3.「私の頬を……張ってくれませんか……?」

「……何を言ってるんですか?」

「……まあ、そうだよな。まあ聞いてくれ。俺は、こことは違う世界に暮らしていたんだ。そこで天寿を全うした記憶がある」


彼は何を言っているのだろう。もしかしたら関わってはいけない人間に関わったのではないか、ナタリアナはさっきまでとは別種の後悔に襲われていた。まずもって、死んで別世界になど行くはずがない。死者はみな神の世界に集められ、罪人は裁きを受け消滅、そうでなければ天使となるはずだ。そもそも別世界など存在しない。

もしかすると、彼は現宗教を否定しようというのかもしれない。自分をそれに巻き込もうとしているのか。そんなのはごめんだ。話を聞くだけだって変な誤解をされるかもしれない。話が変わった。すぐにでも逃げ出そうと出口を窺う。アルフはそんな彼女に気付かず話し続けているが、それなら好都合。片膝を上げ、駆け出そうと立ち上がった瞬間、ふとアルフが顔を上げた。


「だから、その子の助けになりたい。ならなきゃいけないんだ。協力してほしい」

「解りました……あっ」


聞こえてきた、切実な頼み。嘘をついているとは到底思えない真摯な声に、逃げようとしていたナタリアナの体はいとも簡単に色よく言葉を返していた。


(あっしまっ……)


「ありがとう。これで彼女の力になれる。本当にありがとうございます」

「む……ぐ……」


彼が異教徒なら、絶対に関わってはいけない。それは解っている。でもそれ以上に、ここに来て丁寧に頭を下げられたら言葉も詰まってしまう。ランプの光に照らされた彼が本当に嬉しそうで、初めて少しだけ声が弾んでいた。少し微笑んだ彼はなおさら悪くない顔で、逃げようとしたナタリアナの方が悪いのではないかと勘違いしてしまうほど純粋な子供のような目をしていた。体が固まり、それ以上何も言えなくなる。じゃあ、と立ち上がったアルフを目で追うだけで、訂正のタイミングを逃した。話が終わったその空気に割り込めるほどナタリアナは強くはない。


それに、そろそろナタリアナだって冷静に考えなければいけないのだ。彼は多分、異教徒ではない。わざわざ一般人のナタリアナを捕まえるほどの熱心な信徒が、第一に教義を説かないはずがない。だったら何か。本当に彼が、別世界から来たなどという世迷言を信じなければならないのか。


(そんなはずが……でも……)


「―――ナタリアナ?」

「はいっ!何ですか!?」

「い、いや……どこか飯を食えるところは知ってるか、と……」

「あ、ああ!そ、そうですね!」


とにかく、考えながら動かなければ。少なくとも彼の本性がどうあれ、明日陽が上ってからその力を見せてもらわないことには考える材料も増えない。人の多い場所が良い。酒場でもいいが、もっとしっかりした食事処の方が良いかもしれない。もう夜も遅い。


「では……あ、す、少しお待ちくださいね」


ふと後ろを向いて、ふところから財布を取り出す。ちゃりん、と中にあるのは、両手で数えられるだけの銅貨のみ。かなり余裕が無い。店を選んでいる場合ではなかった。ぐ……と歯ぎしりをしそうになり頭を抱える。リスクを避けるのにも金はいる。解っていたはずなのに。


「……近くの酒場で良いですか?」

「それでいい。行こう」


宿を出て、今度はナタリアナが先導する番だ。アルフは彼女の後ろを着いてきながら、あたりをきょろきょろと見回している。控えめに言って止めてほしい。別世界ではなく田舎から来たのだろうか。こっちは泣く泣くお金を使わなければいけないのに。

あるいは彼で全て終わらせるなら最後の晩餐、もしくはこれまでの清算として有り金を使い果たすというのも悪くはない。彼が本当に有能ならそれでもいいのだが……いかんせん信じきれない。まあ、反射的に組むと言ってしまったナタリアナの乗せられやすさにも問題はあるわけだし、この際仕方がない。もし彼もお金が無いと言い出したらビンタの一つもして気でも晴れるだろうか。


彼を連れて行ったのは小さな酒場。店主の娘がまだ若く、ナタリアナにもよくしてくれる良い店だ。店そのものの評価はお世辞にも良いとはいえないが、店主がどうやらかなり強いらしく争いが少ない。客も少ないけど。


「あ、いらっしゃい……ませ……」


軽快なベルの音、そして同じく鈴の音のような見知った声が一気に落ち込んでいく。いつも通りろくすっぽ客もおらず、なぜ潰れないのか不思議なほどで、だからこそ客一人一人に看板娘が笑いかけてくれるのだが……そこそこ常連のナタリアナが男を連れているのを見て、彼女は斜め下に目を逸らす。


「ど、どうも……」

「……」


そんな彼女にナタリアナが頭を下げ、そそくさと奥の方の席へ早足で向かう。アルフも同じように着いてくる。席に座るまで、彼女はとても複雑に顔を歪めていた。また、ナタリアナが変な男に引っかかったと思われているのだろう。それが事実かはまだ解らないのでそんな目で見ないでほしかった。これまでのことを考えれば仕方ないのだが、まだ少し幼さを残す、本来ならば天真爛漫で輝くような笑みを浮かべる彼女を曇らせていると考えると申し訳なくなる。


「よし……メニュー……ああ、そうか」

「……どうかしました?」


テーブルの紙きれを手に取ったアルフが、そのままそれをナタリアナに寄越してきた。特に妙なメニューは置いていないはずだけど、と見るが、やはり新メニューができた様子はない。アルフはテーブルに肘をつくと、顎を支えてこちらをじっと見ている。こう見ると、やはり威圧感がある。身長が高く目つきが悪いからだろうか。それとも、髪も瞳も深い黒だからか。


「……読めない」

「……はい?」


そんな彼が、ゆっくりと言ったのはそんな言葉だった。読めない?そんな馬鹿な。大陸共通語なのに。いくら何でもそのなりで、裕福そうな雰囲気を纏わせておいて読み書きもできないのか。出会った瞬間から、ナタリアナの中での彼の印象が悪くなり続けている。


「読めない……ですか?あの、失礼ですけど、生まれは……」

「さっきも言ったがこの世界には転生してきた。この体のまま突然放り出されたんだ。だから生まれとかは無い」

「ええ……」


田舎の村生まれ、なんてことなら隠さず文字が読めないと言えば良い話なのに。事実農村では文字が読めることよりも大事なことがたくさんあった。ナタリアナが読めるのは、そもそも彼女が村で働くことを両親も想定していなかったからだ。そんなこと常識だし、文字が読めないこと自体を嘲笑うつもりはない。絵空事で誤魔化されるより良い。


しかしまあ、すべては実力を見てからだ。とにかくメニューを一つずつ読み聞かせる。私、いつから親になったんでしょう、なんて思いながら、同時に自分の食べるものも決めなければ。今日は柄にもなく全力で走ってしまったし、昼には仕事もした。結構疲れているし、野菜のスープなんかより肉が食べたい。牛か馬か鳥……だが、逆立ちしても牛には手が届かないし、鳥を食べると財産の大半が飛ぶ。硬くて不味いが馬にしておくことにする。水と馬のステーキなんて、貧相な冒険者そのものの食事に吐きそうになる。なんだかんだこれまではパーティー勧誘で美味しいものを食べさせてもらうこともあった。本当に悔しいが生きる上ではそういう男に捕まった方が幸せだと突きつけられているようだ。


音読が終わると、アルフは少し考えて、酒の強さなんかを聞いてきた。ナタリアナも飲みたい気分だが、流石に彼に払わせることになってしまう。弱めの果実酒も甘くて美味しいが、娼婦になればきっとそれしか飲まなくなる。輪をかけて強い瓶酒はナタリアナには強いし、飲むなら強めの蒸留酒だ。もちろん、払う金があれば。いや、全部支払うつもりなら何とかなるだろうか。計算して、ほんの少し足りない。悩むアルフの前で、彼女は心で泣いていた。


「ご注文は?」


少し悩んでいると看板娘が来る。渋い顔で水と馬ステーキを頼むナタリアナに、愛想笑いをすることもない彼女。他の客ならもっと明るく振舞ってくれるのだろう。だが、もしナタリアナが彼女でも笑えないとは思う。あまりにも哀れすぎて。


「そちらの方は?」

「じゃあ果実酒……の、桃。それから牛のステーキ、野菜のスープ、あとパン二つ」

「ひゅっ!?」

「は……い、畏まりました。少々お待ちください」


注文を取った娘が帰っていく。耳を疑いながら、ナタリアナは彼に口を寄せた。


「ちょっと、しょ、正気ですか!?いくらかかると思ってるんですか!」

「そんな高級品なのか」

「このっ……む、うぅーっ……!」


だめだ。この男が大物であるはずがない。一緒に席についてしまった以上、働いて返すとして自分もしなければならないだろうか。こんな客のいない酒場で牛の代金を返すなど何日かかるのだろう。いやそもそも、今ならまだ作り始めていないだろうし、注文を取り消さなければ。


「これでは足りないか」

「当たり前……え?」


彼が取り出した財布を逆さにして中身をぶちまける。コインが五枚、すべて色は……少しくすんではいるが輝く金色。銅貨五千枚分、金貨である。


「き、金貨……!?」

「金だしかなり高いと思ってたんだが。もしかして金が一番下とかか?」

「い、いえ、あの、その……」

「弱ったな……これに価値が無いとすると、ナタリアナの代金は自分で払ってもらわないといけなくなる」

「あっあっあっ」


突然の大金に反応できなくなる。何とか、しまってください、とだけは言えたが、ますます訳が解らなくなる。言っていることに矛盾しかない。王都に来たばかりではなかったのか。というか、流石どんな辺境に住んでいたら金の価値を知らないのか。もしかすると本当に、彼は別の世界から突然湧き出したのか。


「……その反応ってことはこれで払えるんだな」

「……あ、ああああのっ」

「よっぽど高価ってのも解った。悪いな驚かせて。その辺も後で教えてくれ」


あくまで平坦なアルフに震えてくる。もし本当に別の世界から生まれ変わってきたなら、ナタリアナの常識で彼を見ることはできなくなる。何をされるか解ったものではない。今のだって、金貨五枚などあれば金に目が眩み、二人とも殺せばバレないと夜に襲われる可能性すらあった。ここが辺鄙な酒場だから良かったものの、ナタリアナも巻き込まれておかしくない案件だった。


「そ、それ、人前で出さないようにしてくださいね。余計な危険に巻き込まれたくなければ」

「……解った。ちなみに、これはどれくらいの価値なんだ。そうだな……金貨何枚で家が建つ?」

「え、ええと……十枚くらい……ですかね?」


そんなことを言われても、ナタリアナにだって家の値段なんて解らない。適当に言った予想にも、アルフはなるほど、と雑に金貨をしまうだけ。ここまで何も知らないと逆に信ぴょう性も増してくる。同時に、もしかすると彼を放置したら大変なことになってしまうのでは、とも。ここまで来て実力だけ嘘というのは考えにくいが、逆に力も本当でならば、もしその力がとんでもないものだったら。


「っ……」


希望が首をもたげ、また酸っぱくなった唾を飲み込む。彼は無知だ。しかし少なくとも悪人ではない。少なくともナタリアナの知る限り、悪人というのは知識か力を振りかざして騙しに来る。知識を自分に頼っているということはつまり、その制御だってうまくやればナタリアナに可能だということではないだろうか。騙すのではなく、手綱を握れば。どうせ回復しかできないナタリアナは、誰かといなければ生きていけない。回復魔法使いというのはそういう立ち位置だ。人々は求めるかもしれないが、現実には弱い。


それが、彼なら。無知で、力だけはあるらしい彼なら……


「……あ、あの、その……き、金貨みたいな大きなお金だと、これくらいのお店だと受け取ってもらえなかったりするので、両替商に、行った方が良いですよ」

「そうなのか……まあそりゃそうだな。料理が来るまでに行ってくる……ちなみに、これ一枚でどれくらいの両替ができるんだ」

「えと……銅貨なら五千ですけど、たぶん量が量ですし、銀貨で百枚でしょうか。でもそれだと、手数料が銀貨一枚持っていかれちゃうので……」

「そうか。急いで行ってくる。道は……その辺の奴に聞く」


立ち上がり、彼は颯爽と店を出ていった。ここは王都でも端の方で、両替商は中央寄り。そう簡単に言って戻ってこれない、なんて言う暇も無かった。ナタリアナがそれどころではなかったというのもある。

彼が消えてすぐに、看板娘が駆け寄ってくる。眉をひそめて、耳打ちでもするみたいに近付いてきた。


「あ、あの、ナタリアナさん?あの人、新しい仲間の人ですか?」

「え、え、あの……」

「今度の人は結構若いというか……見た目は良いですね。かなり羽振りも良さそうですし……大丈夫ですか?その、この後とか……」

「……マリアちゃん」

「……はい?」


看板娘マリアは真剣に自分を心配してくれている。一切笑みを浮かべていないのも、ナタリアナが誰かといるときというのは大体ろくなことにならないと知っているからだ。彼も、恐らくは真面目に仲間を探していた。お腹がきゅっと縮むように痛む。ナタリアナは泣きそうになりながら彼女の方を見やると、お盆を持つ彼女の手を包むように持って言った。


「私の頬を……張ってくれませんか……?」



アルフは本当にすぐ、まるで両替商の手続きの時間だけしかかかっていないほどの時間で店に戻っていた。片頬を真っ赤にしたナタリアナを見てまず心配してくれた彼の言葉が、さらにナタリアナの心を抉った。

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