第3話
男が村を発ってから三日後の黄昏時の事だ。男は困った事態に陥っていた。男は山奥の獣道に居た。もう日が沈もうというのに次の町はまだ遠く離れていた。山道を夜移動するのは危険だ。山に住む肉食動物は暗くなってから行動するからだ。男は仕方なく野営できそうな場所を探した。程なくして男が見つけたのは幻妖なる空気を纏った古城だった。男の頭に村長の言葉が蘇る。
山中にある古城には決し近づくな。そこに住む者は気が触れておるという噂だ。
男は一刻も早くこの城から離れなければならないと感じた。しかし、夜が運んでくる暗闇は深くなる一方で動くことすらままならない。男は生い茂る木々の合間に獣の唸り声を聞いた。闇に紛れて二つの目が赤く炯炯と光っている。跨っている馬が怯えているのが男にも伝わってくる。男はそっと剣の柄に手を掛けた。だがすぐにそれが浅はかな考えだと知ることになる。野獣が高く遠吠えを上げると、驚くほど近くから一つ二つと遠吠えが返ってきた。今すぐ逃げなければすぐに囲まれてしまうだろう。男が手綱を強く打つと馬は雷に打たれた様に走り出した。同時に野獣も飛び掛かって来る。野獣の牙を羊皮紙一枚ほどの差をもって脱すると、馬は目の前の獣道をひたすらに駆けた。背後に迫る野獣の影が一つ、また一つと増えていく。
男は両手で手綱を掴み、一心不乱に馬を走らせた。彼は百戦錬磨の騎士ではないので、剣で応戦することなど出来るはずも無かった。生い茂る木々の間を抜け、広く開けた場所に出た。男は目の前に広がる光景を目に映すや否や、危機一髪手綱を引いて馬を止めた。眼前には道は無く、ごつごつとした崖が口を開けていた。背後には四匹もの野獣が男を取り囲み、目で合図を送り合っている。まるで誰が最初に手柄を上げるか決めているかのようだ。男がもはやこれまでと思った時だった。野獣たちの背後より蹄の音がすると共に、煌々とした松明の光が男の視界に入った。次の瞬間野獣の一匹がけたたましい叫びを上げながら一刀両断される。野獣の血肉が辺りに散らばり、それを見て恐れた他の野獣は踵を返して逃げていった。残された静寂に男と共に佇むのは美しい騎士だった。銀の甲冑を纏い、黒く大きな軍馬に跨っている。
騎士が兜を上げその顔を顕わにすると男は驚いた。それは男より五つばかり年上と見られる淑女であった。とても先ほど野獣を打ち殺して見せた者と同一人物とは思えない。女騎士は馬から降りて会釈してから名乗った。男も自分の名を言い、助けてくれた事への感謝を述べる。それから女騎士は男にどこか野営する所はあるのかと尋ねた。男が首を横に振ると、では家に来い、ここで長居するのは危険だと言った。そうして女騎士に連れられて行った先は、例の悪霊が住むかの如き空気を纏った古城であった。男はさすがに中に入る事を躊躇った。その様子を見て女騎士はふっと笑ってから男に言った。
「麓の人間はこの城を恐れているようだが心配はいらない。ここに暮らすのは私と夫、それから使用人だけだ。客人をもてなすには些か貧相だが、野営するよりかはましだろう。」
古城の中は薄暗く、廊下には城主の収集品と見られる壺や甲冑が所狭しと並べられていた。男は食堂に通されると使用人からスープや鹿肉のソテーなどを振舞われた。食事中、男は女騎士に旅の経緯を聞かれると、王国の催事に招待されたのだと述べた。それを聞くと今まで穏やかだった女騎士の表情が険しくなる。
「御仁、失礼だが王国の催事に参加する事はお勧め出来ない。実はと言うと、私の夫もその催事に参加した事があるのだ。」
女騎士はそう言って自分の夫の事を語り始めた。彼女の夫は先の戦争で獅子奮迅の活躍を見せた偉大な戦士だったという。一方夫の事を語る彼女もまた、夫と共に肩を並べ戦場を駆け巡った戦乙女だった。二人は弓矢の降り注ぐ戦場で出会い、血潮溢れる荒野で恋に落ちた。この古城は先の戦争での二人の勇士を称え、国王から贈られたものだそうだ。終戦後結婚した二人はここで穏やかな時を過ごし、やがて子を授かった。だがその幸せは不運な事故によって終止符を打たれた。子は山で遊んでいる時足を滑らせ、崖から落ちたのだそうだ。二人が崖の下を三日三晩探してようやく見つけたのは生前と変わり果てた姿をした子の遺体だった。その時の悲しみは戦場で味わったどんな悲痛な体験よりも大きかったという。それから二人はまるで精魂が抜き取られたかの如くただ悲しみに暮れる日々を過ごした。そんな日が続いたある雨の日、深くフードを被った王宮からの使者が夫に一通の手紙をよこした。そこには男が受け取った手紙と同じく、国の催事に招待するという内容が書かれていた。もちろん優勝者に与えられる報酬についてもだ。二人は一縷の望みを「欲望の果実」に託した。どうか我が子を返してくれと。そして夫は催事に参加するため古城を発った。
一か月程経ってから夫は帰ってきた。だがその様子は明らかに以前と違っていた。目の焦点は定まらず、口は呆けたように開いている。足元は於保つかず、体は鳥の足のように痩せ細っていたという。以前の勇猛果敢な姿は見る影すらも失っていた。女騎士がそこまで話した時、廊下の方から何かが割れるような音がした。使用人が、旦那様、と声を上げ、廊下の暗がりへと足早に近づいていった。
「すまんな、御仁。」
女騎士は男に向けて言う。
「夫は夢遊病なんだ。」
男は使用人に客室へ案内された。今夜はここでお休み下さい、何かあれば遠慮なくお申し付けください、と言って使用人は部屋を出て行った。男は温かい寝具の上で眠れる事に感謝しながら寝床に着いた。
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