緑宿す竜

 花の甘い香りが町を満たす、春のことでした。

 わたしがいつもお世話をしている植木鉢も、綺麗な花を咲かせています。あまりに綺麗なので少しだけ摘んで、カウンターの上の花瓶にピンク色の花を飾ってみました。

 カウンターの花瓶は、季節ごとに色々なお花を飾っています。少しでもお客様の心を癒してくれるように。

 花瓶に水を注いでいると、ドアベルが鳴って、扉が開きました。

 長いスカートを揺らして入っていらしたのは、繊細なレースが縫い取られた、ミントグリーンのドレスをお召しの女性。栗色の長い髪を結い上げた、貴族の奥様のように品のある方でした。

 彼女は宿に入ると扉を押し開け、後ろに続くお連れ様を中へ招き入れます。わたしは入ってこられたもうひとりのお客様を見て、少しだけ驚いてしまいました。

 お連れ様は、長い緑色の髪の合間から植物の枝がいくも伸びていて、葉を茂らせていたのです。まるで髪が、植物そのもののようでした。

 髪と同じ色の瞳がとても優しそうな男性で、お二人とも、連れ添う姿は優美そのものでした。

 ご記帳によると、女性の方がフィオリーナさん。男性の方がセント・リエトさん。

同室をご希望でいらっしゃいました。毎日お掃除はしているのですけれど、少し広めの、お二人様向けのお部屋をご用意したのは、随分久しぶりのことです。

 セント・リエトさんはご用があるのか、しばらくしてから町へ出かけられました。

「私のことは構わないから、先に妻に夕食を頼む」

 そう告げられ、先にフィオリーナさんのお食事をご用意いたしました。

 今晩は甘いトマトとポークを使ったサクサクのパイ。

 煎ったクルミを散りばめて、チーズを垂らしたサラダ。そして、お豆とお野菜をたっぷり入れて煮込んだトマリギ亭特製スープです。


     *


 主人と二人で旅をするのは、今回が初めてなのです。

 腰の重い方で、突然旅をしようと言われたときは、随分戸惑いましたわ。この国には、リエトの古い知人が棲んでおりまして、はるばる会いに参ったのです。

 いつもなら私は留守番なのですけれど、連れてきてくださいました。ずっと家にいる私を、気遣ってくれたのだと思います。

 思えば、あの方にはいつも助けてもらってばかり。命を助けてもらったばかりか、ずっと傍に置いてくださるのですから。

 ねえ、ご主人。もしよかったら私の話を聞いてくださるかしら? ……ありがとう。少し、長くなりますけれど。

 私は元々、裕福な家の娘でした。

 お金や食べ物に不自由したこともなく、優しい二親がいて、とても幸せでした。今でも目を閉じれば、その頃の幸せな光景を思い出すことができます。

 チェリーブロッサムの大木が町の広場にあって、どこを歩いても花が溢れていました。民家の窓辺や街中にある花壇。風が吹けばいつでも花びらが町を駆け抜けて、甘い花の匂いがしました。

 幼い頃の思い出は、いつも匂いから思い出します。

 花の匂い、広場にあったパン屋さんの匂い、海辺の潮の匂い。焦げそうな太陽の匂い。あちこち走り回って、よく母に叱られ、お洋服の裾を直してもらっていました。懐かしいわ。思い出すだけで、胸の奥が苦しくなります。私はもう、あの場所へ帰ることはできませんから。

 年頃になって、いくつもの縁談が舞い込むようになった頃に、私の生活はすっかり変わってしまったのです。

 両親の勧めで、私は隣町の貴族の方に嫁ぐことが決まっていました。

 でも、私の結婚を待たずに、父が突然の病で倒れたのです。どうやら病の身体を隠して、ずっと仕事に打ち込んでいたらしいのです。

 商売に疎かった母も私も、父の仕事を継ぐことができませんでした。そればかりか、父の元には多くの借金の請求書や賠償請求書が舞い込んできて、そのために事業の権利も財産も根こそぎ取られて、私と母は何もかも奪われて追い出されてしまいました。

 父は知らない間に事業に失敗して、多くの借金をこさえていたのです。とにかく私たちは唐突に、文字通り路頭に迷ってしまいました。家もお金もないのに、多額の借金だけが残されてしまったのです。

 最初、既に婚約していたということで、私の結婚相手の方が、私たち親子を引き取ろうと言ってくれました。

 よい方……。そうね。確かにご主人の言う通り、とても、よい方でした。

 でもねえ、優しさというものは、相手を思いやる余裕が自分にあって、初めて生まれるものではないでしょうか。少なくとも、私はそう思います。

 どんなに人に優しくしたいと思っていても、自分が潰れてまで他人を気遣える人が、一体世界にはどれくらいいるかしら?

 婚約者の方が私たちを引き取ろうとしてくれたのは、ただ婚約という義理があっただけではなかったのです。

 私たちが多額の借金をしていて、父の仕事の権利や財産もみんななくなってしまったと知った途端、彼は私たちを追い出しました。

 あの方はきっと、事業で成功していた父の仕事に関わり、父の死後は当然の権利として仕事と財産を受け継ぐと思っていたのでしょう。

 その方を冷たいと思いますか? でも、稼ぎのない女二人を不自由なく食べさせながら多額の借金まで背負うなんて、並大抵の覚悟じゃ務まりませんでしょう? 無理もないことなのです。その方と私は、縁がなかった。ただそれだけのお話ですわ。

 でも、その後のことを考えたら、それだけで済ませるのは少し、辛いかもしれません。

 食べるものも家もなくなって、困るどころではありませんでした。借家や郊外の空き家などを転々として、借金取りから逃れながら下女として必死に働きました。

 けれど、働いたことのない私なんて全然使い物にならなくって、よく周りから叱り飛ばされました。したこともない仕事は忙しいし厳しいし、怒鳴られてばかりでした。それに、下働きで稼げるお金なんてたかが知れていて、稼いでも返しても、借金は一向に減りませんでした。

 母も刺繍などはできましたから、内職を寝ずにこなして、家計の足しにしてくれました。でも、それで毎日の生活が賄えるものではありません。二人で毎日くたびれるまで働きました。それでも生活は苦しくなるばかり。

 母は無理が祟って身体を壊しました。でも、薬を買うことも、医者に診せてあげることもできませんでした。

 母はそのまま、貧困と飢餓と病に苦しんで亡くなりました。ちゃんとお葬式を出すことすらできません。母の遺体を前に途方に暮れて、泣くことだってできやしませんでした。

 家族も、食べるものも、未来もない。あるのはこの身ひとつと借金だけ。先行きの見えない不安に沈んで、どうすればいいかもわからず呆然としました。

 仕事がどんなに辛くても、こなしていればいつかは終わります。どんなきついことだって、終わりがあると知っているから耐えられるのです。

 でも、借金は黙っていても通り過ぎてくれません。

 いつかは終わるなんて、そんな夢想ができるほど現実は甘くないって、働いているうちに知りましたから。

 いつ終わるかわからないことが、一番辛かった。

 息が詰まって、呼吸をすることが苦しかった。

 朝が来るのが怖かった。今よりよくなることがないってわかっていたから、未来に希望を持てなかったから、否応なしに私を前へ連れていこうとする朝が、とてつもなく怖かったのです。どんなに足掻こうとも、時の流れが止まるなんてことはありえませんもの。

 借金からも、そのときしていた仕事からも、私は逃げることしかできませんでした。逃げることができない現実を抱えたまま。

 夜のうちに、私は誰にも見つからないようにこっそり母の遺体を運んで、海に流しました。

 ちゃんとしたお葬式をすることはできずとも、せめて自分で母をきちんと送ろうと思ったのです。どうにか海に還すことしかできず、私は、やせ細った母の姿が夜の海の中に消えていくのをずっと見ていました。

 悲しくて、悔しくて、惨めで、でもどうすることもできなくて。私はじっと海岸に座り込んで、海を見つめていました。

 長い時間、ひとりで海にいました。

 海の向こうが白み始めて、燃えるような太陽が顔を覗かせても、私はそこにいました。

 太陽のあまりの眩しさに、目が焼けるような心地がしたことを、よく覚えています。眩くて、あたたかくて、何もかも明るみに照らし出す光は、私には強すぎて、痛くて、たまらなかった。

 ねえ、ご主人。心が弱っていると、人は普通の状態では考えないことも、容易に考えてしまえるのですねえ。

 私は立ち上がって、のろのろとした動作で海へ向かっていきました。

 汀を越えて、越えてはいけない一線を越えて。

 足が濡れても、服の裾が濡れても、胸が海に浸かっても、私は止まりませんでした。世界が青く塗り潰され、やがて頭の中が塩辛くなって、私は……。

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