなさい」

「なんでお前が謝るんだ? これは俺の不注意だろ」


 グレイルが優しく返事をする。それでも。レティリエは自分を許せないでいた。

 もとはといえば、自分が余計なことをしたせいでこんな事態になっているのだ。彼の役に立つだけでなく、むしろ足手まといになっている今の自分が惨めでたまらない。

 うつむいたまま黙っていると、じっとレティリエを見つめていたグレイルが口を開いた。


「レティリエ」


 逞しい腕が伸びてきて、後ろから抱き締められる。自分を包み込む、力強い心臓の音と少し尖った甘い匂い。この優しい感覚にずっと浸っていたくて、レティリエはそっと目を伏せた。大きくて温かい体に包まれているうちに、ふっと心の緊張が弛むのを感じた。

 彼の方を向いてすがり付くように抱きつくと、グレイルがぐっと抱き寄せて、レティリエの髪に鼻を埋める。彼の動作の一つ一つが慈愛に満ちていて、レティリエはまたポロポロと涙を溢した。

 グレイルの胸の中ですすり泣いていると、抱擁する彼の指がゆっくりと自分の衣服にかかるのを感じた。いつもは自分の情けなさが申し訳なくて断っていたが、今日は……彼の腕の中で熱を感じたいと思った。

 目を閉じて彼の指の感触を享受する。肩から布が滑り落ち、グレイルがそこに口づけを落とそうと顔を近づけた時だった。


「……誰かがいる」


 グレイルの耳がピクリと動き、瞬時に彼は窓に駆け寄る。乱れかかった衣服を整えてレティリエも急いで窓の外を覗くと、孤児院の外からこちらを伺っている一匹の狼の姿が見えた。


「今すぐ失せろ! でないと殺すぞ!」


 狼の姿になったグレイルが吠える。彼の威嚇に怯えたのか、もともと交戦するつもりはなかったのか、狼はくるりと背を向けると闇の中へ飛び込んでいった。


「くそっ……一体いつまで続くんだ」


 ギリッと歯噛みし、人の姿に戻ったグレイルが枕に拳を叩きつける。レティリエはその様子を黙ったまま見ていた。


 この事態を打開する、少なくともグレイルが自由に動けるようになる策は──ある。だが、レティリエはどうしてもそれを口にすることができなかった。それが単なる自分のワガママだということもわかっているのにだ。     

 だが、彼も頭が悪いわけではない。きっといつかはこの打開策に気づいてしまう。それがただ問題を先送りにしているだけにすぎないのもわかっている。

 ──けれども。


「レティリエ、話がある」


 グレイルの声に、レティリエはビクッと肩を震わせる。恐々見上げると、険しい顔をしたグレイルが腕組みをしてじっとこちらを見ていた。


「俺達の目的は村の奪還だ。このまま防戦一方では埒があかない。かと言ってお前をこのまま置いておくわけにもいかない。だから俺に提案がある」


 グレイルの言葉に、レティリエの心臓がどくんと跳ねる。その先の言葉は──聞きたくなかった。


「俺達の狩り場から少し行った先に、小さいが狼の村がある。だから、レティリエ、お前は……ここを出て、別の群れに行ってくれないか」


──ああ。やっぱり彼も気づいていたんだわ。


 覚悟していたはずなのに、その言葉を聞いた途端、レティリエの胸は刺されたように痛んだ。今回、グレイルが思うように動けないのは、レティリエにつきまとう監視のせいだ。だからこそ、自分がいなくなれば彼は自由に動けるようになるし、クロエとの連携もやりやすくなるだろう。

 わかってる。本当は痛いほどわかっている。今回の自分の役割が、逃げることしかないことを。

 けれども……うんと言えない自分がいた。


「……嫌よ」


 両手で拳をぎゅっと握り、うつむいたまま返答する。


「……グレイルは、私がいない方がいいって言うの?」

「そういうことじゃない。お前のことが大切だから言っているんだ。ことが済んだら必ずお前を迎えに行く。少しの間だけだ。我慢してくれないか」


 彼の言うことは筋が通っている。レティリエとて、何をするのが一番良いのか、自分の役割は何なのかもわかっている。

 わかっているはずなのに。

 口から出てきたのは、自分の意思とは反した言葉だった。


「だってそういう意味じゃない。本当は私のことお荷物だって思ってるんでしょう?」

「違う。お前の存在も必要不可欠なんだ。だが、今はまだその時じゃない。聡いお前ならわかるだろう」

「嘘よ! 今回のことだって……本当は私のせいだって言いたいんでしょう! お前のせいでこうなったんだって。状況を悪い方にしてくれたなって」

「レティリエ、いい加減にしてくれ。俺はそういうことを言ってるんじゃない」

「じゃあどうして他の所に行けなんて言うの? 本当はこんな足手まといの役に立たずなんていなくなれって思ってるんでしょう! こんな妻なんて恥ずかしいってきっと思ってるに違いないわ!」

「違うって言ってるだろう!!」


 グレイルの大声に、レティリエがビクッと体を震わせる。彼が自分に対して大声を出すなんて初めてのことだった。

 グレイルは怒りに目を光らせながらレティリエを睨み付けていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。


「レティリエ、俺はもう限界だ。この状況をなんとかしないと、頭がおかしくなる」


 グレイルの言葉をうつむいたまま黙って受け止める。もう彼の顔を見ることができなかった。

 グレイルは大きくため息をつくと、静かに寝台から立ち上がる。


「どこに行くの?」

「少し頭を冷やしてくる」


 振り返らずにグレイルが返答する。その後ろ姿を見た途端、レティリエの胸が突き刺されたように痛んだ。


(違う、私は……こんなことを言いたかったんじゃないのに)


 だが、彼の名前を呼ぶ声は、扉が閉まる音と共にかき消された。

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