第7話
次に男が見たのは視界を全て埋め尽くしてしまう程の大量の血潮だった。男には一瞬何が起こったのか分からなかった。混乱する頭で男が見たのは若者の首筋を一噛みで食い千切った巨大な野獣だった。灰色の毛皮に身を包み、剥き出しの犬歯を真っ赤に染めている。喉を食い千切られた若者は声が出せず苦痛に顔を歪めて地面に倒れていた。
だが次の瞬間には木々の合間からぞろぞろと姿を現した野獣達の餌食になった。男は心臓が凍り付く思いがした。野獣はずっと木陰から狙っていたのだ。たまたま若者が先に殺されただけで、今さっき喉を食い千切られていたのは自分だったかもしれない。男は気付いていた。腹を空かせた畜生共の次の餌になるのは自分だ。男は剣を若者に群がる野獣共の方に構えたままじりじりと後退した。野獣が今の餌に夢中になっている間に姿を消し、そのまま逃げ切る事が出来るという一縷の望みに掛けるしかない。
だが野獣は若者の体を一通り貪り食うと、男の方にぎらつく眼光を向けた。一匹の野獣が牙を剥き出し、涎を撒き散らしながら男に飛び掛かる。男は剣の切っ先を野獣の方に向け、上顎から頭にかけて貫いた。だが野獣に飛び掛かられた衝撃で男は地面に押し倒され、事切れた野獣の下敷きになる。すかさず別の野獣共が倒れた男に群がって来る。男は野獣の牙が自分の腕や脹脛に食い込むのを感じた。すさまじい痛みに絶叫する。もうお終いだ。男がそう思った次の瞬間だった。野獣はビクンと痙攣すると、不自然に動きを止めた。
「逃げて下さい!」
暗闇に沈んだ木々の合間から子供のような声が叫ぶ。男は渾身の力を込めて覆い被さっている野獣の死体を蹴り飛ばして体を起こす。野獣共はまるで見えない鎖に縛られているかのように上手く身動きが取れない様で、男を睨んだまま牙を剥き出し、グルグルと威嚇している。
「早く!逃げて!」
声の方を見ると黒く小さな影がこちらを向いていた。男はその影に見覚えがあった。参加者の一人、黒いローブに顔まで包んでいた人物だ。男は野獣から剣を引き抜くと言われた通り急いでこの場を離れようとした。だが先程野獣に噛まれた脹脛の傷が思っていたよりも深く、うまく足を動かすことが出来ない。男は見えない何かによって動きを封じられた野獣を一瞥すると考えを改めた。ここで全て殺してしまった方が後から追われる心配もない。男は流血する腕を懸命に振り上げて身動きの取れなくなっている野獣の首を次々と切り落としていった。
男の行うそのおぞましい作業が最後の一匹を残すのみとなった時だった。突然野獣が頭を左右に激しく振ったかと思うと見えない鎖のようなものを食い千切った。殺意を剥き出しにして男に威嚇する。だが野獣は男に襲って来る事はせず、その代わり木陰に身を潜めていた黒い小さな影に狙いを定めると次の瞬間飛び掛かった。小さな影は悲痛な声を上げながら野獣によって地面に押し倒される。その時男はフードの下から顕わになった顔を月明かりの中に見た。
それは不思議な藍色の髪を持つ少年だった。大きな茶色の瞳を持ち、顔立ちは美しいが額から左目の下まで大きな傷跡があった。必死に野獣の獰猛な牙から逃れようとしているが、餌食になるのは時間の問題だろう。男は脹脛の痛みを必死に堪え、足を引きずりながら藍色の髪の少年に襲い掛かっている野獣に近づいた。
こんな幼い子供が目の前で惨たらしく殺されるのを黙って見ている訳にはいかない。男は剣の切っ先を野獣の方に向けると、渾身の力で貫いた。野獣は子犬のような情けない声を上げると地面に突っ伏した。後に残ったのは夜の闇に埋もれた沈黙とおぞましい血の匂いと荒い男の息遣いだけだった。
男は地面に倒れた少年を見た。恐怖のせいか気を失ってしまっていた。その顔は何処か異国の血が混ざっているような独特の雰囲気があった。とにかく別の場所に移動しなければならないと男は思った。屍の匂いに誘われて良くないものが寄って来るかもしれない。男は少年を担ぎ上げた。その時おやっと思った。だが男はその時感じた感触はとりあえず気にせず、痛みを堪えながら暗い森の中へと歩を進めた。
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