夏 陽炎と缶ジュース

「あー、あっちー……」

 里浦深雪はそうひとりごち、Yシャツの襟元をはためかせて温い風を服の中に送った。

 制服が夏物になったものの、押し寄せる熱気は蒸すようで、どんな格好をしてもちっとも涼しくならない。おまけに席が窓際だから、昼休み中の直射日光は、容赦なく深雪と机の上を熱している。

 深雪としては、暑いときは暑いなりの格好をしたい。

 シャツが透けるとか何とかいって中に着ているインナーは脱ぎたいし、スカートももう少し短くした方が絶対に涼しい。ソックスだってない方がましだ。

 もちろん学校でそんなことをすれば、今まで深春が作り上げてきた「里浦深春」像がクラスで崩れ落ちるだろう。昔深雪が好き勝手したとき、深春は深雪のかわりに先生に叱られ、「オトコオンナ」と後ろ指を差されて、大人から問題児扱いされた。

 深春はそれを気にして、学校ではあまり深雪に身体の主導権を渡さないようになった。

 渡しても「大人しくしてて」と言うようにもなった。そのことについては深雪も反省していて、もう学校や人前で変なことはすまいと誓っている。

 だがこの暑さは、そんな誓いさえ忘れてしまいたくなるほどだ。

 汗が気持ち悪い。脳の芯まで蒸し焼きになってしまいそうだ。こんなときにまで、深春は首に纏わりつくようなボブヘアを流したままにしている。首だって髪を上げれば少しは涼しくなるだろうに、深春のこだわりはよくわからない。

 たまにこうして身体を借りても、深雪にはそんなにやることがない。

 深春と深雪は性格が正反対なので、深雪が気ままに振る舞えばクラスで目立つことは必定だった。精々、理数系の授業の予習や宿題を手伝ってやる程度だ。

 以前深春が体育の授業でこけそうになって、助けるためについ身体を乗っ取ってしまったときがあった。深春がそのまま怪我をするといけないと思って深雪が体育を受けると、つい楽しくて誰よりも早く走り、球技では誰よりも多く得点を取っていた。

 あのときは我ながらに素晴らしい戦果だと思ったのだが、気がつくと周りが唖然とした顔をしていた。やりすぎた。後から深春に謝り通した。

『ね、深雪、暑かったら自販機とか行ったら? わたしのお財布使っていいから』

 ぐったりとした様子で席に落ち着いている深雪を見かねて、深春が声をかけてきた。深雪は少し頭を上げ、小声で返す。

「マジ? それじゃせっかくだから何か買うよ」

 深雪は鞄の中から深春の財布を取り出し、廊下へ出た。

 昼休み中は学校内も賑やかで、そこかしこでお喋りする女子や校庭で遊んでいる男子が窓から見える。生徒がはしゃぐ声や笑う声が大きく反響する廊下を通り抜けて、深雪は自販機のある場所まで歩いていく。

 深春は昼休みでも教室や図書室で本をじっと読んでいるような女子だ。普通に話す友達はいるようだが、必要以上に話しているところをあまり見たことがない。こうして笑い声の中をひとり通り抜けると、まるで自分が透明人間にでもなったようだ。

 誰とも話さずひとりで過ごす。多分、深春はそれでも十分だと考えているのだろう。

 深春は昔から寂しがり屋のくせに、その穴をいつも深雪と一緒にいることで埋めていた。

 だから外に友達を作らなくても平気らしい。深雪もそうだった。お互いが傍にさえいれば、きっと深雪も深春も、誰とも親しくならなくても生きていける。

 小学生の頃は、深春も友達を作って外で遊ぶことがよくあった。深春も楽しそうに鬼ごっこや缶蹴りをしていたが、いくら他の子と遊んでも、深雪と遊ぶ時間も同じだけ取ろうとしていた。同じように鬼ごっこなんてできっこないのに、深春は深雪と遊ぼうと、お互いが隠したものを探す宝探しゲームなんかを考えてはよく一緒に遊んだ。

 でもそうやって遊ぶために、深春は他の友達と遊ぶ時間を減らした。そうやって遊びの誘いを断るたびに「つまらない!」「一人遊びしている変な子」と文句を言われた。

 深雪はそれを深春の目を通して見ていたから『俺のことは気にしないで、遊びに行けよ』と言ったのだけれど、深春は頑としてきかなかった。

「わたしには深雪がいるからいいんだもん!」

 深春はそう言って、仲良くなった子と遊ぶことをしなくなっていった。

 思えばあの頃からだ。深春が深雪以外とほとんど遊ばなくなったのは。

 深雪は人の少ない校舎裏の自販機に向かった。旧校舎との渡り廊下の脇にある自販機で、何故こんなところにあるのかは謎である。他の生徒はもっと使い勝手のいい玄関脇の自販機や売店を利用するので、この自販機にはあまり人が来ない。

 深雪はアイスコーヒーを買って一気に飲み干した。

「はあー、生き返るぜ」

 自販機のある場所はちょうど日陰になっているので、教室にいるより涼しく感じた。

 周囲に人もいないので思いきり羽を伸ばせる。

『ごめんね、深雪。身体、貸しても何もさせてあげられなくて』

 深雪は空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨てた。

「そんなこと気にするなよ。この身体は深春のものなんだから」

『違うよ。深雪のものでもあるのよ』

 違わない。この身体は深春のもので、深雪は魂だけくっついて生まれてきたにすぎない。

 深雪がいなければ、深春は深雪に身体を渡してクラスメイトから悪口を言われることも、友達から遊びの誘いを断ったりしなくて済んだはずなのに。

『深雪? 変なこと考えてないよね?』

「何だよ、変なことって」

『わたし、深雪が傍にいてくれないとやだよ?』

「深春……」

『ずっと、一緒にいようね』

 今にも泣きだしそうな声で、深春はそう言う。

「……わかってるよ」

 夏の蜃気楼のように存在している深雪。

 身体も顔もない、魂に名前をつけられて、この世に本当にいるのかもわからない存在。

 深雪には、確かに自分が生きているという証はない。心臓も脳も、何もかもが深春のもので自分のものなんて何ひとつない。

 深雪は思う。自分は、本当はこの世に存在しないのではないかと。

 全部深春の一部で、深春が生み出した想像上の人間なのではないかと。

 今ここでこうしているのも、真夏の陽炎が見せる夢なのかもしれないと。

『深雪、深雪ってば』

「……ん? 悪い、ぼーっとしてた」

『もう昼休み終わっちゃう! 早く戻って!』

「やべっ、マジで?」

 そう言ったところで予鈴が鳴り始めた。

 深雪は急いで校舎の中へ戻り、人の減った廊下を思いきり走った。

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