風が生まれる場所

 若葉の匂いを含んだ風が爽やかな、初夏のことでした。

 窓を開けているせいでしょうか、宿の中を通り抜ける風が、とても心地よいです。

 わたしは、使い古されて滑らかな艶が出ている、木製のテーブルや椅子を丹念に拭いていました。

 王都にも初夏が訪れて、過ごしやすい季節になってきたこの頃。そろそろお布団も夏物に変えて、毛布を仕舞いましょうか。王都は他の地域と比べて温暖な気候なので、夏の準備は早いくらいがお客様も喜ばれるようなのです。

 このお仕事を受け継いで数年、そういうことが少しだけ、肌で感じられるようになってきました。

 鳥たちのさえずりが窓を通して聞こえてきます。今日は鳴き方がせわしないような気がします。外で何かあったのでしょうか。

 そう思ったとき、ドアベルが鳴って、お客様が入ってこられました。この宿は予約の必要がなく、いつも飛び入りでお客様がいらっしゃいます。

 お客様は、炎のように赤い長髪を流した男性です。

 生成色、オレンジ色、緑色などで編まれた複雑な文様の、独特な衣服をお召しでした。頭には鳥の羽根飾り。首飾りや腕輪は、色鮮やかな羽根や動物の骨で作られています。

 涼しげな目元のその男性は、海のような深い青の瞳をわたしに向けて、陽気な笑顔を浮かべられました。


     *


 一泊、お願いしていいかな。

 名前はここに書けばいいんだね。

 ……やっぱり、変わった名前かな。失礼だなんて思わないよ。どこで名乗っても、よく言われるんだ。

 格好といい名前といい、周囲に溶け込まないだけで変な目で見られることも多い。でも、この格好が一番動きやすいから、他の服を着る気にはならない。自業自得みたいなものだよ。

 何か冷たいものを貰ってもいいかな。歩きづめですっかり疲れてしまった。

 ああ、僕は見ての通りの旅人だよ。もうずっと昔に故郷を出て、それっきりだ。それ以来、帰る場所のない浮草暮らしさ。これでも世界の色んな国を見て回ってきたよ。ずっと北の、雪の結晶でできた白く輝く森を見た。荒野の果てで、星まで届かせようとした古い塔も見た。永遠に雨がやまない道をひとりで抜けたこともある。

 何か、旅の間で起こった話? よかったら聞きたいって? そうだねえ。色々ありすぎて、何がいいかな。

 ああ、ありがとう。これはブルーマロウだね。

 ……もしかして、ハチミツ入り? やっぱりそうだ。うん、美味しいよ。深い、きれいな青だね。水面へ上がるほど青が澄んでいく。

 そうだ、あの話にしようかな。この青い色を見ていたら、懐かしくなったんだ。

 昔、ここから北方にあった王国を旅したことがあった。

 北の、そのまた更に北にある山に、ある伝説がある。

 世界中の風が還っていって、そしてまた新しい風が生まれて世界中に吹くっていう伝説だ。へえ、ご主人は知っているんだね。まだ伝わっているとは思わなかったよ。けっこう古い言い伝えだから。

 僕はその風の伝説に興味を持って、北の地へ行ってみた。その頃は、まだ行ったことのない場所だったから、いい機会でもあったんだ。

 風が生まれる伝説は、その土地で崇めている霊山で発祥したといわれている。その地へ続く草原からその山を見上げたとき、その伝説は本物なんじゃないかって思ったよ。

 爽やかな青い夏空の下で、薄く雲を纏った山が空を突き抜けるように立っていたんだ。万年雪は空に溶けるように青く染まっていた。霊山はいくつもの峰々を統べるように聳えていて、その猛々しくも厳かに佇む姿に、僕はすっかり圧倒されてしまった。

 風が、吹いていた。

 さらさらと、風を受けて青い草原が波打っていた。

 この風が柔らかくて少し冷たいのは、あの山で生まれたばかりだからだろうか。そんなことをふと思った。

 僕はそこに希望を持った。捜しものが見つかるかもしれないっていう希望さ。でもすぐに打ち消した。そんな簡単に見つかるはずはないってね。だって、長い間世界中を捜してまだ見つからないんだ。

 期待して、やっぱり違って、落ち込むことも多い。だから希望を抱かないように旅をしているのだけれど、ちょっとだけでも、ここなら見つかるんじゃないかと思ってしまったよ。

 いいよ、隠しているわけじゃないから。

 僕が捜しているのは、人だ。

 生きているのか死んでいるのかもわからないけど。

 それでも見つけたいんだ。見つけてどうするか、そんなことはどうでもいい。もういないかもしれないけど、そんなことを考える必要すらない。

 ただ、もう一度だけ会いたい。

 それだけを叶えるためだけに、僕は、ずっと……。

 風の霊山。

 未だ見ぬそこへ、僕は踏み出した。

 歩むごとに、彼女がいるかもしれないっていう希望は消えていく。確かめさえしなければ、希望はどんなに小さくてもなくなったりしないのにね。でも、やっぱり確かめずにはいられなかった。

 霊山から吹く風を崇めて生きている人たちが、霊山の麓にいるらしい。そう聞いていたから、僕はその人たちが住む村へと向かった。

 青く輝く針葉樹の森を抜けて、霊山へと近づいた。

 その村は、風車村という。

 風を神聖なものとして崇め、村に数人もいない風読みの魔法使いたちだけが、風の色を知り、風を操ることができるそうだ。

 小川にまたがる石橋の向こうに小さな村があった。

 そこここに大きな風車があって、風を受けてはゴトゴト回っていたよ。

 村は、霊山から吹き込む強い風を動力にして生活しているんだ。だから風を知る風読み士たちは、その村でとても大切にされていたらしい。

 僕は歓待されたよ。ずっと北にある村までは、なかなか旅人が訪れないらしいから。今までそれぞれ仕事をしていた村人たちがみんな集まってきて、もてなしてくれたんだ。

 村人は、そのほとんどが鳥族だった。

 みんな優しくてあたたかい人たちだったな。

 彼らの濃い青の羽は、ビロードのような光沢があって、霊山の色とよく似てとても美しい。風に乗って軽々と空を飛び、その羽に風を受けることで、人では感じられない微かな環境の変化にも気づくことができるそうだ。……って、僕が自慢することじゃないかな。

 でもほら、これ。彼らから一枚だけ羽根を貰ったんだ。とても綺麗だろう? 霊山と同じ色なんだよ。失くさないように首飾りにつけてあるんだ。

 とまあ、風と森の恩恵を受けながら細々と暮らすこの平穏な村には、そのときちょっとした困りごとがあった。何だと思う?

 それはね、魔力の強い風読み士たちを狙っては襲う怪物が出ることだ。

 一見は小柄な鳥のような姿をしているらしいけれど、竜の仲間で狂暴らしい。その瞳に魅入られてしまえば身体は石に変わり、石にされた者はそのまま食われてしまう。既に何人かの風読み士が奴に食われていたんだ。

 ああ、ごめん。急におそろしい話を聞かせてしまって。本当に、続けても大丈夫かい?

 僕が来た夜、歓待の宴が村長の家で催された。

 木の実や摘み立てのベリー、黒パンに山羊のチーズ、焼いた川魚。村が大変なときなのに、ごちそうを用意して歓迎してくれたんだよ。

 たくさん食べて、夜も更けて、泊まる部屋でくつろいでいた僕の元に、ひとりの青年が来た。

 一番若い風読み士のジョシュアだ。

 鮮やかな青い羽を持つ彼は、普段は穏やかで根の優しい青年だ。そんな彼が、思い詰めた表情で部屋を訪ねて、こう言った。

「レーゲンフルーフ殿、貴方はただの旅人ではありますまい。貴方から感じる強い魔力は、貴方が名のある魔法使いであることを示している。どうかあの怪物をともに討ち、村に平穏をもたらしてはくれまいか?」

 ジョシュアは、仲間を次々と食らうあの石食いの怪物が許せないと言った。けれど天敵でもあるそいつに、風読み士だけでは敵わないと悔しそうに語った。

 石食いは霊山近くに棲んでいて、目にしたものをあっという間に石にしてしまう。それに対して、風読み士たちの唯一の武器である風の魔法が一切効かない。だから外から来た僕を彼は頼ったのさ。

「……僕は、君が思うような強い魔法使いじゃないさ。魔法は苦手でね。昔から、動物の扱いや剣しかできない落ちこぼれで、誰も僕には目をかけなかった」

 僕はね、故郷の仲間からすれば役立たずだったんだよ。魔法使いの村なのに、魔法が苦手だったから。

 故郷のためになることは何ひとつできなかったよ。何も守ることができなかった。

 そんな僕だけ、生き延びてしまった。

 僕だけが、この世界でずっと生きているんだ。

 僕は腰の剣に手をかけて、ジョシュアに言った。

「こっちの方なら自信はある。それでもよければ、村のために力を貸そう」

 突然訪れた僕を歓迎して、色々もてなしてくれた村に何か恩返しがしたかった。僕にできそうなことだったら、危険でもやってみようと思ったんだ。

「ありがとう! ありがとう、レーゲンフルーフ殿!」

 命が危険に晒されることは、頼んだジョシュアもよくわかっていただろう。だから僕の手を取って、噛みしめるように礼を言ってくれたんだ。

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