第11話 問④答え フタヒロ視点『ボクの特別な日』
日曜日、午前十時四十五分、ボクはゲートウェイ駅の中央改札にある時計塔の下に立っていた。空には雲はなく、体感温度は二十度といったところか。少し汗ばむのは暑さのせいだろう。ボクはオフホワイトのシャツの袖口を一折する。
ユキとの待ち合わせは午前十一時。あと十五分後ということになる。一秒の長さがセシウム原子時計からストロンチウム格子時計に代わっても、日常生活にはさほど影響がなかった。それなのに、今、ボクが感じる一秒は、とても長く感じる。ボクは、釈然としない思いを抱えながら、新しく投稿された論文に目を落とす。
「おまたせ! フタヒロくん!!」
その声で、慌てて顔をあげると、ユキがそばに立っていた。いつもはポニーテールにしている髪をおろして、ふんわりと片方寄せして編み込まれている。目元にはピンク色のアイシャドーが塗られている。いつもと違う印象に、ボクは戸惑う。
「どう? どう? 新しいワンピース、着てみたの!!」
ボクの前でユキが一回転をする。ふんわりとワンピースの裾が揺れる。
「……今日は特別な日だからね。気合い入れちゃった!」
「特別?」
―― 特別な日?
―― ユキにはランチをして水族館に行きたいと言われただけのはず。
「意味が分からない」と言おうと口を開きかけて、ふと、先日の深山研究員と二尋とのやりとりを思い出す。たしか、あの時、二尋は、「理由を聞く」と言った。ここで、ボクが「意味が分からない」と聞けば、二尋と同じになるのではないか。
心臓がある部分がちりっと痛む。まただ。原因不明の電気信号。ボクはそっと、胸を触って息をそっと吐く。ボクはユキを問いただすことをやめ、ユキが何が特別なのか言い出すのを待つことにしようと決めた。
「そ。特別な日!」
ユキはにっこり笑って、ボクの手に手を絡ませた。
「何を食べる? フタヒロくんって、好き嫌いとかあるの?」
「好き嫌い?」
「食べ物よ。うーん。例えば、玉ねぎが嫌いとか珈琲が好きとか……」
「ボクは……玉ねぎとグリンピースが嫌いで珈琲が好き」
『玉ねぎとグリンピースが嫌いで珈琲が好き』という情報は二尋のものだ。ボク自身は、玉ねぎもグリンピースもどんな味なのか知らない。珈琲以外は飲んだことがないから比べようがない。
ユキは立ち止まると、ボクの顔を覗き込んだ。いつもはリップだけの唇にラメ入りの口紅がついている。ユキの唇の端が少しあがった。
「それって……。違うよね? じゃあ、今日はパスタを食べに行きましょう!! 」
◇
今、ボクの目の前には、若草色したクリームがかけられているパスタがあった。ユキがニコニコしている。
「美味しいね!」
そうユキは言うけれど、ユキが作ったビーフシチューのような脳震盪のようなひどい頭痛はおきないし、苦くもない。これを美味しいというのか疑問に思いながら食べ進める。ユキが嬉しそうに笑っているから、美味しいという言葉のもつ意味は一つではない、そう結論付けることとした。
食後に、ユキが、片目をつぶって自分の飲み物―ハーブティとボクの飲み物―珈琲を交換した。
「間接キスみたいでしょ?」
ボクは仕方なく、ユキが飲んでいたハーブティを口に入れる。草臭さが口の中に広がる。ボクは思わず顔をしかめた。すると、ユキがハーブティと珈琲を交換する。
「ふふふ。わかったわ。フタヒロくんは玉ねぎとグリンピースは嫌いじゃないけど、ハーブティは嫌いなのね」
「?」
「さっき、食べたパスタ、玉ねぎとグリンピースのポタージュスープパスタだったのよ」
ユキが茶目っ気たっぷりに笑った。
◇
「ねえ。フタヒロくん、クラゲって脳がないんだって知ってる?」
「ああ。クラゲやイソギンジャクといった刺胞動物は脳も心臓も内臓もない」
「でも、生きている」
「ああ」
「心はあるのかな?」
「さあ? 人間には人間以外のものと意思疎通をするすべを持っていないから、答えようがない」
「そうね……」
「死んだら、海に溶けてしまうのよね」
「……」
「何も残さないなんて、ずるいね……」
ボクとユキは手をつないで、長い間、何百ものクラゲがふわふわと漂っている大きな水槽を眺めていた。
「ユキ……」
別れ際、ボクはユキの背中に声をかけた。
「どうしたの? フタヒロくん」
ユキが振り返る。
「今日は、いったいなにが特別だったのか、教えてくれるかい?」
「そうね。今日は、あなたの心に残るような特別な日にしようって決めてきたの」
「ボクの心に残る?」
「そ。でも、それはあなたが決めることよ。じゃあ、またね!!」
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