第2話
あれは、20年前のことだった。
君の母親であるニーナが17歳でフェルゼンシュタイン伯爵家へ嫁いできた時に、私もちょうど伯爵家の使用人として雇われたのだ。
私は、先代のシャルフェンベルク辺境伯が貴族ですらない市井の娘に産ませた隠し子で、母は女手一つで私を育ててくれていた。
しかしある年の冬、母は流行り病で亡くなってしまったのだ。
母は亡くなる前に、私が貴族の血を引く人間であることを教え、その証であるシャルフェンベルク家の紋章入りの首飾りを持たせてくれた。
そして母は、自分が亡くなったらシャルフェンベルク家に行くよう伝えたのだが、私は、とても受け入れてもらえるとは思えなかった。
認知してくれるとも思えぬ貴族をあてにするより、自分で働いて生計を立てることを望んだ私は、たまたま人員を募集していた隣町のフェルゼンシュタイン伯爵家の庭師になることを選んだ。仕事は大変だったが、衣食住が足り、いくらかの給金がもらえるだけで十分だった。
幼い頃から読み書きを教えられていた私は、園芸の本なども読めたためにすぐに腕を上げ、翌年には育成の難しいバラ園の管理を任されるようになった。
そのバラ園で、ある日、肌身離さず身につけていた母の形見であるシャルフェンベルク家の紋章入りの首飾りを、知らぬ間に落としてしまったのだ。
私は焦った。そんなものが伯爵一家に見つかり、それを返すよう頼めば、盗品と思われて職を失う未来しか見えなかったからだ。
しかし幸いなことに、それを拾ったのはニーナだった。
「庭師さん、これ、貴方のもの?」
「ああ、そうです! 母の形見で……! ありがとうございます!」
よりによって紋章の意味が分かるであろうニーナに拾われて声を掛けられた時は、もう終わりだと思ったが、それ以上に母の形見が見つかったことに安心して、思わず駆け寄って受け取ってしまったのだ。
ニーナはそんな私を見て驚いていた。
「貴方、その紋章の意味、もしかしてご存じないの? お母様から何か聞いていらしてなくて?」
ニーナは聡明で、優しい人だった。
落とし物によって、すぐに私がシャルフェンベルク家の隠し子だと気づいたのだろう、すぐ心配そうに尋ねてくれた。
「存じております。その上で、この仕事を選びました。これまで16年間貴族とは無縁の生活を送ってきて、今更になって母を捨てた父を頼ろうなどとは、露ほども思いません」
私が苦笑してきっぱり答えれば、ニーナは信じられないように目を丸くした。
「そう。そういう生き方も、あるのね」
感慨深そうにまじまじと私のことを眺めたニーナは、すぐににっこりと笑った。
「私は、この家に嫁いできたニーナと言います。庭師さんのお名前は?」
「俺は、ヴェルゴートです」
恭しく一礼して答えれば、ニーナは小さく笑った。
「年も近いし、よろしくね、ヴェルゴート」
「いけません、奥様。使用人と軽々しく口をきいては
握手の手を差し出すニーナに、私は慌てて注意した。
「あら、いけない。そうだったわ。爵位をお金で買ったような男爵家から嫁いできたから、まだ自覚が足りないってお義母様やレオンハルト様からもお叱りを受けてしまうことがあるのよね。ありがとう、気を付けるわ」
ただの庭師の注意も素直に受け入れ、礼を言うなどという奇特な伯爵夫人に、私はその時大変驚いたのを覚えている。
「いえ、出過ぎたことを申しました。大変申し訳ございません」
慌てて頭を下げて謝罪すれば、ニーナの方がよほど驚いたようだった。
「ええっ! そんなに畏まらなくていいのよ、貴方、間違ったことを言ってないじゃない」
「いやしかし、使用人が貴族の方に注意するなど、普通はクビにされても文句は言えないことで……」
私が説明すれば、ニーナは首を傾げた。
「貴方も貴族の血を引いてるのに?」
「奥様、それはどうぞご内密に!」
誰かに聞かれてはたまったものではない。慌てて制すれば、ニーナは楽し気に笑った。
「分かったわ。じゃあ、貴方の身の上は黙っておいてあげるから、たまに息抜きでお話しするのに付き合ってくださる?」
「命じられて、使用人に拒否ができるわけがありませんよね?」
お嬢様らしい我儘を突き付けられて、私は軽く眩暈を覚えたものだ。
「まあ、そうとも言うわね。あと、息抜きの時は気軽にニーナと呼んでちょうだい。敬語も要らないわ」
「えっ、そんな無茶な……」
私の戸惑いもどこ吹く風と笑い飛ばすニーナは、私にはとても楽しそうに見えた。
その件があってから、バラ園でニーナに会うと世間話をすることになった。
大抵の場合、いかに夫のレオンハルトが素晴らしい人で、どれ程自分が彼を愛しているかという惚気話を、ニーナが一方的に捲し立てていて、私はバラの世話をしながらそれを聞くのだった。
かなり身分差のある結婚で、『成金の男爵令嬢を見初めて、きちんと伯爵家の人間として振る舞えるように教育もつけてくれるなんて、なんて素晴らしい方!』というのが、彼女の決まり文句だった。
ニーナに憧れを抱いてもいたが、出会った時にはもう伯爵夫人で、端から恋仲になりたいなどとは思いもしなかった。
ただ、彼女のキラキラした幸せを見守ることだけが、私の幸福だった。
そしてニーナが18歳の時、
子供が出来たと分かったときのニーナの喜びようといったら、興奮しすぎてかえってお腹の子に障るのではないかと思う程で、本当に大好きな人の子を授かったということが、嬉しくてたまらないという様子だった。
しかしその一方で、その夫のレオンハルトにはどうにも別に女が出来たのではないかと噂されるようになっていた。
子供が出来たと分かった頃から、レオンハルトの帰りが遅くなることや不自然な外出が増え、使用人たちの間でも女の気配がすると話されていた。
「ねえヴェルゴート、やっぱり、身重の女は、殿方にとって負担なのかしら」
ある日、体調管理のための散歩がてらバラ園に来たニーナは重い溜息と共に言った。
「何を言うんだ、旦那様だってお子を授かったことをとても喜んでいたじゃないか」
夫の浮気について何か思い当たる節があったのか、突然そんな話を振ってきたニーナに、私は少なからず動揺した。
「そう、よね。最近、お仕事がお忙しいみたいで、なかなかレオンハルト様にお会いできないし、実家の商会もちょっと上手くいってないみたいで、気弱になってしまって……でも、こんな辛い時こそ、前を向いて笑顔でいなくっちゃね。レオンハルト様は私の前向きで明るい所が好きって言ってくださったのだもの」
ニーナはどこまでも健気に笑って言った。
私はそれを見て、胸が締め付けられるようだった。こんなに一途に愛されていながら、他の女にうつつを抜かすレオンハルトに怒りを覚える程に。
「ああ、ニーナには笑顔が似合うよ。旦那様もお仕事が落ち着いたら、またニーナとの時間が取れるようになるさ」
それでも、それはおくびにも出さずにニーナに微笑んで言った。少しでも、ニーナの不安を和らげたかったのだ。
「そうよね。じゃあ、私は愛しのレオンハルト様の疲れを癒してあげられる、そんな妻でいなくっちゃね!」
「ああ。とはいえ、今はニーナとお腹の子の健康が何より大事なんだから、お医者様の言うことをよく聞いて、あまり無茶なことをしないようにな」
「ええ、重々気を付けるわ」
肩をすくめてニーナが苦笑するので、私もそれを見て笑った。
しかし、その後もレオンハルトの不在は増す一方で、どうにも不倫相手は他の伯爵家のご令嬢らしいという噂を耳にするようになった。
更に悪いことは重なるもので、ニーナが臨月に差し掛かる頃、ニーナの実家は彼女の兄が継いだ商会の経営がさらに悪化していて、金回りが悪くなっていた。それに伴うように、フェルゼンシュタイン伯爵家の人間はニーナに冷たく当たるようになったのだ。
要するに、ニーナは身分差の大恋愛による結婚ではなく、金目当てに格下の家の娘を娶っただけだったというわけだ。
実家の金回りの悪くなった今、ニーナを正妻に据えておく義理はない。だから、ニーナを離縁して伯爵家のご令嬢と再婚するのでは、という胸の悪くなるような噂が、使用人の間でまことしやかに囁かれていた。
「もし、そんな話が旦那様や大奥様の耳に入ったらどうするんだ。滅多なことを言うな」
食事の時間にその噂話が出てきたので、俺は話してきた御者助手のアルバンを注意した。
「ヴェルゴートは真面目だなあ。俺は奥様が可哀想で見てらんねえよ」
ニーナはその育ちゆえに使用人にも優しく、レオンハルトへの愛の一途さは使用人一同も知るところだったので、アルバンに限らず、最近の立場の悪さを嘆く者は多かった。
「まあ、お子が無事に産まれりゃあ、多少は丸く収まるだろ。誰だって自分の子は可愛いもんだ」
御者のフリッツがどちらを諌めるでもなく希望的観測を述べるので、俺もそれに頷いた。
使用人の誰もが、無事にお子が産まれて、レオンハルトの愛がニーナに戻ってきてくれることをただ願うばかりだった。
そして、ニーナは無事に出産し、ニーナにそっくりの愛らしい
産後の肥立ちもよく、母子ともに健康に過ごしていたのだが、伯爵家としてはその何もかもが気に入らなかったらしい。
『産まれた子が男ではないなんて』『身分の低い男爵家の母親似なんて』『出産の際に死んでしまえば後腐れなく後妻を迎えられたものを』等、特にレオンハルトの母親である大奥様からの罵倒はひどかった。
それでもニーナはレオンハルトの愛情を信じて、気丈に振る舞っていた。
傍から見ればもうレオンハルトの愛など皆無に等しかったが、それでもニーナは信仰にも似た夫への愛を持ち続けていた。その想いは悲しくも、心を打たれる程美しかった。
そしてある嵐の夜、当時1歳になったばかりのコンスタンツェが酷い熱を出した。
屋敷に医師は常駐しておらず、レオンハルトも不在にしていて、屋敷には大奥様とニーナと使用人しかいなかった。
「お
「うるさいわね! そんな赤ん坊、とっとと死んでしまえばいいのよ! この嵐の中、馬車なんか出せるわけがないでしょう!」
「そんな……お義母様、お義母様っ!」
ニーナの叫びも虚しく、大奥様はニーナの願いを聞き入れるどころか、はねのけて自室に籠ってしまった。
そして、その騒ぎは使用人達の部屋にまで聞こえ、一刻も早く赤ん坊を医者に診せねばという思いから、私は同室の御者助手であるアルバンを叩き起こした。
「どうしたんだ、こんな夜中に」
アルバンは驚き半分怒り半分といった様子で身体を起こした。
「お嬢様が、酷い熱があるらしい。でもこの嵐で大奥様が馬車を出すのを禁じている」
俺が説明すれば、たちまちアルバンは目が覚めたようだ。
「はあ!? 孫を見殺しにしようってのか!?」
「見殺しどころか『とっとと死んでしまえばいい』そうだ」
聞いたことをそのまま伝えれば、アルバンは信じられないというように目を見開いた。
「なんだよそれ! 分かった、緊急事態だ。俺が馬車を出そう。事情が事情だし、
根っからのお人よしでニーナの大の味方でもあるアルバンは、一も二もなく俺が彼を起こした意図を汲んで、すぐに外出着と外套に着替えた。
こっそり使用人室を抜け出せば、大奥様の部屋へ向かう廊下の辺りでコンスタンツェを抱いたニーナと鉢合わせた。
「貴方達、こんな時間にどうしたの?」
この時間に外套で廊下を歩く私とアルバンを見て、ニーナは驚いたように尋ねた。
「奥様、お静かに。我々が馬車を出します。お嬢様を、お医者様に診せに行きましょう」
辺りを憚りつつ小声で答えれば、ニーナは泣きそうに顔をゆがめた。
「まあ、本当!?」
喜びを必死に抑えた小声で、ニーナは確認した。
「はい、お嬢様の一大事ですから。俺達の首が飛んだって、お嬢様の命の方が助かれば、そっちの方がずっといいってもんです」
アルバンは軽口を叩いてニーナの気持ちを和らげようとした。
「ありがとう、アルバン、ヴェルゴート……!」
コンスタンツェを抱きしめてお礼を言うニーナに、俺達は笑みを返した。
「お礼はお嬢様が助かってからです。玄関の扉は音が大きい。大奥様にばれないよう、厨房の裏口から出ましょう」
私はそっとニーナの背を押して、裏口へ促した。
外套を羽織ったニーナを馬車に乗せながら、アルバンはニーナに尋ねた。
「それで、医者はヨハネス先生のところでいいんですか?」
「いえ、ヨハネス先生は大奥様側の人だから、きっと診てもらえないわ。だから、隣町のユリウス先生のところへ。ユリウス先生は、どんな事情の人も診てくれる良い先生だと聞くわ」
ユリウス先生には、私の母が流行り病になった時にも世話になったことがあった。
様々な貴族から頼りにされる高名な医師なのに、自宅を改装した診療所で身分を問わずに診察をしてくれる篤実な方と有名だった。
「でも、どうしましょう、隣町まで行ったら、ただ往復するだけでも明日の朝になってしまうわ。朝食の時には顔を合わせないといけないのに、その場に居なければ、お義母様の話を無視して医者に診せにいったことがばれてしまう! そうなったらもう離婚裁判沙汰だわ……!」
絶望に打ちひしがれるニーナに、私はどうしたものかとアルバンと顔を見合わせた。
「では、治療の間、私がお医者様の元に残りましょう。お嬢様を送り届けたら、奥様はアルバンと馬車で屋敷に戻ってください。お嬢様の治療が済んだら、頃合いを見て、私がお嬢様を連れて馬で戻ってきましょう」
閃いて言えば、ニーナも安堵したように顔を上げた。
「往復するだけなら、大奥様と顔を合わせる朝食に間に合います。お嬢様がいなくとも、熱があると知っている大奥様は様子を見に来ないでしょう。侍女には上手く口裏を合わせてもらえばいいかと」
私が説明すれば、ニーナは頷いた。
「わざわざ奥様が行かなくても、俺とヴェルゴートだけで診せに行けばいいんじゃねえか?」
私の説明を聞いて、アルバンはふと思いついたように言う。
「いいえ、私も行かせて。コンスタンツェは今、熱で誰よりも苦しんでいるわ。少しでも母親の私が一緒にいて安心させてたいの。貴方達を信じていないわけではなくて、あくまでも私の個人的な我儘よ。手間をかけさせてしまうのは、本当に申し訳ないけれど」
こんな時でさえ、使用人の私達のことを慮って謝ってくれるニーナに胸を打たれながら、私とアルバンは顔を見合わせた。
「奥様、俺の方こそ、とんだ失礼を申しました。お嬢様も、お母様が一緒の方がきっといいでしょう。一緒に向かいましょう」
アルバンはそう言って、ニーナに微笑みかけた。
「ええ、ありがとう。頼みます」
ニーナの言葉に、私とアルバンは力強く頷いた。
隣町に向かうには、渓谷沿いの山道をしばらく行かねばならない。激しい風雨で視界の悪い中、アルバンは馬車を慎重に走らせた。私達は予定していた時間より幾らか遅れてユリウス先生の元へ到着した。
「うぅむ、どうしたのかね、こんなひどい嵐の晩に」
私が玄関の扉を叩いて声を掛けたので、寝ぼけ眼にかけた丸眼鏡をずり上げながら、口ひげを生やして恰幅のいい初老のユリウス先生が、寝間着姿のまま慌てて玄関に出てきた。
「この夜分に大変申し訳ございません。フェルゼンシュタイン伯爵家の遣いの者です。お嬢様が酷い熱でして、急ぎお連れしたのです。どうか診察していただけないでしょうか」
私が言えば、ユリウス先生は職業柄か、はっと目が覚めたようだった。
「それは大変だ! すぐに連れてきなさい」
「ありがとうございます!」
玄関近くにかけてあったらしい白衣を羽織って言うユリウス先生に礼を言って、私はアルバンに合図した。
すぐに我々は診察室に通され、ユリウス先生は診察台に寝かせたコンスタンツェをあれこれ調べ始めた。
「ユリウス先生、娘は、大丈夫なのでしょうか」
ニーナが尋ねれば、ユリウス先生は優しく微笑みかけた。
「ええ、早く来ていただいて何よりでした。季節性の流感ですが、この高熱が朝まで続けば後遺症が残るか、悪ければ亡くなっていたかもしれません。しかしもう大丈夫です。この薬を飲ませて一晩も眠れば、すぐによくなるでしょう」
ユリウス先生は穏やかな声で説明した。
「ああ、よかった! 先生、ありがとうございます!」
涙目で頭を下げるニーナにユリウス先生は微笑んで頷いた。
「ただ、この嵐の中、また馬車で山道を移動するのはご令嬢に負担がかかります。それに渓谷沿いの道はこの大雨で土砂が緩んで危ない。どうぞ今晩は泊っていってください」
親切な申し出に、ニーナは申し訳なさそうに首を振った。
「いえ、実は急なことで、夫が不在なのにもかかわらず、お義母様にも黙って来てしまったので、朝までに私だけでも戻って状況を説明しないといけませんの。そちらのヴェルゴートが付き添いますので、申し訳ございませんが、私と御者は帰らせていただきます」
大奥様が馬車を出すことを禁じたことは伏せて、ニーナは説明した。
「いやしかし、この嵐ですぞ、万が一のことがあったら」
「ご心配ありがとうございます。それでも、無断外泊など離婚裁判沙汰ですもの。娘と離れ離れには、なりたくありませんので」
驚いて言うユリウス先生を遮って、ニーナは苦笑した。
「そうですか……それでは、どうぞ、お気をつけて」
心配そうに言うユリウス先生に目礼し、ニーナは診察台の上のコンスタンツェを抱き上げた。
「ああ、可愛いコンスタンツェ! 苦しんでいるあなたを置いていくことをどうか許してね。よくなって戻って来るのを待っているわ。大好きよ」
そう言って、コンスタンツェの額に一つ口付けると、また診察台にそっと寝かせた。
「先生、どうか娘をよろしくお願いいたします」
「ええ、お任せください」
ニーナはユリウス先生の頼もしい返事に少し安堵した笑みを浮かべて、アルバンと共に馬車へ戻った。
それから、私は屋敷へ戻る二人の無事を祈りながら、ユリウス先生と共に一晩中コンスタンツェの看病をした。
薬のおかげで熱も徐々に下がり、明け方が近づく頃には苦し気な様子もなくよく眠っていて、その寝顔に心から安堵したものだ。
夜が明ける頃には風雨もおさまり、日が昇る頃には雲一つない青空になっていた。
コンスタンツェを移動させても問題ないとユリウス先生から診断してもらい、帰りの馬の支度をしていたその時だった。
「先生、大変だ! 土砂崩れに人が巻き込まれたらしい! 川下に二人倒れてんだ、急いで来てくれ!」
荷馬車に乗った商人らしきの中年の男が、叫びながら慌てて庭に飛び込んできた。
「なんだって! すぐに行く!」
「ああ、運ぶから乗ってくれ、先生!」
私を見送るところだったユリウス先生は、商人へ返事をしながら、部屋に戻ってすぐに往診用の鞄を取ってきた。
「すみません、一緒に行っても構いませんか。もしかしたら我が主かもしれなくて」
「なんだって! そりゃ大変だ、構わんよ、着いて来な!」
ユリウス先生が荷馬車に乗る間に男へ尋ねれば、気の毒な顔をして頷かれた。
合致する人数に血の気が引きつつも、アルバンとニーナでないことを祈って馬に飛び乗り、荷馬車について行った。
「先生、こっちです!」
濁った水が轟々と流れる川の土手の上で、若い男が手を振っていた。
「患者は?」
荷馬車から転がり出るように下りたユリウス先生が、手を振る男の元へ駆け寄って尋ねる。
私も馬を近くの木に繋いで、駆け寄った。
「こっちです。ただ……」
沈痛な面持ちで答える男の目線の先、土手の上の草原――そこに、絶対にあってはほしくなかった二人の身体が横たわっていた。
「引き上げた時にはもう、脈も息もなくて」
すぐに駆け寄って二人の様子を診るユリウス先生に、案内した男は告げる。
「奥様! アルバン! ああ、そんな……っ、先生、二人は……!」
信じたくない気持ちで二人に駆け寄って、ユリウス先生にすがりついて尋ねた。
「奥様は、恐らく転落した際に首の骨を折ったのだろう、即死だと思われる。御者の方も、転落の際に頭でも打って意識を失っている間に水を飲んだのだろうな、溺死だ。残念ながら……もう蘇生は間に合わない」
「そんな……! なんとかならないんですか!? 先生は医者でしょう!?」
ユリウス先生の胸倉をつかんで、慟哭した。目の前が真っ暗になる。
皆、コンスタンツェを助けたかっただけなのに、ニーナもアルバンも亡くなってしまうなんて。
「ここからなんとか出来るのは神か悪魔だけだ! 死者を蘇らせることなど医者には出来ん。気持ちは分かるが、落ち着きなさい。君は早くご令嬢を連れて伯爵家に戻り、事態を知らせなければ」
混乱する私をユリウス先生は大きな声で諌め、私の目を見て為すべきことを伝えた。
「それは……」
ユリウス先生の言葉に、事態は更に最悪の方向に転がっていることに気付く。
大奥様に無断で出てきたのに、朝食の時間はとうに過ぎている。夫のレオンハルトも戻ってきている頃だった。
ニーナとコンスタンツェの不在で伯爵家は大騒ぎになっていることだろう。
しかも、同時に男の使用人が二人も居なくなっている。
ニーナが不貞を働いていて使用人と駆け落ちをしたということにするには、十分すぎる条件が揃っていた。
このまま私がコンスタンツェを連れて戻り、全ての事実を話したとしても、伯爵家はきっとそれを認めず、不貞を働いたうえにニーナとアルバンを殺した男として私を警察に突き出すことだろう。コンスタンツェも不義の子として捨てられてしまうかもしれない。
「――先生、実は、聞いて頂きたいお話があります。少し、人払いをお願いできますか」
俺は腹を括って、ユリウス先生を見据えた。
私の表情に、ユリウス先生も何か察するところがあったのだろう。救助に集まっていた人々に離れてもらうことを頼んで、私と二人きりになってくれた。
そして私は、伯爵家の状況を全て話し、このままだとコンスタンツェも危ないということを説明した。
「俺の身はどうでもいいんです。ただ、お嬢様が不義の子とされるのだけはなんとしても避けなければなりません。先生、なんとかなりませんか」
一通り話してユリウス先生に尋ねれば、彼は腕組みをして少し考えた。
「君も御者も黒い瞳だね。ご令嬢は空色の瞳だ。遺伝上、もし君達と青い瞳のニーナ様との子が出来たとしたら、黒い瞳の遺伝子の方が優性になるから、子供は黒い瞳になるはずだ。空色の瞳になることはない。ご令嬢は旦那様と同じ色の瞳だから、旦那様のお子であることに間違いはない。そこは私が証明しよう、安心しなさい」
ユリウス先生の言葉に、私は胸を撫でおろした。
「ああ、ありがとうございます。では、先生にお嬢様を託してもよろしいでしょうか」
「それは構わんが、君はどうするのかね?」
人の良いユリウス先生は心配そうに尋ねた。
「俺は……国境近くの領地にいる親類を頼ろうと思います。俺も一緒に転落死して、死体は上がらなかったことにしてください」
「ふむ。君はご令嬢を助けようとしただけだからな。無実の罪で投獄されるよりは、そちらの方がいいだろう」
痛ましい表情をしながらも、ユリウス先生は同情して答えた。
「はい。それから、事情を知ったとなれば、先生にどんな禍が及ぶか分かりません。先生は何も知らない
「しかしそれでは、奥様の死に不名誉な罪が伴ってしまうのではないか」
「伯爵も大奥様も体面を重視します。ユリウス先生がお嬢様を連れ帰れば、大奥様は昨夜の発熱を知っているため『病気の娘を医者に診せに行こうとして、転落事故に遭ったに違いない』と答えるに決まっています」
心配そうに尋ねるユリウス先生に首を振ってから答えた。
ユリウス先生は他の貴族の屋敷へも往診に行くことのある医師だ、外聞の悪いことを伝えることはないだろう。
「その手の答えが返ってきたら、父親の証明もかねて、『遺体を見つけた者の中に駆け落ちかと噂する輩がいましたが、とんでもない!』とでも言って、先程のお嬢様の瞳の色のことについて、大奥様と旦那様にご説明ください。最後に『これくらい常識です』とでも付け加えれば、二人ともお嬢様をどうこうすることは出来なくなりましょう」
ニーナが亡くなった今、彼女の愛したコンスタンツェを守らなくてはという気持ちだけで必死に考えて言った。
「なるほど。それなら確かに大丈夫だろう。その作戦で行こう」
ユリウス先生もそれに大きく頷いてくれた。
「それでは、俺はこれで」
死人ということになったのだから、一刻も早く遠くこの場を去らなければと馬に向かえば、ユリウス先生に引き留められた。
「待ちなさい、国境へ向かうにも準備がいるだろう。一旦、うちに寄りなさい」
「そんな、そこまでお世話になるわけには」
私が遠慮しようとすれば、ユリウス先生は静かに首を横に振った。
「いいんだ。君がお世話になろうとしている親類は、シャルフェンベルク辺境伯――違うかね?」
「何故それを」
思わぬところから自分の出自にまつわる名前が出て来て、驚いて尋ねた。
「辺境伯は古い知り合いでね。君は彼に瓜二つだ。それに君が赤子の頃、母親と一緒に辺境拍の別荘に住んでいた頃に、診察したことがあるのだよ。やむを得ず君の母親と辺境伯は引き離され、母親はこの街に住むことになった。辺境伯からは、何かあれば十分な治療をと、諸々の口止めも兼ねてかなりの金貨を頂いていたんだ。幸い君は丈夫に育ち、君の母親の流行り病の治療に使ってもまだ使い切れていない金貨が残っている。君に返す前に、君がこの街を発ってしまっていたから、返せなくて困っていたんだ。ちょうど良い機会だ、君のための金貨なのだから、持って行きなさい」
思わぬ事情を聞かされて、目を丸くした。
「そんなことが、あったのですか。では、ありがたく受け取らせていただきます」
どこまでも善良なユリウス先生の提案に、頭を下げて頷いた。
「しかし、先程とっさに親類を頼ると言いましたが、正直、辺境伯を頼っても受け入れられるとは、とても思えません。それに、二人が死んだのは、俺の提案のせいなんです。自分一人だけ、のうのうと貴族になることなど、どうして出来ましょうか」
自嘲してユリウス先生に言う。俺があんな提案さえしなければ、二人は亡くならずに済んだ。金貨がどれほどの金額になるかは分からないが、どこか遠い土地で、二人を死なせてしまった罪を償いながら、静かに暮らしていきたいと思った。
「これは不幸な事故だ。君のせいで死んだわけじゃない。自分を責めてはいけないよ。少なくとも、君はコンスタンツェ様の命を救ったんだ。それを誇るべきだ」
ユリウス先生は語気を強くして私を叱った。
「しかし」
言いかける私を手で制して、ユリウス先生は続ける。
「それに辺境伯の子供達は、実は、君の母親と同じ流行り病で、相次いで亡くなっているんだ。彼にはもう君以外に子供が居ない。それに、辺境伯は本当に君の母親を愛していた。君のことを、きっと受け入れてくれるだろう。心配なら、私からも一筆書こう」
ユリウス先生はそう言って、私の背中を優しく叩いた。
「辺境伯の跡を継ぎ、ご令嬢に何かあった時に貴族として助ける――これが、君にできる一番の二人への償いではないかね?」
ユリウス先生に言われてはっとする。ユリウス先生が乗ってきた荷馬車の中で、まだ眠っているコンスタンツェ。ニーナが心から愛した娘は、母の死によってかなり危ない立ち位置になることは間違いない。
「そう、ですね。それが出来るのは、俺だけです。辺境伯の元へ向かうことにします。一筆、お願いしてもよろしいですか」
貴族になることについては実感の湧かないまま、ユリウス先生に尋ねた。
「ああ、任せなさい」
温かく頷いたユリウス先生の援助を受け、私は先代の辺境伯の元へ向かうのだった。
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