第12話


 それは広大無辺の草原に佇む、一本の樹の果実だった。その色、黄金なりて人を魅了する。その味、甘美なりて人の渇きを潤す。それは人の欲望を食し、願いを叶える。それを人は呼ぶ、「欲望の果実」と。


 男が森を抜けたのは東の地平線に見える険しい峡谷の間から白い光が溢れ出した頃である。そこは果てしなく続く草原だった。遠くに見える空は晴れているのになぜだか草原の上だけが黒く厚い雲に覆われていた。雲の中では激しい稲光りが起こり、時折辺りを明るく照らした。男は脇腹から吹き出そうとする血を押さえながら必死に歩を進めた。遠のく意識の中で男は草原に佇む一本の樹を見た。その樹に宿る果実の輝きは遠く離れた場所からでも視認できた。その時、朦朧とする男の意識に語り掛けて来る声があった。


 ここよ。私はここよ。


 それは幼い子供の声のようであり、しわがれた老婆のような声でもあり、男が愛する女性の声のようでもあった。


 ねえ、あなたの望みを私に教えて。男は輝く果実に向かってふらふらと歩いた。美味しい物をたくさん食べたい?素敵な洋服に身を包みたい?美しい人と夜を過ごしたい?憎い人を殺したい?友達が欲しい?恋人がほしい?死んだ人に会いたい?誰かに認めてもらいたい?快楽が欲しい?安息が欲しい?刺激が欲しい?愛情が欲しい?ねえ、あなたは何が欲しい?


 男は樹の前に立つと、黄金に輝く果実を手に取った。男は目を閉じて祈った。愛する彼女の傍に居たい。死ぬまで彼女と人生を共に歩きたい。


 あなたの願いを叶えてあげる。


 声は言った。男は輝く果実をかじった。


 その代わり、あなたの欲望を私に頂戴。


 それは春の暖かい日だった。一人の女性が寝具で眠る男を優しい瞳で見つめていた。彼女が男と暮らすようになったのは去年の冬の事だ。それまで彼女は隣町の貴族と暮らしていたが、夫の浮気癖が直らずすぐに離婚した。もともと彼女は親が強く勧めたので結婚しただけであり、かつての夫に愛情を持った事は無かった。離婚してすぐ、男の話を耳にした。山奥で倒れていた所を通りすがった人が発見したのだという。久し振りに男に会った時、昔から仲の良かった彼女でもそれがすぐに彼だと気づく事が出来なかった。男は目の焦点が合わず、口は呆けたように開いていて、体は鳥の足の様に痩せ細っていた。もう男は以前の様にきらきらした瞳で彼女を見る事はなく、まるで無機質な物を見るかの様な視線を寄越すだけとなった。何に対しても欲がなく、そのくせ夜になるとふらふらと歩き回った。


 彼女は昔の男の姿を思い出しては顔を涙で濡らした。そんな折一人の客人が彼女の元を訪れた。それは王宮からの使者だった。


「王宮からあなた様へ招待状でございます。」


 彼女は使者から招待状を受け取った。そこには彼女を王国の催事に招待する旨と優勝者への報酬が記載されていた。欲望の果実。その力を使えばかつての男は帰って来るだろうか。


 彼女は決意を固めた。彼女が再び寝具脇の椅子に腰を下ろすと、男は目を覚ましていた。ミイラのような体に不釣り合いな大きな瞳をぎょろぎょろさせて不可解な言葉を呟いている。彼女は男の額にキスすると優しく言った。


「起こしてしまってごめんなさい。私、三週間程家を空けます。その間、あなたの事お友達に頼みます。これから村長さんに挨拶に行ってきますね。大丈夫。すぐ戻ってくるから心配しないで。」


 そう言って彼女は家を出て行った。独り残された男は寝具に横たわったまま天井を見つめ、同じ言葉を発した。


 オ・・イダ。イカ・・・レ。オ・・イダ。


それは欲望を失ってもなお男が彼女に伝えたかった心の叫びだった。


 お願いだ、行かないでくれ。

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