春 本とドーナツ
里浦深春は読み終わった本を閉じた。
クライマックスの感動の余韻に浸りながら、表紙を満足げに見返す。春の花と主人公の少女が描かれた淡い色の表紙は、読み始める前よりずっと素敵な表紙に思えた。
利用者が少ない図書室の窓に夕日が差し込んでいる。
腕時計を確認すると、もう五時を回っていた。
「あれ? もうこんな時間?」
深春は独り言を呟きながら立ち上がり、本を元の位置に戻した。鞄を肩にかけ、カウンターで新しく本を借りてから図書室を後にする。
廊下にほとんど人の姿はない。校舎の隅にある図書室に来る生徒は、そう多くないのだ。それに大半の生徒はもう帰っているか、部活で体育館やグラウンド、特別教室にいる。
誰もいない廊下にも夕日は差し込んでいて、白い廊下はオレンジ色に染まっていた。
『……随分遅くまで読んでいたな。日が暮れるぜ』
誰もいない廊下に、粗野な少年の声が響いた。
実際に、廊下にその少年の声は響いていない。声は深春の頭の中にしか聞こえないのだ。
別段驚くこともなく、深春は小声で言い返す。
「いいじゃない。面白かったんだもの」
『児童書なんて、高校生になってまで読むなよな』
「あ、今馬鹿にしたでしょ。児童書だからって、子供の読み物とは限らないのよ。大人が読んでも面白いものがたくさんあるんだから」
『そうかあ? まあ、お前はまだまだ大人っぽくもないし、児童書も精神年齢的にちょうどいいのかもしれねえな』
「もう! また意地悪なこと言って」
からかうような少年の声に、深春はひとり口を尖らせる。今廊下に誰もいなくてよかった。傍から見れば、独り言をずっと喋っている変な子と思われるだろう。
少年の方は人の多い場所で深春に話しかけないようにしている。声をかければ律儀な深春は必ず言葉を返すのだが、深春はひとりで喋って目立つことを避けている。それを知っているから、少年も話しかける場所には気をつけるようにしていた。
里浦深春は、生まれたときからひとつの身体に二つの魂を宿していた。
二重人格という言葉がわかりやすいかもしれない。
だが、それだけで理解できない部分も多い。頭の中で会話ができるのも、視界や記憶を共有できるのも、通常の多重人格症とは異なる。
もうひとりの人格は、深雪(みゆき)という。
深春の母がつけたこの名前は、家族全員で「双子みたい」と言って気に入っているのだが、当の深雪は「女の子みたいな発音の名前」と何度も不満を口にする。確かに響きは女の子みたいだが、深春も深雪とおそろいの名前を気に入っている。
どうしてひとつの身体に、意志も性格も、好きなことも違う二つの魂が宿っているのか、誰にもわからない。
気がついたら深雪は深春の身体で動き、喋っていた。最初は誰も気づかなかった。深春と違ってやんちゃで、食べ物の好みがあまりに違うことを訝しんだ両親と、頭の中にもうひとりいる、と言い出した深春と深雪によって、深雪の存在が明らかになったのだ。
両親は一度困惑したものの、「もうひとり子供ができたみたい」と笑って流してから、里浦家には二人の子供がいることになった。
深春は、最初からもうひとつの魂が身体にくっついていることを、何となくだが知っていた。だから頭の中で突然話しかけられてもそれを受け入れてしまったし、身体の主導権を渡すことにも躊躇はない。
深雪は結構口が悪く、短気で喧嘩っ早いところがある。高校生になって落ち着いたものの、小学生のときはやんちゃ盛りで、深春は困っていた。
深春の身体で男の子に喧嘩を吹っかけて殴りかかったり、いたずらをしかけたりしていた。もちろんその行動は深春がしたこととして、男勝りのオトコオンナというレッテルを貼られていたものだ。深春は昔から本が好きな大人しい少女だったのだが、その不名誉なレッテルのせいで周囲からは問題児扱いだった。
中学に入るとさすがに少し大人しくなって、深春の不名誉は徐々に忘れられていった。
それでも深雪がずっと大人しくしていられるわけもなく、たびたび身体を深春から借りては体育の授業を楽しんだり、気まぐれにテストの問題を解いたりした。
深春は文系科目が得意だが深雪は理数系の科目が得意で、それも深春より頭がいい。深春と正反対で深雪は運動ができる。
性格も得意分野も好みも、何もかも正反対だった。
深春の身体にいる、もうひとりの自分で魂の片割れ。深春にとって深雪は、ずっと傍にいてくれる友達のような、弟のような存在だった。
「あ、まだあった。よかった!」
深春は学校の最寄り駅にあるドーナツ屋の前を通りかかった。深雪と話さなくても独り言を言う癖が定着しているが、深春自身はあまりそのことに気づいていない。
甘いものが好きな深春は、よく学校の最寄り駅のドーナツ屋やクレープ屋に寄り道する。
図書室にいて遅くなってしまったが、深春の好きなきなこ味のドーナツはまだ残っていた。
人気商品で、たまにしか買えないのだ。深春は店先に立ったまま買ったドーナツにかぶりつく。甘いきなこがまぶされた、もちもち食感のドーナツの風味が口の中に広がる。
「しあわせ……」
悦に入る深春の言葉を受け、溜息をつく深雪。
『よくそんな甘ったるいモン食えるよなあ』
「だって好きなんだもの」
深雪は甘いものが苦手で辛いものが好きだった。
深春はドーナツを食べ終えて満足げな息を吐くと、ようやく帰りの電車に乗り込んだ。帰る途中も鞄に入れた文庫本を開くので、あっという間に家の最寄り駅についてしまう。
春とはいえ、外はすっかり暗くなっていた。夕日は遠く西の端に沈もうとしていた。太陽の陽気がない日暮れの空の下に、まだ冷たい風が吹いた。
「寒い! 上着着てくればよかったかなあ」
『もう春だからいらないって朝言ってたじゃねえか』
「だって、朝はぽかぽかして気持ちよかったし」
少し早足で家へ向かう。真っ白な街灯が道の先々をうっすらと照らしていた。見慣れた住宅街は夕闇に溶け込んで、黒い影となって浮かび上がっている。街灯に照らされた白い桜並木が、花びらを散らしながら佇んでいた。
普段は人通りがちらほらあるこの住宅街の道も、今日は人がいない。
少し遅くなったときに限って人気がないなんて。少し怖がりの深春は肩にかけた鞄の紐を普段よりもぎゅっと握りしめて歩く。
暗い道の陰に何かが潜んでいる気がした。深春のローファーがアスファルトを叩く音だけが、人気のないがらんとした道路に響いていた。
「ちょっと怖いな」
『変質者とかには気をつけろよ』
「急に怖いこと言わないでよ」
『ま、何かあっても俺がちゃんと守ってやるけどな』
さらりとのたまう深雪。深雪の力強い明るい声が響くと、今までの不安も少しだけ和らぐ。
ひとりで過ごすことが多い深春は、こういうとき不安になる。こんな暗い道でひとり、何かあったらどうしようと。
けれど深春には深雪がいる。ひとり分の身体に、確かにもうひとりの体温を感じるのだ。
「ありがと。深雪」
顔は見えないのに、深雪が笑ったような気がした。
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