6-4

 目を覚ました時、僕は病院のベッドの上だった。

「おはよう、ようやくお目覚めだね」

 上体を起こして声の方に振り向くと、荒木先生がまたスマホ片手にパイプ椅子に座っている姿が見えた。

「……今は何時ですか」

「朝の九時過ぎってところかな。それにしてもきみは、毎回起き抜けに同じことを訊くな」

「……先生も、僕が起きる度にそこにいますね」

「おいおい変なこと言わないでくれ。俺がちょっと顔を見に来た時に、きみがちょうど起きるんだよ」

 そういった名目で、ここで堂々とサボってるんじゃないかと言おうとしたが、やめておいた。

 僕は壁にかかった時計を見る。先生が言った通り九時過ぎだ。窓の外も明るい。

「あれからまだ数時間……」

 僕は無意識のうちにそう呟いていた。

 夜の姿が思い浮かぶ。ストレッチャーに乗って連れられて行く夜。手術は無事に済んだのだろうか。

「おっと、きみは勘違いしてるみたいだな」

 だがその時、先生がそんなことを言ったので僕は振り返った。

「まだ数時間じゃない。きみが倒れてから、もう一日と数時間が経ってるんだよ」

「……え?」

「きみは丸一日以上眠りっぱなしだったってわけさ。それだけ疲れてたんだろう。診断名は過労だ」

 僕は荒木先生の言葉に目を見開く。そんなにも寝ていたのか。

 いわれてみれば、頭の芯がすっきりしているような気がする。身体も少しだるいが、なんだか重石が外れたように軽い。

 僕は不思議な感覚でしばらくぼんやりとしていたが、間もなくハッと思い出した。

「あ、手術は……夜の手術はどうなったんですか」

 前のめりになって訊ねる僕に、荒木先生は一度真面目な顔になったあと、すぐにふっと笑った。

「……すべて終わったよ。あの後、間もなく脳波と自律呼吸の停止が確認され脳死と判定された。夕陽執刀のもとで心臓の摘出手術が行われ、そいつはすぐさま夕陽自身が妹さんのところへ届けた。今頃は移植手術の方も終わってるだろう」

 それを聞いて、僕はいつの間にか緊張していた身体から力を抜いた。

「そう、ですか……夜は無事に、死んでいったんですね」

 荒木先生は、今度は無言で頷いた。

 僕は夜の死を思い、安堵感と喪失感を同時に味わっていた。

 夜の願いはかなった。けれど……もう夜はこの世界にはいない。

 夜は死んだ。その事実は納得していても、やはり僕の心を苛む。けれど夜が言っていたように、彼女の魂は死なない。僕も、彼女のことを忘れることは決してない。

 ……それでも、寂しい。夜がいない世界が、こんなにも寂しかったなんて……。

「やれやれ、きみはずいぶんと大人の顔をするようになったな」

「急に変なことを言い出さないでください」

「からかってるわけじゃない。摘出手術が終わった後、夕陽が行く前に少し話をした。きみとのことはその時に聞いたよ。……ありがとう、あいつを救ってくれて」

「……僕は瀬戸先生を救ってなんていません。ただ……これからも夜のことは忘れないでほしい、罪を背負っていってほしいと思っただけです」

「そういったことが救いになる時もあるんだよ」

 荒木先生はそう言って笑いながら、懐から何かを取り出して僕に手渡してきた。

 見ると、それは何重にも折りたたまれたレポート用紙だった。

「これは?」

「手紙……なんだろうな、きっと。あの子からきみ宛だ。夕陽から預かったものだ」

 そう聞いた瞬間、僕は弾かれたような動きでそのくしゃくしゃのレポート用紙を広げた。

 夜からの手紙。そんなものがあるなんて思ってなかった。夜は一言もそんなこと言ってなかったのに。

 初めて見る夜の文字は、まるで幼稚園児が定規を使って書いたようなチグハグな感じだった。鉛筆で書かれていて、何度も消して書き直したのか、ところどころが黒ずんでいた。

 それは「手紙を書きます」という出だしで始まっていた。続いていつ書かれたのかがあって、それは今から二日前――夜と屋上へと行き真実を知った日だとあった。そういえばあの日、夜は時間通り訪ねてこなかったけど、もしかしてこれを書いていたからだろうか。

 短い手紙だった。レポート用紙一枚にも満たない。でも僕は、その一字一句を頭に刻みつけるようにして読み始めた。


 手紙を書きます。文章を書くのはこれが初めてだから上手くは書けないけど、ごめんなさい。

 こんなことなら手紙の書き方の本を読んでおけばよかった。でも海と出会ってからは本を読むのに時間なんて使いたくなかったからしかたないよね。

 これは私がお兄さんのことを聞いて海を傷つけた日の次の日に書いています。

 手紙を書いた理由は三つあります。

 一つ目は海の前でちゃんとこの気持ちを伝えられるか不安だったからです。

 二つ目は私に残された時間がもうあまりないことです。

 三つ目は花の手紙を見て私も文章で自分の考えを残そうと思ったからです。

 もしかしたらこんな手紙はいらないかもしれないけど、万が一を思って書きました。

 私は心臓を摘出するために生み出されたクローン体です。

 私の脳はもうすぐ機能を停止して脳死状態になります。今まで言えなくてごめんね。

 私が伝えたいことは海に幸せになってほしいということです。

 海がお兄さんに対してどんな思いを持ってるのかは私にはわかりません。そのせいで海を傷つけちゃったのはごめんなさい。

 でも私はやっぱり海には幸せに生きてほしいよ。

 私の脳は死んで心臓は移植されます。私は移植された人が幸せに生きてほしいです。

 だから自分の臓器を提供したお兄さんもカイに幸せに生きてほしいと思っています。

 海はお兄さんと比べて自分の命の価値に悩んでいたけど、そんなのおかしいよ。

 海には自分らしく生きてほしい。なぜなら私は海のことが大好きだからです。

 海はお兄さんのように生きなくたっていいんです。だってクローン体は同じ人間じゃないんだから。

 私のオリジナルは海に会ったことがありません。でも私はあります。だから私はすごくラッキー。

 生まれてきてよかった、生きててよかったって本当に思います。私を造ってくれた夕陽にはすごく感謝だね。

 でも一番感謝したい相手はやっぱり海です。

 出会ってくれてありがとう。海と一緒にいて、私はすごく幸せでした。


 それは夜が初めて書いただけあって、とてもたどたどしい手紙だった。

 読んだり話したりと違って手で文字を書くという行為は難しいのだろう。全体的にぎこちなく、文字の大きさや行間もガタガタだ。

 だけど、そんな不器用な手紙だからこそ、そこからは夜の気持ちがまっすぐに伝わってきた。

 自分の死を目前にしてなお、夜は僕を勇気づけようとしてくれていた。彼女はなんて強かったのだろう。

 自分らしく生きてほしい。兄さんのように生きなくたっていい。

 その言葉が、僕をどれだけ支えてくれるか……。

「……あ」

 その時、僕の意識は不意に過去へと飛んだ。

 思い出したのだ、あの時の夢の続きを。

 いや、あれは夢ではなく、確かに昔あったやり取りだったのだ。


 ――僕は兄さんみたいな人間になりたい。


 ある日、僕は兄さんとの会話の中でそう言った。

 それは自分を好きになれない僕の、深く暗い羨望のこもった本音だった。

 けれど、兄さんはそれを聞いてやや呆れた顔をしながら、笑ってこう返したのだ。


 ――俺みたいになんてならなくていいよ。お前にはお前のいいところがいっぱいあるのに。俺達は双子だけど、同じ人間じゃないんだからさ。


 ……ああそうだ、兄さんはもうずっと昔に、ちゃんとそう言ってくれてたんだ。

 僕はその言葉を素直に受け取れなかった。だから今までずっと忘れていた。

 だけど、これからはもう決して忘れることはない。

 二人の言葉を胸に刻んで、僕はこれからも自分の人生を生きていくだろう。

「憑き物が落ちたって表情だね」

 その声に僕が顔を上げると、荒木先生がいつも通りの笑みを浮かべていた。

「これからのことをいろいろ考えていました」

「これから? これからどうするんだい?」

「……そうですね。まだはっきり考えてませんけど……誰かのために生きていくのもいいかもしれません」

「へぇ、じゃあ医者にでもなるかい? また俺が要領のいい勉強法を伝授しようか?」

「いえ、自分のやり方でコツコツ勉強します。先生のやり方は、僕にはなんか合ってなかったから」

 そう言うと荒木先生は「ハッキリ言うね」と楽しそうに笑った。

「とりあえずは、日常に戻るためにももう少しリハビリですね。引き続きお願いします」

「ああ、そりゃ無理だね。きみはもう退院だから」

 頭を下げかけた僕に、荒木先生はきっぱりとそう答えた。

「え、退院ってどういうことですか?」

「以前チラッと言っただろ。ここは移植手術専門で、その後のケアはやってないんだって。きみがここに残ってたのは特別な事情があったからで、それがなくなった今は退院するのが当然の流れなの」

「……その特別な事情っていうのは、夜のことですね」

「……まあそりゃ気づくよな。一卵性双生児のデータ云々は、まあお察しの通り方便だよ。きみがあの子と接触したから帰せなくなったってわけだ」

 なるほど、今になってみればそういった事情もよくわかる。

「突然ですまないね。とはいえ、俺ももうきみには付き合ってやれなくなるわけだし、仕方ないよな」

「何かあるんですか?」

「ここを出るのさ」

 僕の質問に、荒木先生はあっけらかんと答えた。

「おそらく妹さんの手術を終えたら夕陽ももうここには戻ってこないだろうしな。あいつの傍にはいてやらないといけないから……」

 少しだけ目を細め、遠くを見るような目で先生は言う。

 だけどすぐにまた元に戻って「そういうわけだ。悪いね」とおどけるように肩をすくめた。

「いえ、瀬戸先生の傍にはどうかいてあげてください」

 けれど僕がそう返すと、荒木先生は苦笑して「……悪い」ともう一度繰り返した。

「……とまあ、そういうわけだ。きみの身体はもうかなりよくなってきてる。あとは普通にリハビリを続ければ大丈夫なはずだ。がんばってな」

「はい、早くちゃんと動けるようになりたいですから」

「サッカーができるように?」

 唐突に、荒木先生はいたずらっぽい顔でそんなことを訊いてきた。

 そうだった。僕はこれまでそんなことを言っていたのだ。兄さんの代わりになろうとして。

 でももう、そんなつもりはまるでなかった。というか、そんなのはもともと無理なことだったのだ。

 だから僕は平然とこう返した。そこにはもう、僕を縛るものは何もなかった。

「いえ、実は僕、球技全般が苦手なんです」

 それを聞いて荒木先生は、実に楽しそうに笑ったのだった。




 先生が病室を出て一人になってから、僕はまた夜の手紙を読み返した。

 すると、まだ開いていなかった下の方の折り目の中に、短い文章があるのを見つけた。

 それは最後に慌てて書き足したかのように他の文字よりもさらに歪んでいたが、それでもちゃんと読み取ることはできた。


 私の脳は死んじゃうけど私の心臓は生き続けるよ。だからまたね、海。


 書かれていたのはその一文だけ。

 でもその一文は、それまでのどこよりも夜の心が――望みが込められているような気がした。

 僕は何度も何度もそれを繰り返し読んで、そして目をつぶった。

「……うん、またね、夜」

 その呟きはすぐに虚空へと溶けて消えた。

 けれどその時、なにか不思議な予感がして、僕の心臓はドクリと一つ高鳴ったのだった。


 夜の気配がした。

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