第37話 ユキ視点 『サヨナラの時間』


……ユキ……ユキ……

…………ユキ……


 白い霧の中、私を呼ぶ声がする。

 私は素足のまま声のする方へ、足をすすめる。

 ひんやりとした地面の感触。

 

 不意に白い霧が晴れて、銀木犀が見えてきた。銀木犀の下には一人男性が立っている。後姿だって間違えない。


 ―― 関川くんだ!


 私は嬉しくなって、走り寄る。関川くんの背中から手をまわしてぎゅっとだきつく。頬に感じる彼の背中。どれだけこの瞬間を待ち望んでいたんだろう。


 嬉しすぎてぎゅっと手に力をいれて、自分の体を密着させる。


「ああ。ユキか」


 私の右手にそっと関川くんが自分の右手を添える。そして、後ろを振り返る。はにかんだように、小さく笑う。そしてまた、木を見上げる。


 そのしぐさひとつひとつが嬉しい。


「うん! やっと会えたね!! 関川くんに会えたってことは大河内教授の手術うまくいったのかな?」

「いいや。そうじゃない」

「え? でも……」

「そんな話はどうでもいいんだ」


 関川くんが少しだけ声を荒げて、体を少しだけかたくする。聞いちゃいけないことを聞いてしまったようで、私まで体をかたくしてしまう。


 不意に関川くんが私の右手を引っ張る。今度は私が後ろから抱きしめられる形になった。関川くんがためらうようにそっと私の頬をなぜると、また、木を見上げる。


「やっぱりこの銀木犀では、だめなんだ」


 関川くんに言われて、私も上を見上げる。


 ひらり……ひらり……。


 銀木犀の花が上から雪のように降ってくる。


 ひらり……ひらり……。


 私は落ちてくる花を手に受けとめる。4枚のちいさな花弁がくるりとまがっていてかわいい。私の大好きな花。関川くんとの思い出がたくさんつまった花。

 私は、首を少しまわして、関川くんの方を見る。関川くんが小さくため息をついて首をふった。


「フィボナッチ数列を使って、枝をのばしても、どうしても紛い物まがいもの感がぬぐえない」

「そう? とても綺麗よ」


 関川くんが少しだけ笑って、人差し指でそっと私の頬をなぜる。


「ユキは何が好きなんだい?」

「え? 私の好きなのはずっと関川くんよ」


 少しだけどきりとして答える。関川くんが小さく笑ったような気がする。くっついているから、関川くんがわずかに肩を揺らすのがわかった。


「そうじゃない。僕が脳の研究が好きなように、ユキだって好きなことがあるだろ?」

「あっ。そっちね」


 ―― 勘違いだった……。


「そりゃ、本を読んだり、美味しいものを食べたり、花を育てたりするのは好きだわ。でも――」

「でもって、それは、ユキが大切にしてきたものだろ? ほら、見ててごらん」


 関川くんが私から手を放してパチンと指を鳴らした。とたん、目の前の銀木犀は消えてしまい、上から降っていた銀木犀の花が雪にかわる。


「魔法みたい……」

「計算式を変えただけだけだ。この雪は濡れない」


 ―― 濡れない?


 私は手を広げて、雪を受け止める。確かに、雪は消えるけれど、私の手のひらは冷たさを感じなかったし、水滴もつかなかった。 


 関川くんがもう一度パチンと指を鳴らすと、銀木犀の木が再び現れた。今度は一本ではなくて、何本も並んで道を作っている。


「コピーしたから基本同じ形だ。たまに、違う木が立っているが、それも計算された変化だ。いくら真似ても本物にはなれない。

 

 一番の課題は、銀木犀に限らず、この仮想現実では匂いがない。匂いというものは、鼻についた匂い成分を脳内で変換するものだからな。人それぞれというのが難しい。匂いがなければ、食べ物も美味しくない。感情のコントロールも難しい。


それが、スーパーコンピューター那由他が提供できる仮想現実の現状なんだ」

「そうなの?」


 私はまわりを見回して、おもいっきり息を吸い込む。


 ―― 確かに、何も匂わない……。


 私は、なんとなく怖くなって、ふるっと肩を震わせた。


「仮想現実の世界は、データで構築された紛い物まがいものだ。ユキはこの世界に囚われることはない」

「でも、ここには関川くんがいるわ」

「……、ユキは言ったよね? 私には私の幸せがあって、それを決めるのは自分だって」

「……言ったわ……」

「ユキの幸せの中には、人とのふれあいとか、植物や食べ物も含まれているはずだ」

「でも、……それは、……」

「僕はいつも自分のことしか見てこなかった。ユキが雲上くものうえ図書館で働きたいとは知らなかったよ」


 関川くんの口角が一瞬あがった。


「……」

「だから、ちゃんとサヨナラをしようと思ってね」


 関川くんがそっと右手を差し出した。


「今までありがとうユキ、君といてとっても楽しかった」


 そう言って、関川くんは穏やかに微笑んだ。私は差し出された手を見つめる。その手を掴めばサヨナラ。頭でわかっていても、どうしても関川くんの手を握れない。


 不意に、関川くんが私を引き寄せて、自分の腕の中に閉じ込めた。


「こうやって、君を僕の檻の中に閉じ込められたらどれだけ幸せだろう」


 関川くんが顔を近づけて、唇を重ねた。深くて熱いキスに頭がくらくらしてくる。狂おしいほどの想いが溢れてくる。


 んッ……。 だいすき……。


 思わず、吐息がこぼれる。私が、関川くんのシャツに手をかける。私の手をにぎると、関川くんが慌てて私から離れた。


「……でも、それは出来ない」

「なぜ?」

「僕が道をたがえてしまったから。この世界にはユキの幸せがないから」

「そ、そ、それじゃあ、関川くんがもとに戻るっていうのは?」


 関川くんが首をふった。  


「どの体に? あの体はフタヒロのものだ。集積回路自体が神経と癒着しているだろうから、無理に取り出そうとすれば破損する可能性がある。


 僕の研究はここにいてもできる。ここでしかできないこともたくさんある。


 だから、僕は、フタヒロを破損してまで元の世界に戻りたいとは思わない。こう見えても、僕はフタヒロのことを人間として気にいっているんだ。ユキもそうだろ? 


 だから、やはりサヨナラだ」


 関川くんが私の顎をくいっと持ち上げて、宝物に触れるようにそっと私の唇に、触れた。 


「でも、……、でも、私、関川くんのこと、まだ……」

「癪だけど、ユキはフタヒロのことが大好きなんだろ? 癪だけど」


 口がとんがっている。可愛い。


「ふふ。今、癪だけどって二回言ったわ」

「百回でも、千回でも言ってやる。癪だけど、フタヒロもユキのことが大好きだ。僕に体を返そうと悩むくらいにな。癪だけど」

「ふふふ」

「二人で僕を思い出しながら抱き合うがいいさ。癪だけど」


 関川くんが真っ赤な顔をして、私の頬をつねる。


「……、ごめんなさい。私……」

「いや、謝るのは僕の方だ。だから気にしないで、いや、気にして、……、でも、僕のことは忘れて、いや、忘れないで……、あー、もう、僕はどうしたいんだー」


 珍しくあーだこーだとひとりつっこみをしている関川くんを見ていたら、自然とおかしくなってきた。私は涙を拭きながら笑い出した。


 そんな私を見て、関川くんが笑い声をあげると、空を見上げた。

 

「おや、銀木犀の花の葬列も終わったようだ。僕もそろそろ行かなきゃ。最後にユキの笑顔が見れて、僕は嬉しいよ。データセーブして、取っておくかな……。じゃあ。またな」


  関川くんがそっと右手を差し出した。私はその右手を握り返す。


「うん。ありがと」

「こちらこそありがとう」




 銀木犀が並ぶ道を歩いていく関川くんの背中を見えなくなるまで、見送った……。







……ユキ……ユキ……

…………ユキ……


私はそっと目を開ける。白い天井。消毒薬のにおい。そして、私の手を握るよく知っている手。さっきサヨナラのために握った手と同じ感触。


 ―― でも、違う。


「ああ! 気がついたかい?」

「……ここは……?」

「病院だよ」

「……、ごめんね。フタヒロくん」

「ユキは、なんであんな無茶をしたんだい? ボクが二尋に体を返せばそれですんだんだよ? そんなにも二尋のことが……」


 ぼさぼさの髪。涙にぬれている顔。無精ひげ。


 ―― こんなに……。

 

「ごめん。ありがとう」


 私は壊れた人形のように何度も何度も『ごめん』と『ありがとう』と言い続けた。

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