第9話 問④二尋視点【今日は何の記念日?】
記憶というものは実体のない幽霊だ。いくら覚えていようと思っていてもそのうちあやふやになって泡のように消えてしまう。
昔、忘れることも大切だ。もう戻らない過去をいつまでも思い出したところで、つらいだけだから、そういって悲しく笑った女性がいた。
ユキの甘い息遣いも、柔らかくて滑らかな肌も、今の僕にはその時の感覚だけしかない。人間は自分の肌で、自分の耳で感じないと満足できない強欲な生き物。どれだけ切望しても、どれだけ想像しても、僕の心は満たされない。父さんの死で母さんが心を失った理由が今ならわかる。
意識をコンピュータにダウンロードしたとしても、肉体を失ったとしても、ユキへの想いはかわらない。
キスした時のユキの少し潤んだ目。僕の唇に触る柔らかな感触。思い出せばだすほど、飢餓感が増す。
フタヒロを見る目は、僕に向けられていたものだ。
フタヒロに触れる手の刺激は、僕の脳に伝えられていたものだ。
いらだちがつのる。
パチッ……。
僕の脳の電位をトレースするための微細な外部刺激がする。人間の脳にある神経コードのたいていは解明されたとは言え、人間の脳はまだまだ分からないことだらけだ。僕は気持ちを落ち着かせて、モニターに意識を向ける。画面の向こうに見えるのは、フタヒロと金髪の大学院生 ―― 深山だ。プログラミングの腕はいいのに、何事もちゃらんぽらんにみせている。案の定、深山はだらっと椅子の背に片手をかけて、足を投げ出している。そして、唇の端を少し上げてにやにやしている。背にかけていない方の手で首から下げている自分のIDカードを画面に触れさせると、キーボードを操作する。彼もまたこの極秘プロジェクトの一員だった。
大きな画面に、那由他の中の僕が映し出された。
「なあ。関川。この
親指でフタヒロを指す。差されたフタヒロの眉がきゅっとよる。
「シッテル」
深山がデータをみてにやりとした。僕が冷静さでいようとしたのがバレたらしい。
「やっぱ、この神経コードs5p8は、
「フン」
「そう怒るなよ。怒るとデータに残るぜ」
深山が椅子に座りなおすと手をのばして、こつこつっと脳波を映し出している画面を軽くたたく。
「……」
「怒りはほかの感情よりも電位差が若干大きいんだ。ま、アルバイトの学生には読み切れないけどね」
「何シニ来タ?」
「お前のご機嫌伺いに決まっているじゃないか。関川も一人ではさみしいだろうと思ってね」
「ハ? チガウダロ?」
「実を言うと、
フタヒロが深山を睨みつける。
「教授ニハ報告シタカ?」
「するはずないじゃん。あんなクソ野郎」
深山にしては、暗い目をして表情を消した。そうだった。深山は大河内教授のことをひどく嫌っていた。確かに、教授は学生の論文でさえ、ファーストオーサーは自分だ。政府や企業とも裏でつながっている。研究者としてどうかと思う分は多い人だった。しかし、深山の理由は他にありそうだ。僕が黙っていると、深山がにへらと笑った。
「それよりさぁ。聞いてくれよ。オレさ、最近、ハルちゃんって子とつきあいだしたんだけどさぁ……」
「ハル?」
僕は聞き覚えのない名前だ。
「ああ。この前の日曜日、彼女との久しぶりのデートに行ったんだ。それでね……」
と深山が語りだした。
◇
待ち合わせは駅の中央改札にある時計塔の下。
いつも人がたくさんだけど、ここなら間違うことはない。
彼女との約束の時間は午前十一時。今はその十五分前。
これから一緒に早めにランチして、近場の水族館に行くデートプランを立ててある。
ほどなくして彼女がやってきた。
いつもはジーンズ基本のラフな格好がほとんどなのだが、今日は春らしい色のワンピース。
普段は口紅ぐらいしかつけないのに、今日はメイクもバッチリしている。
か、かわいい……
あんまり見つめ過ぎていたのだろう。
彼女はちょっと赤くなる。
「あ。やっぱり気付いちゃいました?」
え? 何に? 何も気づかなかったけど?
「……今日は深山先輩との特別な日ですからね、気合い入れちゃった!」
……今日ってなんか特別な日だっけ?
……なんだろう? さっぱり分からない。
正直に言うべだろうか?
それとも会話しつつ探るべきか?
◇
「でね、僕は正直にさっぱりわからないって言ったんだ。そしたら、ハルちゃん、機嫌損ねてね。水族館にも行かないで帰っちゃったんだ。なあ、関川だったらどうした? やっぱ、ユキさんに探りをいれた?」
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