第3話 二人きりの夜
第二の故郷で懐かしい一時を過ごしたせいか、二人がドワーフの集落を出た時には、既に白銀の月が空を悠然と輝かせていた。
今日は迷わず二人の家に帰ることを選ぶ。闇と静寂を纏った森の中にひっそりと佇む二人の家は、何者も邪魔をするものはない。
グレイルはいつもレティリエに優しい。それでも、若く精力的な彼に自分の非力な体力ではついていくのがやっとだ。
身を起こして壁を背に座るグレイルの側で、レティリエはくったりと力なく横たわっていた。甘く気だるい余韻に浸りながら、布団の上に投げ出された彼の右手をぼんやりと見つめる。
「悪い、無理させたな」
言いながらグレイルが手を伸ばして、レティリエの頭をワシワシと撫でてくれる。その手つきが昼間の子供達にするのと同じで、レティリエはクスクス笑った。
「もう、子供扱いしないで」
少し拗ねたように言うと、グレイルがニヤッと口の端を持ち上げる。その顔が、いたずらをしている少年時代の彼に重なり、レティリエは懐かしさに微笑んだ。
記憶の中の少年時代の彼と、目の前にいるすっかり大人になった彼が同じ人物だという当たり前の事実をたまに不思議に思うことがある。男の子が生まれたら、ありし日の彼と同じ顔になるのかもしれない。
「レベッカ……元気な赤ちゃんを産んでくれるといいなぁ」
無意識のうちにポロリと言葉がこぼれおちた。その言葉を聞いた途端、優しく撫でてくれていたグレイルの手がぴたりと止まる。ふっと視線を上にあげると、彼は切ない眼差しでじっと自分を見ていた。
「レティリエ……俺達もそろそろ子供を作らないか?」
囁きかけるように紡がれるグレイルの言葉に、レティリエの耳がピクッと震える。布団を引き寄せて胸元を隠しながらそっと身を起こすと、月光に照らされた金色の瞳と視線が交わる。自分を見つめる彼の瞳が、儚い光を灯していた。
「まだ……腹は決まらないか?」
「…………」
無言のままうつむくレティリエに、グレイルが優しく声をかけてくれる。レティリエは悲しげに瞳を伏せながら、力なく頷いた。本当は、愛する彼との子供をこの手で抱き締めたい。けれども、自分にはそれを肯定する勇気がなかった。
「ごめんなさい……でも、やっぱり怖いの。もし……もし生まれてきた子供が、また狼になれなかったらって思うと……」
そう言いながら布団をぎゅっと掴む。
物心ついた頃からずっと受けてきた冷たい視線。自分の存在価値を何度も疑い、迷い、泣きながら過ごした日々はまだレティリエの記憶に根強く残っている。あの辛く、苦しい思いを我が子にさせたくはなかった。
「本当は私も子供が欲しい。レベッカに赤ちゃんができた時、嬉しかったもの。でも、二人の子供ならきっと、賢くて強い子供が産まれるだろうなって思って、じゃあ私の子供はどうなるんだろうって考えたら……怖くて……」
震える声で言葉を紡ぐ。視界がぼやけ始め、うつむいてぎゅっと布団を握ると同時にポロッと涙がこぼれおちた。
「生まれてきた子供が狼になれなくて、私と同じ思いをするなんて、想像するだけでも胸が苦しくなるわ……わ、私のせいで、子供も、あなたも、責められるなんて、考えたくもないもの……」
言いながら、熱い涙が頬を伝うのを感じた。胸を鷲掴みにされたような痛みが体を支配する。命を懸けて人間と対峙し、仲間を救った功績から、今は狼の一員として受け入れられているが、狼になれない子供を生んでしまったら、きっとまたあの冷たい眼差しを向けられるに違いない。
遠からぬ自分の生々しい記憶とまだ見ぬ我が子の姿が重なり、レティリエの目から涙が溢れた。
──お前は狩りができないくせに、いっちょまえに物は食うのか
──狩りもできなくて子供も生めないんじゃ、お前さんは一体何の役に立つと言うんだね
──あいつはやめとけよ。生んだ子供がまた狼になれないなんてことになったら大変だぞ
そんな言葉を聞く度に、逃げ出した。辛くて、悲しくて、一人ぼっちでたくさん泣いた。自分は何の為に存在しているのかわからなくて、皆に謝りたくて、何もできない自分が苦しかった。
マザーには頼れなかった。本当の親子じゃないから。もし彼女にまで嫌われたら、自分は本当に行くところが無くなってしまうから。
行き場のない悲しみに蹂躙されながら一人きりで過ごす夜。こんな思いをするのは自分だけで十分だった。こんな思いを、我が子にさせたくはなかった。
──彼と一緒にいたいと願うのは、やはり自分には許されないことなのだろうか。
「きっと皆も、あなたの子供を楽しみにしてるはずだわ。将来村を背負って率いてくれる、強くて逞しい子供が生まれるだろうって。でも……でも、私にはそれができるかわからないの。皆を失望させてしまったらどうしよう……あなたと一緒になるなんて、きっと私には出すぎた望みだったんだわ」
「レティリエ」
グレイルがレティリエの肩をぐっとつかむ。その先を言わせまいとする彼の優しさが今は痛かった。
「ごめんなさい……やっぱり私は、あなたと一緒にならない方が良かったのかもしれない……!」
「違う!」
吐き出すように言葉を紡ぐと、グレイルがぐいと力強く抱き寄せた。がっしりとした腕に抱き締められ、厚い胸板にぎゅっと顔を押し付けられる。突然のことに驚き、胸の中に灯った微かな熱が、彼の体温に包まれて冷えきった心身にゆっくりと巡ってゆく。
そっと目線を上にあげると、力強い金色の瞳がまっすぐ自分を捕らえていた。
「俺は、そんなこと思ってない。お前と夫婦になれて良かったと思っている。俺は……レティリエ、お前との子供が欲しいんだ」
言いながら、グレイルがぐっと腕に力をこめる。密着した体から伝わる温もりに惹かれるように胸板に顔を埋めると、彼の匂いがした。少し尖りのある、男の人独特の濃い匂い。しゃくりあげながらも、優しい匂いに少しずつ心が落ち着いていく。
彼の温もりに包まれながら……レティリエは唐突に気づいた。
──ああ、私はずっとずっと、こうしてもらいたかったのだ。
泣いている自分にいつも優しく寄り添ってくれるグレイル。いつも隣にいてくれて、自分の為に怒ったり悲しんだりしてくれる優しい幼馴染み。彼の言葉はいつだって自分の心に勇気をもたらしてくれるのだ。
でも本当は──もし許されるのなら──彼の胸に飛び込んで、心から甘えたいと思っていた。自分の痛みを全部吐き出して、一人じゃないよと抱き締めてもらいたかった。
何度も彼にすがりかけて、自分を律していた。そんなことは許されることじゃなかったから。でも甘えたかった。温もりが欲しかった。隣に座る彼とのたった数センチの距離が、果てしなく、遠くて、遠くて──
彼の体温ではない、体内から感じる別の熱が自分の心を溶かしていくのをレティリエは感じた。
グレイルが抱き締めた手を緩めることなく、身を屈めて耳元に口を寄せる。
「例え狼になれない子供でも、お前の子供なら俺は構わない。群れに恥じないよう、強く育てる。だから……お前も、考えてくれないか。お前の覚悟が決まるまで、ずっと待っているから」
「うん……うん、ありがとう、グレイル」
ポロポロと涙を流しながら彼の背中にそっと腕をまわす。
「私……これからも、あなたとずっと一緒にいてもいい?」
「当たり前だ。俺がお前と離れるわけがないだろう」
力強く響く低い声に、レティリエは凍てついた心が溶かされていくのを感じた。そっと顔をあげ、濡れた目でグレイルの顔を見上げる。
「うん……私、あなたと一緒になれて本当に良かった……」
「ああ……俺もだよ、レティリエ」
かつては孤独に抱えていた胸の痛みは、もう一人きりのものではないのだ。
レティリエは感慨に胸を震わせながら彼の腕の中でそっと目を閉じる。
窓からこぼれ落ちる銀色の光が優しく二人を包み込んでいた。
だがその安寧の時は、後日、一匹の狼が飛び込んでくることで奇しくも終わりを告げることとなる。
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