第5話
久しぶりの街、ごみごみした都会の匂いが何故か懐かしい。そこかしこの雑踏をかきわけ、ようやくマンションの部屋に戻った。絨毯に寝ころんで大きく伸びをすると、何だか古巣に帰ってきた燕みたいな心境だ。
まずはマリのケータイに電話する。すぐにワンコールでつながる。
「親がうるさくってさあ、暑いからビール飲んでたらアル中になるからやめなさいだの、早寝早起きしなきゃ生活のリズムが狂うだの小うるさくてたまらないから逃げ出してきたんだわ、やっとパラダイス」
大声で喋り通しの彼女は、とっくに東京に戻り学園祭にも行ったらしい。
「飲みにいこうか」
「待ってました!朝までガン飲みだ~」
あたしの提案にマリは二つ返事で答えてくれた。やはり、持つべきものは飲み友達だとしみじみ思う。
お一人様は今は寂しい。
さっそく夕方待ち合わせをして、チェーン店を全国展開している行きつけの居酒屋にくりだす。平日のせいかガラ空きだ。小上がりの座布団に向かい合わせで座る。
まずは生ビールで乾杯した。肴もサラダや揚げ物とあれこれ注文して、ビールのあとは酎ハイやハイボールを次々とオーダーする。田舎の生活や世間話で盛り上がり、会話は尽きることがない。
トイレから戻ると、マリがいつになく神妙な顔でうつむいている。さっきまでのがっつきは収まったのか箸を置いたままだった。
「相談があるの」
「何?」
「・・私はあなたが、うらやましくって」
マリはじっとあたしを見つめた。潤んだ黒目がちな瞳、薔薇色の頬。ほころびかけた大輪の蕾を思わせる色気のある娘だ。佐渡の出身と聞いていたが、純朴な田舎娘で都会の女にはない得も言われぬ求心力がある。
「うらやましいって何故?意味がわからないんだけど」
少し間があって、彼女は小声ではあるが、きっぱりと切り出した。
「江崎さんと親しくなりたいの」
想定外のセリフ!
衝撃が体内を貫く。心臓がドクンドクンと音がして、血液が逆流した。
「彼のこと入学した時から憧れていたんだ、あなたがモデルしているの、うらやましいって言うか妬ましいって言うか・・気づかなかった?こんな気持ち」
あたしは首を横に振る。
遠い世界の話を聞いているようだ。
「高嶺の花だからあきらめようかと何度も思ったの。だけどダメ、苦しくって・・切なくって・・とうとう打ち明けてしまった」
思いもよらぬ告白に驚いて返答につまる。
「お願い、江崎さんと会えるようにセッティングしてくれないかな?たとえば柘植君とあなたと四人で遊びに行くとか」
マリの声は裏返っている。
「こんなお願い、あなたにしかできない」
クローズアップした挑むような表情、思わずどこかに逃げだしたくなる。
「柘植君はどうなの?」
「柘植?彼、最近は彫刻科の娘とつきあってるみたい、知らなかった?あいかわらず映画館デートだった。私、軟派なジャニーズ系は昔から苦手なのよ」
「映画館デート?」
あたしは初耳だ。
「うん、映画を観て自分と感覚の合う彼女がほしいんだって」
「変わってるね、そんなの人によって好みが違うじゃない」
「私もそう思うけどね、だから誰とも長続きしないんじゃない?それより彼のことじゃなく江崎さん」
会話が本題に戻り、マリは両手を合わせてダメ押ししてくる。
「一生のお願い」
あたしは嫌だった。江崎に会わせて二人が恋人にでもなったら自分の立場はどうなるのか、片思いでもいいと思っているのに。歌謡曲の歌詞でも、彼女を紹介しなければ良かった、と呪文のようにリフレインしている。
「モデルがひとくぎりしたら話してみる」
苦肉の引き延ばし作戦。
「ホント?でも先じゃない」
「年内には出来上がるらしいよ」
「じゃ次は私もモデルになりたい、ねえ推薦してよ」
あたしは段々いらいらしてきた。江崎に惚れているのは、あたしもだと何故気づかないのか、それとも知っているのにわざと・・
嫌な想像にかられ、酒を何杯もお代わりする。マリは自分の要求ばかり繰り返す。あたしは酔ったふりをしてノラリクラリ、そのうち本当に悪酔いして、あげくに二人とも酔いつぶれ、変な空気のまま物別れになった。
とうに午前様。
あたしは頭ががんがんし、死ぬほど気分が悪かった。ちょうど仕事帰りのかれんさんとマンションの前で偶然出くわす。一緒にエレベーターで上がっていく途中、振動のせいかまた吐き気をもよおし、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。とたん意識が薄れ、視界がもうろうとなっていく。あんた大丈夫?とあたしを見つめる、かれんさんの厚化粧した顔が、ぼやけて歪んで見え、しまいには何もわからなくなってしまった。
気づくと、あたしはどこかで寝ころんでいた。上等な革製の、ふかふかしたソファの上で。自分の部屋ではなかった。
「もう目が覚めた?」
声のする方に首を曲げる。かれんさんが対面キッチンから、こっとを見ている。
「若いからって、無茶しちゃ駄目よ」
グラスとタオルを盆に乗せて、かれんさんは傍に来た。派手なスリップドレスの胸の谷間が揺れている。歌舞伎役者さながら綺麗に隅取りされた目元が、急接近した。
「酔い覚ましには、これが一番」
あたしの顔に冷たいタオルをのせて、それから、かれんさんはグラスの飲み物をスプーンに取って一口ずつ飲ませてくれる。
冷たいサイダーが喉元を通るたび、具合がだんだん良くなっていった。三十分くらいして、
「すみません、ご迷惑かけて・・助かりました。改めてお礼に伺います」と、のろのろと体を起こした。
「あら、遠慮しなくていいのよ」
畳に座り込んでいた彼女が、心配そうにあたしを凝視した。
「いいえ、もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
あたしは立ち上がり、頭を深々と下げた。
かれんさんも慌てて立ち上がり、とんでもないといった風に両手を激しく振りながら、「いやん恥ずかしいからやめてちょうだい」と、大げさにはにかむ。
かれんさんは大きな体をしていた。横幅もあったが背も高かった。向かい合って立つとよくわかる。この人はやっぱり前は男性だったんだ・・あたしは今更ながらの気持ちで、まじまじと、えらの張った顎に目をやる。
玄関で帰り際、かれんさんはにこにこしながら言った。
「よかったら、今度遊びにおいで、午後から夕方まではたいてい暇だから」
あたしは、とっさに返事ができなかった。
かれんさんは、続けて言った。
「あ、変なことはしないから安心してね。わたしは女の人にはそういう興味が全然ないから、いたって人畜無害よ」
一生懸命な言い方がおかしくて、あたしはつい吹き出した。かれんさんはきょとんとした顔で、クスクス笑うあたしを見ていたけれど、そのうち一緒になって笑い出した。
玄関には、脱ぎ散らかった靴が転がっていた。規格外のサイズの赤いハイヒール、たぶん特注品だろう。もう一度、丁寧に礼を述べて家を出る。
外は、うっすら明るくなっていた、ただ銀色に光っている暁のなか、あたしは、いつにない高揚感を感じていた。出会いの機微といえばいいのか、久々に味わった他人との濃い触れ合いだった。
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