第27話 フタヒロ視点 『サナトリウム』③

 ―― 脳に刺激? 何の話だ?


「刺激?」


 ユキも引っかかりを覚えたらしく、首をかしげている。


「……、そうこうしているうち、しばらくして、ハナの妊娠がわかったの。でもね、私、どうしても、堕胎手術にサインすることができなかった……」


 ユキの腕の中のイロハがびえーんと泣き出した。おそらく、イロハを抱くユキの手に力が入ったのだろう。

 ハナの右手の人差し指がぴくりと動く。

 ユキとハナの母親はそれに気づかない。ハナの母親がユキからイロハをうけとり、そっとゆすってあやし始めた。


「明日、目が覚めるかもしれない、明日は、明日はって、思い続けるって大変なのよ」


 ひとりごとのようにしゃべり続ける。


「そりゃ、最初は、生きてさえいればそれでいいと思ったわ。でも、でも……、ハナの顔を見るたび、話がしたい。声が聞きたい。触れることが出来るのに、心が通じないってことがどんな絶望を生むか知っている? どんなに呼びかけても、何の反応もないのよ。幸せな貴女にわかるはずないわね。そうよ。絶対にわからないんだから」


  ハナの母親が吐き捨てるように言い切る。

 ボクは思わず、一歩足を踏み出した。それに気がついたユキが小さく首を振る。


「大河内教授が言ったのよ。『刺激を与えれば状況が変わるかもしれない』って、だから、私了承したのよ。悪い? それって悪いことなの??」


 イロハがハナの母親の声にびくっと震えて、びえ、びえっと泣き出した。

 ハナの右手の人差し指がぴくりと動く。


 ―― イロハの声に反応して、ハナの手が動いた??


 あまりにもかすかな動きだから、ユキもハナの母親も気づかない。

 

「イロハがね、ハナのお腹にいると知った時、神様っているんだって思ったわ」


 ハナの母親はイロハをぎゅっと抱きしめた。イロハが泣き止んで、もぞもぞっとする。


「私、この子に出会えて、世界が変わったの。嬉しかったぁ。なのに、倫哉ったら『ハナが穢されたのに、何を言ってんだ!』って怒るのよ」


 イロハは「あむ」「ばああ」と小さく言葉を発しながら、ハナの母親の頬を触る。


 ―― 慰めているのか?


 ハナの母親は、イロハをパトラッシュのそばに座らせた。パトラッシュは自分のもふもふしたしっぽをぱたりぱたりとさせながら、イロハの相手を始める。

 

 ハナの母親はイロハの頭とパトラッシュの頭をなぜるとゆらりと立ち上がった。


「倫哉ったらね、『相手は誰だ!!』って怒鳴るのよ」

「……深山くんは、ハナのことをすごく大事にしていたから、だから、なおさら許せなかったんだと思うわ」

「神様が私とハナと倫哉のためにイロハを連れてきてくれたのに、倫哉ったら、DNA鑑定をしたのよ。そんなこと、私、全然望んでいないのに……」


 頬に手を当てて、ため息をつく。ユキはハナの母親の言葉に、大きく頷いている。 


「それで、大河内教授だとわかったのね」

「……、倫哉は大河内教授をとても尊敬していたの……でも、裏切られたってすごく怒って……、あの時の倫哉は怖かった……、本当に怖かった……」


 ハナの母親はその時のことを想いだしたのか、両手で自分を抱きしめて震えていた。しばらくの間、視線をさまよわせていたが、入り口の扉に立つボクと目が合った。ボクをしっかりと見据えてきた。


「あれから、電話してもつながらないし、ここにも来なくなっちゃったの。大河内教授に怒っている倫哉が何をするかわからないと思うと、心配で、心配で……。どうか、倫哉に馬鹿なことはしないように言ってほしいの」

「馬鹿なこと?」


 そのような抽象的な支持を出されてもボクにはわからない。

 少し首をかしげて、ユキをみる。ユキが助け舟を出してくれた。


「深山くん、昔とずいぶん印象が違って、つかみどころがないような態度ばかりとっていたから何があったのかしらと思っていたけれど……、ねえ、フタヒロくん、フタヒロくんは、よく深山くんといるんでしょ?」

「ああ」

「じゃあ、深山くんが大河内教授を脅したり、傷つけたりしようとしたら止めることはできる?」

「可能だ」

「ということよ。だから、おばさま、安心して」


 そう言ってユキはハナの母親をそっと抱きしめた。




「……、しかし、大河内教授は機能しない脳には興味を示さない。それに、二尋が持っている情報の中に、被験者や学生と性的関係になるというような事例はない」

「でも、イロハちゃんの父親は大河内教授だって」

「なにか理由があるはずだ」


 ボクは、病室からでてから、話を始めた。ユキが病室の方を振り返る。ハナの母親は過度のストレスがかかっていて正常な判断に欠ける部分がある。不確かな情報を提示するのは得策ではないと判断したからだ。それに……。


「それから、植物状態の女性を観察したが、赤ん坊の泣き声にかすかに反応が見られた。単なる反射ではないような気がする」

「そうなの?」

「詳しく調べなくては断定できないが、最小意識状態かもしれない」

「最小意識状態?」

「ああ。植物状態からわずかに回復している状態」

「それをなぜ、あの場で言わなかったの?」


 ユキが少しだけ首を傾ける。ボクはユキから視線をそらして床を睨みつけた。


「ユキだって、二尋の精神がスーパーコンピューターの中にあって、二尋と触れ合えない」

「怒ってくれたの?」

「……、そうか、ボクは怒っていたんだ」


 あの母親の言葉で、頭の中がかあっと熱くなっていた。それって、怒りだったんだ。ボクは自分の心の状態を理解する。


「ふふ……嬉しい」


 ユキの言葉にどう答えていいかわからず、ボクはコホンと咳をして、話題を変えた。


「植物状態の女性の件だが、妊娠すると脳の構造が変わるからそれを期待した?」

「そんなことがあるの?」

「ああ。特定の灰白質が減少する」

「じゃあ、ハナの治療のために?」


 ユキの言葉に期待がこもる。ボクは首を振った。


「大河内教授は良心や善意を持ち合わせていない」

「じゃあ……」

「大河内教授は、脳と人工知能の置き換えを秘密裏に行ってる。ボクと二尋がいい例だ。脳が正常に機能しない場合、ほら、ボクのように人工知能を移植した場合を想定して――、それでも妊娠が可能か知りたかったのかも」

「なぜ?」

「わからない」

「そっかぁ」


 ユキも唇を尖らせた。ボクだってわからない。もしかしたら、本当にハナをレイプしたのかもしれない。


「おそらく、大河内教授は深山研究員に人工知能の提案をしたはずだ。恰好の被験者だからね。でも、深山研究員は断っていると思う」

「なぜ?」

「さっき、あの母親が言っていたじゃないか。あるときから、大河内教授一人で来るようになったって」

「そっかぁ」


 何度も「そっかぁ」というと、ユキは黙って歩きだした。何か考えているようだったけれど、ボクには教えてくれなかった……。





 サナトリウムを出て、ユキが大きく息を吸った。そして、手をぐるぐるっとまわして、両手で自分の頬を叩いた。そして、ボクの背中をひとつポンとたたくと、車に乗り込んだ。ボクも慌てて助手席に乗り込む。


「じゃあ、今日は、奮発して、絶景が見れるって口コミがあった露天風呂付き客室を予約したのよ! 楽しみーでしょ? 夕ご飯はビーフシチューを頼んだからね!」

「ビーフシチュー? それって、前にユキが……」

「あー!あー! それ以上は言わないこと! 本当においしいビーフシチューってどんなものか教えてあげる」


 ぷいっと頬を膨らませると、ユキはエンジンをかけて車を走らせ始めた。


 



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