試読「旅の宿トマリギ亭奇譚 海の瞳の星」
葛野鹿乃子
序
丘の上に立派なお城がある、石造りの城下町。
ここは、果てさえわからない広大な世界の中でも、特に大きな町・王都です。
温暖な気候に恵まれたこの町は、いつもあたたかな風が吹き、石畳の道を柔らかな日差しが照らしています。
市場や公園がある大通りはとても賑やかですが、表通りを外れると、町は民家が密集する静かな街並みに変わります。そんな裏通りの一角に、ひっそりと佇む小さな宿屋がひとつ。
ここがわたしのお店、旅の宿トマリギ亭。
落ち着いた色の煉瓦で造られた、二階建ての建物です。
窓の吊り鉢や、お店の前の植木鉢には、ピンク色や黄色の花が、鉢から溢れるように咲いています。
旅の宿の看板がなければ、ただの民家に見えてしまうでしょう。それくらい小さなお宿です。
このお店は従業員さんがたくさんいるような、大きな宿屋ではありません。どちらかというと、時代に取り残されたような古さがあります。ここは何十年も前からずっと、この場所に立ち続けている古いお宿なのです。
ですが、お客様が古さよりも落ち着きや居心地のよさを感じていただけるように、宿は隅から隅まで整えています。
床もテーブルも丹念に磨き上げ、廊下にもお部屋にも塵ひとつありません。柔らかな羽毛を使った寝具は特注の品で、ちょっとだけ当店の自慢でもあります。
窓から日の光が差し込むと、あちこちに飾った観葉植物やお花が、宿にあたたかみのある空間を作ってくれます。
明るい色の木を基調にした内装とも相まって、わたしはけっこう気に入っています。
お店は二階が客室で、一階は小さな飲食スペースになっています。お客様にお食事を出しているだけの狭いものですが、お料理はいつも好評をいただいています。
曾祖父の代から受け継いできたお料理やお茶の味はお客様に愛され続け、表通りの大きな宿には泊まらず、わざわざわたしのお店に来てくださるお客様もいらっしゃるのです。
特に、窯で焼いた自家製のパンや、農地から送られてくる新鮮なお野菜やお肉で作る特製スープは、この宿だけの特別メニューです。
もちろん、お茶やコーヒー豆や、お酒も幅広く揃えていますし、この宿だけの特製ブレンドもございます。
王都を訪れる方は、どこかでこのお店の評判を聞かれるのでしょうか、お客様は絶えずいらっしゃって、客足の途絶えることなくこのお宿は今に続いています。といっても、お一人、お二人が日にいらっしゃる程度ですけれど。
お客様はお食事の席でくつろぎながら、カウンターにいるわたしに、色々なお話を聞かせてくださいます。旅先であった冒険やお仕事のお話、故郷のお話、出会った人や別れてしまった人とのお話……。
宿を細々と営むわたしは、王都から一歩も出たことがありません。遠い町や海の向こうのお話を聞くのは、わたしの密やかな楽しみでもあるのです。どんなお客様のお話も、わたしにとっては世界そのものです。わたしはいつもお客様のお話を通して、行ったことのない世界の姿を見ているのです。
お客様の中には、魔法にまつわるお話をしてくださる方もいらっしゃいます。時折、魔法使いご本人がお泊まりになることもあるのです。
自然の力を借りて奇跡を起こす術・魔法。
あらゆる魔法を扱い、豊富な知識を持つ方々が魔法使いです。魔法使いの数は決して少なくありませんが、素養のある方しか扱えないといわれています。
魔法使いは、この世界に生命が誕生したときから存在していて、動物や植物の声を聞き、彼らを助け、そして助けられ、自然と寄り添いながらずっと生きてきたのです。
魔法使いも、人ではない生き物も、理由があって表通りの宿には泊まれない方も、うちは受け入れています。
――疲れた旅鳥が、羽を休めるための止まり木。
よくそう言って旅人を受け入れた父と、世界の理を守っていた魔法使いの母。わたしはそんな二人の娘。
どこか遠い存在だと思っていた魔法や、魔法使いの存在は、実はわたしのすぐ傍にあって、いつもわたしを見守ってくれていたのです。
それを知っているからこそ、わたしはトマリギ亭の主人として父の思いを受け継ぎ、この宿を守り続けていくことができます。そして変わらず、トマリギ亭には様々なお客様が訪れるのです。
これは、宿を営むわたしが出会った、いくつかの歓びと悲しみの記憶。
悲しみから生まれる奇跡のお話です。
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