第16話 静かな攻防戦

 二人が帰ってきた音がする。と、レティリエは思った。

 洗濯物を干す手をとめて耳を澄ますと、バタバタと子供達が迎える足音の中に、聞きなれた彼の足音を感じ取った。音だけではない。土の匂い、草の匂い、血の匂い。全てが混ざりあった匂いの中に慣れ親しんだ彼の匂いを嗅ぎとる。

 いつもはグレイルが帰ってくる気配を感じると、雑事の手を止めてすぐに玄関扉まで迎えに行くのだが、今日はなんとなく二人が一緒にいるのを見たくなくて、レティリエはしらんふりを決めこむことにした。

 洗濯かごからシーツを取り出し、物干しにふわっとかける。まっ白な布地が風にたなびき、その染みひとつない清純な白さが、灰色の気持ちをした自分には酷く眩しく映った。

 その時、風に揺られたシーツが波のように大きくうねり、凪のように静かに戻ると同時に、シーツの影から姿を現したのはクロエだった。


「ねぇ、少しお話をしない?」

「……ええ、いいわよ」


 思わず声が固くなる。本当はクロエと話すこともないし、話したくもなかった。それでも、彼女を避ける素振りを見せてしまうと自分の負けを認めてしまうような気がして、レティリエは無理やり平静を装う。

 クロエはそんなレティリエの気持ちなど意に介さず、物干し台に背中を預けながら腕を組んだ。


「ねえ、あなたって本当に狼になれないの? 私、そんな子初めて見たのだけれど。だってそれこそ、赤子でもできることでしょう?」


 のっけからの挑戦的な発言に、レティリエの心に刺が刺さる。灰色の視線をクロエに投げつけるが、彼女は気にするそぶりも見せず、形の良い唇を開いた。


「心当たりはある? 親が狼になれなかったとか?」

「いえ、私の両親は普通だったと聞いています」

「普通だったと聞いている? あなた親のことを知らないのね?捨て子なのかしら」


 クロエの言葉が逐一心のささくれを増やしていく。悔しさにぎゅっと拳を握りしめるも、一方で冷静な自分が頭の中の警鐘を鳴らしていた。

 クロエは多分、なにがしかの目的を持ってこちらにやってきている。本当にグレイルだけが目的なのであれば、どこからどう見ても勝ち目のないレティリエなぞほっておいて彼に猛攻撃をかければいいはずなのだから。わざと自分を傷つける言葉を投げつけるのは、自分に揺さぶりをかけてボロを出させる為に違いない。

 レティリエはクロエに向き直り、その金色の目をしかと見据える。まずは彼女の目的を見極めなければならない。


「私はこの孤児院で育ちましたし、狼になれないのも本当です。狼になれない理由はわかりませんけど」

「ふぅん。それが本当なら、あなた随分と可哀想な人生を送ってきたのね」


 クロエの目に同情の色を感じ取り、レティリエの気持ちは深く沈む。だが、これでは相手の思う壺だ。レティリエはきゅっと唇を結ぶと、目の前のクロエを睨み付けた。


「私も聞いていいかしら。以前、あなたは『今は誰とも番ではない』と言っていたわね。と言うことは以前は誰か伴侶となる人がいたのかしら?」


 クロエの顔に一瞬緊張が走ったのを、レティリエは見逃さなかった。彼女はなかなかに顔に出やすいタイプらしい。だが、クロエは一度ふうと息を吐くと、瞬時に優雅な笑みを顔に張り付けた。


「ええそうよ。でも死に別れたの」

「死に別れた?」

「ええ。私ほどの狼なら、強い夫を持って当然でしょう? 彼は先陣を切って戦って、死んでしまったの」


 だから今、私は次の相手を探しているのよ。とクロエが微笑む。だが、レティリエも負けていなかった。


「そう。それほどの実力者であれば、狩りでミスをして死んだと言う可能性は少なそうね。もしかして、あなたと旦那様がいた場所に、どこかの群れが襲ってきたのかしら」


 クロエの耳がピクリと動く。レティリエは言葉を切って、挑戦的な視線をクロエに投げつけた。


「例えば、あのセヴェリオという人の群れとか?」


 レティリエの言葉に、今度こそクロエはその顔から笑みを消した。完全に目が据わっている。無表情で睨み付けてくるクロエの視線を、レティリエは真っ向から受け止めた。だが、一瞬の沈黙の後、クロエは静かに目を伏せた。


「違うわ。どんな人だってミスすることはあるもの。あの人は狩りでへまをして死んだだけよ。あなたも気を付けなさい。あなたの大切な彼も、常に死と隣り合わせだわ。でも無力なあなたには、どうすることもできない。彼が目の前で命の危険に晒されても、指を咥えて見ていることしかできない」


 今度はレティリエの顔が凍りつく番だった。クロエの言う通りだ。自身はグレイルに守られることはあっても、彼を守ることはできない。この一方的な関係が、自分が彼の隣にいることができないと思う一番の原因だった。

 レティリエの心の揺らぎを感じ取ったのか、クロエが畳み掛けるように口を開く。


「まぁその時はお得意のドワーフの力とやらを使うのかしら? ねぇ、彼ってかなり強い雄よね? どうしてあなたとの婚姻を許されたの? 本当にその力だけで認められたの?なぜあなただけが彼らを指揮する権利を持っているの?」


 クロエの口撃にレティリエが口をつぐむ。表情が固くなっているのが自分でもわかった。


「あなたに教えることはありません」

「あら、人に言えないことなのね?」


 レティリエの瞳に動揺の色を感じ取ったクロエがほくそえんだ。彼女に会話の主導権を渡してしまったことにレティリエは内心で歯噛みする。

 彼女から目をそらさずに、大きく深呼吸をすると、レティリエはポツポツと話し始めた。

 人間に捕まってしまったこと。逃亡の途中でドワーフにかくまってもらったこと。一度は引き離されたが、人間によって囚われた仲間達を救い、村の皆に認められたこと。

 話終えると同時に、クロエがその金色の目を丸く見開いた。


「もしかしてあなた……それだけのことでここにいるのを許されたの? たった一回、仲間を救ったそのことだけで認められたというの? 私もセヴェリオのやり方には賛同できない部分もあるわ。それでも、あなた達は随分と平和ボケした考え方なのね」


 クロエの言葉に、今度こそレティリエは心の臓を突き刺された気がした。それは、レティリエがもっとも言われたくないことだった。

 気付かぬふりをして、見てみぬふりをしてきた、自分の心のもっとも弱い場所。グレイルと夫婦になったことに負い目を感じている原因はそこだった。

 夫婦になれたとは言え、狩りができるわけでもない。戦えるわけでもない。彼を守ることもできない。物理的な力を持たない自分は足手まといの狼のままだ。

 彼女の言い分に反論ができない自分にも惨めさを感じ、目頭がじんわりと熱くなる。ここで泣いたら自分の負け。意に反して視界を歪ませていく涙を溢すまいと、レティリエはぐっと拳を握った。それでも心に負った傷は、目尻にたまる涙を外へ押し出そうとする。ポロリ、と涙が一滴地面に落ちたその時だった。


「レティリエに近づくな」


 突如を肩を掴まれ、グイと引っ張られる。とん、と背中にあたるのはゴツゴツとした彼の固い体と熱だ。振り返り様見上げると、クロエを鋭く睨み付けるグレイルの姿があった。


「別に。ただお話をしてただけよ」


 クロエがつんと顎をそびやかす。だが、グレイルは牙をむき出しにして威嚇の姿勢をとった。


「俺はまだお前を信用した訳じゃない。お前がセヴェリオと通じていないと言えるのか? お前の立場がハッキリしない以上、俺達に近づくのは許さん」

「あらあら、私ってば本当に信用されてないのね。悲しいわ」

「知るか。失せろ」


 グレイルの言葉に、クロエも黙ったまま彼を睨み付けるが、やがてくるりと背を向け、その場を後にした。


「レティリエ」


 グレイルの声にピクリと耳が反応する。だが、なんとなく彼の顔を見ることができず、視線は地面を向いたままだ。うつむくレティリエの背中を、グレイルが優しく撫でた。


「レティリエ、ヤマモモを採りに行こう。子供達がお前のジャムを食べたがっている」


 そっとレティリエの手をとり、グレイルが導いてくれる。レティリエは無言で彼の後を追った。



 ヤマモモの群生地につくと、グレイルが高いところの実をヒョイヒョイと採ってくれる。普段であれば、そんな彼に男らしさを感じて胸がとっくりと高鳴るのだが、今日はなんとなく彼にときめきを感じてはいけない気がして、レティリエは黙ったままヤマモモを採っていく。

 摘んだばかりのヤマモモに視線を落とすと、宝石のように艶やかな赤色が指の間で輝いている。そっと力を込めて実を潰すと、鮮やかな赤色が血の様に指を濡らした。


「レティリエ」


 突如声をかけられ、背中に熱を感じる。太くて逞しい腕が伸びてきて自分の胸下で交差し、そのままぎゅっと抱き締められた。自分の髪に彼の鼻が埋められ、レティリエの胸がはねあがる。

 体をこちらに向けられるのを感じ、気がつくとレティリエはヤマモモの木を背に立たされていた。木の幹に手をついたグレイルが彼女の小柄な体をすっぽりと覆う。


「レティリエ、キスしよう」


 顎に手を添えられて、静かに上を向かされる。グレイルの顔が近づいていくにつれて、自分の心臓の音が速くなっていくのを感じた。


 ──ああ、やっぱり私はこの人のことが好き。


 自分の意思に反して高鳴る胸の音に、自分の本心を突きつけられる。それでも、自分には彼を好きでいる資格なんてない。

 レティリエは目を伏せると、両手でゆっくりと彼の胸を押した。


「ごめんなさい、気分じゃないの」

 

 うつむきながら呟く。彼がどんな顔をしているのか見ることができなかった。

 

 そのままレティリエは彼の腕の間からするりと抜け出ると、静かにその場を後にした。

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