三話 君と鳴く
荷物を置いて椅子に座り、まず最初に渡されたのは、さっきも見た吹き口的な何かだった。観察するに、リコーダーの吹き口を木で作った感じ、だ。
「見た感じ君は何も知らなさそうだね」
「『きみ』じゃなくて『ぬのかわさん』でしょ〜、ぬのかわさんって呼んだげよ〜よっ」
「俺の自由だろうが」
「わぁ、こっわぁい☆」
「こいつは置いといて」
こいつってそれは酷いよ!? と叫ぶ先輩を他所に吉野くんは説明を始める。
なぜ私はここに居るのか、考えることは放棄した。二人がどうしてそこまで仲がいいのか、も半分くらいどうでもいいので考えない。
「これはリードです、端的に言って吹き口」
おずおずと頷く。
「試しに吹いてみよう。普通に咥えて、お腹に力を入れてふって吐く」
ちゅん、と高めの音が一つ鳴る。意図も容易く吹いているように見えるが、きっと難しいのだろう。
あ、ちなみに上はこの針金が見えない方ね、と追加で説明。
口に咥えて言われた通りに吹いてみようとする。が。
「……うん、最初はそんなもんよ」
ふうぅ……と空気が通る音しかせず、小鳥の鳴き声も叫び声も聞こえなかった。何回か試してみるが、全て空振り。
「まあ、いつかは鳴るから。ちょっと試してごらん」
案外スパルタでは? と浮かんだ疑問もあっちの方へ置いていく。いつだったかに読んだ小説か、誰かの会話の盗み聞きだったかで『吹奏楽部は体育会系文化部だ』と聞いている。それがほんとならスパルタでも仕方ない。
何度もふぅ、ふぅと試す。しかし一向に鳴らず、頭がだんだんふわふわしてきた頃、ようやく微かに音が鳴った。
「お、いいんじゃない?」
もう一回鳴らしてみようか、というスパルタくんの指示のもと、ふぅっと息を入れる。今度はさっきよりも大きく鳴った。
「よしよし、まあいいかな」
リードちょうだい、と手を出される。渡すとそれを先端に差して、楽器が渡された。割と重みがある。
「リコーダーと同じ感じで手を添えてみて」
……同じ感じで、といわれたが。
眺める。上から下までびっしりと……金具? みたいなのがついている。どこかを押せば何かが閉まったり開いたりする仕組みなんだろうけれど。
「……どれ押せばいいのかわからないのか」
こくりと頷く。あちらこちらに押せそうなものがる。リコーダーみたいにただ穴があいてるだけじゃないから、怖い。
「手、触るけど平気?」
恐る恐る頷く。わかった、と彼は私の背後にまわり、左手をそっと手に取った。
心臓が一つ跳ねる。冷たい手だ。
「人差し指がこの一番上のここ、その下に中指、その下に薬指ね。親指と小指は一旦何もしなくて平気」
とん、とん、とん、と優しく手を配置していく。ほのかにふわついた頭だからか、とくん、とくんと静かに心臓が騒いでいる。耳にかかる吐息がくすぐったい。
次は右手ね、と同じようにそっと手を取られ、あるべき場所に優しく配置される。
「はい、これでこの子の最低音が出ます」
冷たい手が離れていく。どこか寂しさを感じたのはどうしてだろうか。
……深く考えるのはやめた。
「ベーだね」
「それは多分通じない」
糸川先輩の合いの手は案の定通じていない。べーってなんだ、あっかんべーか。きっと違うだろう。
……いや、どこかで聞き覚えがある。過去に読んだ吹部ものに
「息、入れてみる? 出しずらい人は出しずらい音なんだけど」
思考回路が停止する。
とりあえずやってみようかな、とさっきと同じように息を吹き込む。しかしやはり音は出ない。
「しっかりキー押してる?」
「キーって初手で聞いてわかるかしら? ベー並にわからないのでは?」
「先輩うるさい。ボタンというか、この金属のやつをしっかりぎゅっと押してね」
「まいちゃんせんぱい! そう呼んでってずーっと言ってんじゃん!」
「はいはい」
キー。このぐちゃぐちゃした押せるところは全てキーと呼ぶみたいだ。
ぱらぱら、と適当に押してみる。塞いだ時に微かに音がする、面白い。
「なんだか楽しげだねぇ」
いつの間にか真正面に座っていた吉野くんが笑う。茶っけた髪が夕日に照らされて、金色に輝いている。どこか愛らしい瞳に光が灯って、なんだか彼が少し眩しい。
暫く時が止まっていた、気がする。
嘘、どくどくと早鐘を打つ心臓がうるさかった。
互いに見つめ合う。人だ。目の前に人がいる。
カラスの鳴き声。どこだかわからない部活の掛け声。知らない楽器の音。全部が私の耳を素通りしていく。なのに、聞こえないはずの、吉野くんの呼吸音が聞こえる。
「……あ、別に吹いてくれていいんだよ?」
楽器を見つめ、少し考えた。
そっと彼に差し出す。
少し驚いたような顔をされる。
「返す」
それからは後ろを振り返りもせず、大きく重いリュックを背負って、急いでその場から離れた。
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