4.「……お休みなさい」

食事はつつがなく終わり、代金は結局アルフが全て払った。助かったといえば助かったが、借りを作ったようで釈然としない。少しまだ足りないお腹を抱えて宿屋まで戻っていく。男性と食事をしてその帰りに全くと言っていいほど視線を向けてこないのは初めての経験だった。相変わらず周囲を見回しているのは本当に止めてほしかったが。


「あの、アルフさん?」

「どうした?」

「その……本当に、さっきのはただ走っただけなんですか?特別な力とかは……」


両替商からすぐに帰ってきたアルフ。マトモに歩いていこうものなら料理も冷めるような時間がかかってしまうだろう。ナタリアナだけが食べ終わってしまっていた可能性すらある。話は終わったとばかりに食事中黙ってしまった彼だったが、明らかにこれはおかしい。もしかすると、ごく一部の人間が神に与えられる「転移」の魔法を使えるのかもしれない。こんな夜中に空を飛んだら衛兵に止められるだろうし。だが、アルフは特に濁すこともなく振り向かずに言った。


「本当にただ走っただけだ。信じられないのも解るが……何なら抱きかかえて走ろうか?体験はできるぞ」

「それは……遠慮しておきます」


言っていてまた彼女の表情は歪む。もはや最初の決意は完全に霧散していた。ナタリアナの中の悪魔は既に体を売る選択肢を放棄し、無知な彼をどう利用するかを提案してきている。だから、彼に触れられることを拒んでしまった。普段ナタリアナを狙う男性は彼女の隣か少し後ろにいる。いつもと逆だなあ、確かに振る舞いがよく見えるなあ、なんて頭の片隅で思いながら、宿屋に着いたナタリアナはそのまま部屋に上がろうとする、が。


「待て、ナタリアナ」

「はい?どうしました?」

「ナタリアナの分の部屋が必要だろう。俺の部屋を使うというなら俺が移るが」

「え……同じ部屋では……?」

「狭い。それに俺は気にしないがナタリアナは気にするだろう」

「狭くて悪かったな」

「あ……すまん。そういうつもりじゃなかったんだ」


カウンターの前であまりにはっきり彼は言い切った。主人に睨まれ謝るアルフ。はっとして、ナタリアナは階段を降りる。


(ほ、本当に私に興味が無い……?そういう目的じゃないの……?)


まだ、その疑問は残っている。彼と組むにしても、ナタリアナ自身の色気は彼女の意思で何とかなるものではない。彼がどれだけ有能……ではないだろうが、力があろうと男は男。最後に残った不安にもヒビが入る。何か言う前にナタリアナの分の代金も支払ってしまう。部屋のドアに貼るプレートを手渡しさっさと上っていく彼を急いで追いかける。まさか自分の体が何かの奇跡で色気を振り撒かなくなっただろうか……と思ったが、宿屋の主人はじっと彼女を見ている。下心の浮かんだ目で。


「その、お金、返します!」

「良い。金に困ってるんだろう。見ず知らずの他人ならともかく仲間にくらい使う」

「え、えっと、でも」

「この宿ってことも我慢してくれ。俺もあんな固いところには寝たくないが、俺の分は現物で代金にしてくれた良い主人だからな」

「現物?」

「ちょっとした刃物を作ったんだ」

「え?」

「じゃあ、ここで。お休み、ナタリアナ」

「え?」


聞き捨てならない言葉とともに、アルフは部屋に入っていった。一人廊下に残されたナタリアナ。静かに部屋に戻り、硬いベッドに寝転がる。ぐっと重みで息が詰まりそうになった。よく考えれば、入浴せずに眠ることになるのも久しぶりだ。いつも相手の金で入っていたから。


(なんか……私、もしかして結構変だったのかな……)


横を向き、誰もいない部屋を見る。ずっと自分の体は使わないようにしてきたつもりだったのだけど。それに、完全に脱力したのも久しぶりだった。


(ああ……鍵、閉まらないっけ、ここ……)


安宿に鍵は無い。いつもならナタリアナはそこでは寝ない。夜通し寝ることなく、癒しの魔法を使い続ける。ふらつくほど眠いが、それでも不思議と疲れはとれるものだ。でも、今日はどうしてかいつもより眠かった。


(……なんだろうなあ……)


瞼が落ちてくる。ふわつくように気分が良くなって、押しつぶされた肩の痛みを感じなくなっていく。何年振りかの熟睡に、何とか抗おうとさっき張られた頬を抓って伸ばす。心地いい柔らかさと鋭い痛みで意識が持ち上がって、それで、突然部屋の扉が叩かれたことで完全に目が覚めた。


『ナタリアナ。すまない、聞きたいことがある』

「え、あ、はい!」


さっと飛び起きて身構える。くぐもって聞こえ辛いがアルフの声だ。脱ぎ捨てていたローブを体に巻き付けるように寄せてベッドから降りる。扉を開くべきか開かないべきか、悩んでいる間に彼は扉を少しだけ開けた。中の様子が見えない程度の隙間から、黒手袋の彼の手だけが見える。


「聞くのを忘れてたんだが……どこに行ったら風呂に入れる?」

「え……さ、探せばまだ公衆浴場は開いているとは思いますし……開いてなくても娼館のお風呂なら、お金はかかりますが……」

「ここから近い?」

「まあ、そこそこ……」

「ありがとう」


聞くだけ聞いて扉が閉まる。警戒するだけ無駄だったのかもしれない。ナタリアナは再び横になり、ローブをテーブルに放り投げた。重い厚手のローブは届く気配もなく床に落ちたが、彼女は眠気に負けそのまま目を閉じた。



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夜、ナタリアナが目を覚ましたのはまだ夜明けには程遠い時間。流石に一部の人間以外は眠りにつき、宿屋から出るにも気を遣う時間に、ふと彼女は目を開けた。

部屋の景色は何も変わっていない。固いベッドに寝転がるナタリアナにも何の変化もない。床に転がるローブも、付けたままのランプが油切れで消えていること以外は部屋に何の違いも無い。ベッドを降りて、真っ暗な廊下へ出る。アルフとナタリアナの部屋はそこそこ離れていた。床が軋む。当然鍵のかかっていないドアを開けると、ほんの少しの石鹸の香りと埃の臭い。大きめの寝息。アルフはただベッドで寝ているだけだった。目に見える罠は魔法のものも含めて見当たらない。部屋に入っても何も起きはしない。


ぎし、ぎし、とベッドに近付いて行っても、彼は目を覚まさない。熟睡しているのか、身動きすらとらずにしんとして、手の届く距離まで来ても反応を示さない。規則正しい呼吸音からは、彼が本当に何も警戒していないこと解る。ナタリアナはゆっくりと彼にさらに近寄ると、両手を伸ばし、彼の首に向けた。

彼が魔法使いであろうと、剣士だろうと、寝込みに首を掴んでしまえば何とかなってしまう。ナタリアナがいかに貧弱と言えど、それで終わる。そのまま手を伸ばして、肉薄して、アルフの体温を感じるまでになっても彼は目を覚まさない。


「……ぁ」


掠れたような声が漏れる。同時に、ナタリアナの頬を熱いものが伝っていた。ベッドにぽつぽつと雫が滴り、伸ばした手が震えて彼に当たる、それでも、彼は目を覚まさない。間違いなく熟睡している。ナタリアナが、ここにいるのに。


「あぁ……」


ふらついて、その場に崩れ落ちる。涙はとめどなく溢れ、訳もなくため息が漏れる。これが、彼女の求めていたもの。何かに促されるように、ナタリアナはベッドに上がり、彼の隣に座り込んだ。まだ起きない。ベッドの真ん中で眠る彼の体を押して転がし端へと追いやると、ナタリアナはそのまま横になり、彼に背を向けた。人の気配が近くにあるのに、不安にならない。自分の幸せの敷居の低さに、つい少し噴き出した。そのまま目を閉じると、再びナタリアナは夢の無い眠りへと落ちていった。


「……お休みなさい」


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「うおおおっ!!?」

「何!?何ですか!?」


翌朝。ナタリアナは突然の大声で目を覚ます。体に染みついた習慣からとにかく遠くに飛び退き、無理な体勢で床に体を打ち付けた。そのまま転がって向けた視線の先に、ベッドから足が生えている。どうやら転げ落ちたらしいアルフに歩み寄り大丈夫ですか、と手を差し伸べると、彼は悪い目つきを丸くしてナタリアナを見上げる。すぐにはっとして一人で立ち上がったが、壁に手をついてナタリアナから離れていく。


「あ、あの……」

「ど、どうしてここに……」

「……あ」


と、そこで思い出す。昨晩のこと、この状況を。とっさに後ろを向いて頬を擦る。もう、濡れた跡は残っていないようだった。


「い、いえその、えーっと……まあ、色々あるんです。あんまり追及しないでもらえると……」

「あ、ああ……まあ……それは……構わない、が……」


思えば大胆なことをしてしまった。まるでナタリアナの方から襲いに行ったと言われても否定はできないような状況ではないか。もちろん、そうではないのだから弁解すればいい話なのだが……何故だか、これまでの自分の事情を話したくなかった。だから適当に誤魔化すと、朝食があります、とだけ言い残して、ナタリアナは足早に部屋を出ることにした。とりあえず、騒がしくしてしまったから隣の部屋から苦情が来ないことを祈りつつ。


自分の部屋にも戻り、ローブを着て階段を降りる。既に彼も下の食事場にいて、それぞれ持ってこられる質素な朝食を食べていた。具の無いスープ、欠片ばかりのパン、野菜が少しだ。安宿なので仕方が無いとしても、パーティーの戦闘役にはせめてもっとマトモなものを食べてほしい。危なくなるのは守られる側も同じなのだ。


「おはよう」

「おはようございます」

「今日なんだが、早速俺の力を見せておこうと思う。どうするのが良いと思う」


彼は昨日の調子に戻っていた。ぶっきらぼうで目つきの悪い、低い声の威圧感がナタリアナにぶつかってくる。ナタリアナにも給仕が来て、プレートと引き換えに食事を置いていく。やはりほとんど味がしない。食事はサービスでもなんでもなく、単に部屋の破損を確かめて追加料金を考える時間稼ぎに過ぎないのだが、それにしてももうちょっとまともな料理を出したらいいのに、と、ナタリアナは必死にそれらを水で流し込んだ。


「どうするって……まあ、適当に依頼を探して、請けて……戦えば解るとは思います」

「依頼というのはどうやって探すんだ?」

「それは……え?もしかして、冒険者でも何でもないんですか?登録は?」

「何だそれは」

「……まずはそこからですね」


そういえば、アルフは王都に来たばかりだと言っていた。それに、異世界からここに来たとも。本当なら確かに登録なんてしていないだろう。それに、昨日文字が読めないことが判明している。そこから彼の面倒を見なければいけないのだろうか。名前も解らないはっぱを齧り、ナタリアナは顔を顰めた。


「冒険者として登録すると、組合を通じてそこから仕事を斡旋してもらえます。私達の収入は基本的にはそこです」

「そうか……それだけなのか」

「職人の腕や商人の才があれば他の仕事でもやっていけるでしょうね」


もしくは、男は兵士、女は娼館という最後の砦が残っているが……取り立てて言う必要も無い、彼が本当に強ければ、ナタリアナだって回復魔法には自信があるのだ。依頼がある限り金には困らないし、冒険者組合ができてからというもの依頼が無くなったなんて話は聞かない。


「文字、読めないんですよね?」

「ああ……すまない、何か手続きがあるなら代わりにやってくれないか」

「ええ、それくらいは……私も貴方と組むというのを申請しないといけないですから」


昨日の男の分の破棄も含めて、だ。本当に食事が不味い。適当に食べ終え、主人の目配せを確認して、二人は酒場を出た。朝日に照らされ、伸びをするアルフからは全くと言っていいほど不安は感じない。能天気なのか、それとも本物なのか。この見極めにナタリアナの今後がかかっている。眠くて昨日の夜はお祈りができなかった。少し腹が痛くなるのを堪えつつ、彼女はこっちです、と冒険者組合に向かって歩き出した。

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