第3話

「そして、私は実の父である先代の辺境伯に受け入れられ、正式に跡取りとなった。父は7年前に亡くなり、私がこの領地と爵位を継いだというわけだ――その後の君の様子やニーナの評価については、一昨年ユリウス医師が亡くなるまでは彼から時々手紙をもらって聞いていた。ニーナの死について私が知ることは、これで全てだ」

 ヴェルゴートは、長い話を終えて、深く息を吐いた。

 その鋭い目には、後悔と罪悪感が滲んでいる。

「そんな、お母様は、私のために……!」

 コンスタンツェの手から、短剣が落ちた。その美しい空色の瞳から涙が溢れる。

「自分を責めるな、コンスタンツェ。君が生きることをニーナは強く願ったのだから、その生を恨んではならない。ニーナの想いを、決して無下にするな」

 すすり泣くコンスタンツェへ、ヴェルゴートは静かに、しかし力強く語り掛けた。

「おそらく社交界でニーナの駆け落ちの噂が広がったのは、フェルゼンシュタイン家と政治的に対立しているメッサーシュミット家の仕業だろう。君が侯爵家へ嫁いでフェルゼンシュタイン家の力が増すのを阻止したかったに違いない。ニーナの死を冒涜するとは――本当に許しがたい」

 小動物なら視線だけで殺せそうな怒気を滾らせて、ヴェルゴートは低く呟いた。

「コンスタンツェ、ニーナの無罪を証明しないか」

 一転、穏やかな声で提案するヴェルゴートの言葉に、コンスタンツェは驚いて顔を上げる。

「勘当された私が何を言っても、信じてはもらえないでしょう」

「考えがある。協力してくれ」

 覚悟の決まった静謐な目で、ヴェルゴートは心から愛した人の娘を見つめた。



 その日の午後のことである。

 国内視察中の第二王子ディートフリートがシャルフェンベルク城に到着し、馬車から降りて建物の中に入ろうとした時だった。

 絹を裂くような女性の悲鳴が、穏やかな午後の陽気を凍らせる。

「何事だ?」

 主君を守るようにさっと集まる近衛兵に、ディートフリートは自身も剣に手を掛けて尋ねた。

 第一王子の二歳年下の弟である18歳のディートフリートは、賢明で正義感の強い男であった。剣の腕も優れるが、その明晰さを買われており、将来政治の中枢に携わるべく、現在領内を視察して学んでいるところであった。

「ディートフリート殿下! 辺境伯様が、ご乱心なのです! どうか、どうかお嬢様を、お助けください!」

 息を切らして転がるように走り出てきたバスラー翁を見て、ただ事ではないと察したディートフリートは、膝をついて懇願するバスラーに、かがんで目線を合わせた。

「分かった。ヴェルゴートとご令嬢はどこだ?」

「感謝、申し上げます! 2階の、応接室です!」

 息も絶え絶えに言うバスラーの言葉を聞いて、ディートフリートは頷いた。

「分かった。急ごう!」

 近衛兵に声をかけて、ディートフリートはエントランスから2階への階段を駆け上がる。

 応接室が近づけば、ヴェルゴートの怒鳴り声が響いてきた。

「またしても、私を拒むのかっ、ニーナぁ!」

 地を震わせるような怒号であった。

「おやめください、辺境伯様! 私はコンスタンツェ、母のニーナではございません!」

 それと対照的に、鈴を転がすようなコンスタンツェの声は震え、悲鳴に近い。

「ヴェルゴート、何をしている!」

 応接室の扉を蹴破るようにして、近衛兵とディートフリートは室内に入った。

「ああ、殿下!」

 救いの手に安堵の声を上げたコンスタンツェは、銀色の髪と質素なドレスの乱れた状態で、銀色の短剣を両手で構え、ヴェルゴートに対峙している。

 突然の邪魔者を一瞥し、また令嬢を見遣るヴェルゴートの目は憎しみに燃えて、正気を失っているように見えた。

「私のものにならぬのなら、この手で殺してくれる!」

 大剣を抜いて令嬢へ向かうヴェルゴートに、近衛兵が剣を抜いて走る。

「退け! 第二王子殿下とはいえ、邪魔はさせん!」

 振りぬいた大剣の嵐のような攻撃で、近衛兵は瞬く間に床に倒れ伏した。

「歯向かうか、ヴェルゴート! 冷静で忠義に厚いお前らしくもない!」

 倒れ伏した近衛兵の代わりにコンスタンツェとの間に入ったディートフリートは、ヴェルゴートの剣を己の剣で受け止めて叫んだ。

「邪魔をするな!」

「うぅっ!」

 振り払われたディートフリートが、床に叩きつけられる。

「そうやって、あなたの想いに応えなかった私の母も、殺したのですか!?」

 コンスタンツェの必死の叫びに、ヴェルゴートは高らかに笑った。

「ああそうだ、あの嵐の夜、ニーナと御者を谷底に突き落としてくれたわ! さあ、お前も母親の元に逝くがいい!」

 大剣を振りかぶるヴェルゴートを、恐怖に揺れながらも強い眼差しで睨むコンスタンツェが、短剣を構えて足を踏み出す。

「やめろ、ヴェルゴート!」

 叩きつけられた衝撃で立ち上がることもままならぬまま、第二王子はヴェルゴートに制止を叫んだ。

「母の仇!」

 大剣が振り下ろされる寸前、ヴェルゴートの懐に入ったコンスタンツェの銀色の短剣が、その厚い胸を深々と突き刺す。

「ぐっ、うおぉ……ああ、ニー、ナ――」

 うめき声を上げ、コンスタンツェを見つめながらその場に崩れ落ちるヴェルゴートの顔は、憑き物が落ちたように穏やかであった。



 その後、第二王子主導で事情聴取が行われ、辺境伯が偏執的な横恋慕から当時の伯爵夫人であったニーナを殺害したという話以外は、日記と同じ内容のことがコンスタンツェの口から王子へ告げられた。

「私の不遇はどうでも良かったのです。ただ、母の不名誉を晴らしたくて、私は辺境伯様が何かご存じでないかと尋ねました。そしたら、昔の話をするうちに、どんどん正気を失っていかれて、母によく似た私と、母を混同するようになり、急に、乱暴をされそうになって……もう、無我夢中で抵抗して、なんとか無事でしたが……あとは、殿下のご存じの通りです」

 コンスタンツェは、すすり泣きながら王子へ答えた。

「ああ、恐ろしかっただろうに、よく耐えたな」

「いえ……殿下。私は、母の仇とはいえ、人を殺めてしまいました。母の無実を知れただけで、もう悔いはございません。どうか、厳重な処罰を」

 同情的な王子の言葉に、コンスタンツェは涙に濡れた空色の瞳で、真っ直ぐに王子を見つめ、静かに答えた。

 伯爵家に勘当されながらも母の無実を証明する勇気ある行動、自らの罪を認め処罰を受け入れる高潔さ、その何もかもが王子の胸を打つ。

「ヴェルゴートは、私に刃を向けた。生きていたとしても、どのみち反逆罪で死刑だったろう。彼も処刑人に殺されるより、愛しい人の面影のある君の手で死ぬことが出来て、良かったのではないか。君の行動は正当防衛で、ヴェルゴートの死は、君を襲った際に起きた事故だ。コンスタンツェ、君に罪はない」

 ディートフリートは優しく微笑んで言った。

「あの武勇に秀でたヴェルゴートが令嬢の細腕で殺されたとなれば、かえって彼の死に傷がつくというもの。愛に狂ってしまっただけで、ヴェルゴートの忠義は変わっていなかったと、私は思いたい。恐ろしい思いをした君には申し訳ないが、なるべくなら、彼の名誉に傷がつかぬようにしてやりたいのだ。普段は、冷静で民のことを一番に考える誠実な男で、このような凶行に出るような人物ではなかったからな」

 ディートフリートは、寂しげに目を伏せて続ける。

「その代わり、君が乙女であると証明すること、母君の名誉を晴らすこと、伯爵家に戻れるよう手配すること、この三つを私が第二王子の立場にかけて約束しよう」

 ディートフリートが力強く答えれば、コンスタンツェは目を丸くした。

「そのような、寛大なご処置を……! 勿体ない程のご配慮、誠にありがとうございます」

 コンスタンツェは深々と頭を下げれば、ディートフリートは首を振った。

「いや、顔を上げてくれ。当然のことだ。それに、君を見ていると、ヴェルゴートが愛に狂った気持ちも分かる気がする」

 些か照れたように苦笑して、ディートフリートは答える。

「さて。君の従者から、崖崩れによって馬車もないと聞いた。事情の説明もかねてフェルゼンシュタイン家まで送ろう。恐ろしい思いをした後だから、もちろん馬車は私とは別で、侍女と二人にする。ゆっくり心を落ち着けるといい」

「ありがとうございます、ディートフリート殿下」

 配慮に満ちた王子の提案に、コンスタンツェは感謝を伝えた。


 そのことがきっかけで、コンスタンツェは第二王子ディートフリートに見初められ、伯爵家に戻ったこともあって、彼との婚姻にまで至る。

 コンスタンツェはこの一件から勇気を讃えられ、皆に祝福されて王子と結婚した。

 跡継ぎのいなかったシャルフェンベルク辺境伯に代わって彼の領地をよく統治したディートフリートを支え、終生幸せに暮らしたという。

 ヴェルゴートが我が身と名誉を犠牲にしてまで行った贖罪は、最後までコンスタンツェ愛した女性の娘の胸に仕舞われたままであった。

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