第3話
ゴールデンウイークが明けた。初夏の爽やかな訪れを感じるアトリエ、あたしが一番好きな季節だ。はじめて初回のモデルをした時のこと、珈琲タイムに「母の日」の話題が出た。言いだしっぺは柘植尚人である。
「やっぱりママには赤かピンクのカーネーション贈ろうかな」
ママ?気持ち悪い~マザコンかしら・・
「いいんじゃないかママには赤で。でも俺はグリーンのカーネーションが好みだなあ」
グリーンカーネーション?
江崎の意味不明な言葉。あたしが首をかしげていたら、
「深い意味はないから」と彼は慌ててその場をつくろった。だが喉に引っかかった小骨のように頭にずっと残っていた。
さらに梅雨も明けて、夏の香りに地上は緩慢な速度で満たされていく。
かれんさんとは、あの日以来なぜか会うことはなかった。たまに夜中に彼女(?)が帰宅する気配を感じることはあったが。
あたしは入学して以来、とりあえず授業はさぼらずに出席し、真面目な大学生活を過ごしていた。というのも理由がある、遊び惚けず勉学に励むことを両親に固く約束させられたからだ。本音を言えば、大学に行けば江崎省吾に会える可能性が高いからで、しかし江崎は三年生だから講義がかぶることは全くなかった。
週に二回のモデルの日なんて、前日の晩からどれほど楽しみにしているだろう。朝まで眠れないほどだ、本当は毎日でもいいくらいに思っているのに・・あたしはモデル業が一段落したら美術部に入ろうと決めた。だってこれからもずっと彼の傍にいたいから。
「もうすぐ前期試験があるから、しばらくモデルはお休みしましょう。単位はきちんと取ってくださいね。そのあとは夏期休暇に入るけど、いろいろと予定があるでしょう、帰省はしないんですか?」
アトリエで珈琲を飲みながら、いつもの距離を置いたスタンスで、江崎は唐突にあたしに訊いた。
「ええ、帰るつもりではいますが・・」ショックで声が上ずった。
「田舎は北海道でした?」
「・・九州です」
「あ、ごめんなさい。そう聞いてましたね、つい忘れてしまって」
あたしは江崎との会話を、どんな小さいことでもけっして忘れない。柘植は山の手育ちのぼんぼんだが彼は下町出身だ。江崎の好きな本や映画はもちろん、尊敬してやまないアメリカの前衛画家なんかは自分までが傾倒した。しかし彼はあたしのプロフィールには、関心がないのだ。急に悲しい気持ちが胸に込み上げてくる。
「また十月に再開していただきたいけれど、お願いできますか」
動揺している素振りを見せずに答える。
「もちろん大丈夫です。それより絵はどれくらい出来上がったのかしら、見せてもらっていいですか」
あたしはモデルはしていたけれど、彼の絵は遠慮してあまり観ていない。というより彼はふだん自分の絵のどれにも白いクロスをかけているのだ。テリトリー意識が強いのか、あるいは聖域を侵されたくないのか。
だが、あっさり快諾してくれた。
「どうぞ観てください」
彼は椅子から立ち上がり、カンバスの前にあたしを誘導した。
絵の中の女と対峙する。まるで自分とは違う魅力的な(あたし)。だけど紛れもなく自分なのだ。
「とってもいい。嬉しいです、こんな風に描いていただいて」
感無量だった。
「省吾の絵は人の内面を映し出すから」ソファに座っていた柘植尚人が口をはさむ。
「内面?」
「そう自分でも気がつかない世界。絵って、そういうものを描くものでしょう、たぶん。省吾の絵が凄いのは、人が気づかないことに気づくから」
カンバスの傍らで、江崎が無言で突っ立っている。自分のことを話題にされていても、まるで興味がないといった風に。
「ところで、絵の題名は何ですか?」あたしは前から気になっていた。
「無機生命体」
江崎と柘植が同時に答えた。二人は顔を見合わせて微笑む。
「君はとても乾いた感性の持ち主に感じるんだ、まわりの女子と全く違う無機質な人間とでもいおうか・・そんな逸材に出会うことは今まで無かった、ほとんど奇跡だよ」
江崎の言葉を聞いて、さっきまで、しばんでいた気持ちに再び灯がともる。しかし当分の間、彼に会えなくなる事実に依然うちのめされていた。
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