6-3
「……その子を渡してくれるかしら」
ザッと、大きな風が僕達の間を抜けていった。
瀬戸先生はいつも通り、何の表情も浮かんでいない顔で僕を見つめながらそう言った。
先生の後ろでは、屋上の時と同じように数人の医師や看護師が控えていた。人工呼吸器と、そして今回はストレッチャーも持って来ている。
「どうしたの?」
僕が何も答えずにいると、瀬戸先生はわずかに眉をひそめた。
一方で、僕はやはり無言のまま先生をジッと見ているだけだった。
「……もしかして、渡したくないの? その子の真実を知って憤っているから? 力づくでここを突破して、その子と逃げるつもりとか……」
瀬戸先生がそう言うと、後ろにいた人達の方がギクッと身体を強張らせた。
しかしそれでも僕は動じなかった。不思議なくらい心が落ち着いていた。
「そんな感情的な瀬戸先生は初めて見ました」
やがて僕は、先生を見据えたままそう言った。
先生はいよいよ怪訝そうな視線を向けてくるが、僕は気にせずに歩きだした。
先生の横を通り過ぎ、その後ろでうろたえている人達のところへ行って、自分の手で夜の身体をストレッチャーに横たえた。
夜の重みがなくなって、僕は初めて腕の痛みを感じた。
「……素直に返すとは思っていなかったわ」
それを見届けた瀬戸先生は、また無表情に戻ってその場を去ろうとした。
「待ってください」
だけど僕はそれを呼び止めた。
先生は振り向くことなく、背中を向けたまま立ち止まった。
「少し、お話ししたいことがあります」
瀬戸先生は立ち止まった姿勢のまま何も答えなかった。
医師と看護師が僕と先生を交互に見てオロオロとしているのだけが、この場で動いているものだった。
「……先に行って、準備を」
やがて先生がそう告げると、医師達は夜の身体を載せたストレッチャーを引いて足早に立ち去った。
湖のほとりには僕と瀬戸先生だけが残り、そしてまたしばらくの間沈黙が訪れた。
「……話というのは? あの子の敵でも討とうというのかしら」
その沈黙を破ったのは瀬戸先生のそんな言葉だった。
それは、どこか沈黙に耐えかねたといった気配があった。
「違います」
僕が答えると、先生は「じゃあ、なに?」と返した。
「先生に言いたいことがあったんです。……一つは、僕が先生を許さないということ。夜にあんな過酷な運命を背負わせたことを、僕は絶対に許しません」
「……そう」
「それからもう一つはお願いです。どうか、夜の心臓の摘出と、妹さんへの移植手術を必ず成功させてください」
その時、また風は強く吹いて木々を揺らした。
ザアァという波のような音が、辺りから響き渡った。
「……どういう、ことかしら」
その風が過ぎ去った後、瀬戸先生は背中越しにそう訊ねた。その声は微かに震えていた。
「それが夜の望みだからです。彼女は自分の運命を受け入れていた。そして移植される側の幸せを心から願っていた。……僕はその願いがかなってほしいと思っています」
先生は何も答えない。何をどう答えていいかわからないのかもしれない。
僕は続けた。
「きっと、僕がこんなことを言わなくても、移植手術は成功したと思います。でも、僕はどうしても瀬戸先生に聞いてほしかった」
「……どうして」
「言ったはずです、僕は先生を許さないと。これが先生に対する罰になると思ったから」
「……罰?」
「先生は、ずっと迷っていたんじゃないですか」
その言葉に先生の身体がビクリと震えたのを、僕は確かに見た。
「荒木先生から聞きました。あなたはクローンなんかを作ってまで妹さんを救いたかった。あなたにとって妹さんがどれだけ大切な存在かがわかります。だから、いくら脳死状態とはいえ、妹さんのクローン体から心臓を摘出するということには抵抗があったはずです。見た目は妹さんそのものだ。しかもそのクローンには心まで芽生えてしまった。本当に心臓を摘出していいのか、思い悩まないはずがない」
「……あの子は私の妹じゃないわ。たとえ遺伝子が同じでも全くの別人よ」
「それでも、あなたは深く苦悩したはずです」
僕は断言した。
これまでたびたび見てきた、瀬戸先生の苦悩の影。
そしてそれをなんとか抑え込もうとしている痛ましさ。
今なら、それがよくわかる。
「……なんの根拠もない妄想ね。私は目的のために全てを投げ捨てたの。良心さえも」
しかし、瀬戸先生はまだそれを認めようとしない。
「じゃあ聞かせてください。どうして先生は僕をずっと放っておいたんですか?」
「なんのこと?」
「どうして僕を夜と接触させ続けてきたんですか? どうして僕に真実を話したんですか? そんなのは単なるリスクでしかない。夜という存在が外部に漏れる危険性が増えるだけで、何のメリットもないことでしょう?」
「……それは」
「それにそもそも、どうして今日、僕は夜をここへ連れ出せたんですか。いくらモニターしているといっても、そのままどこかへ行方をくらませてしまうかもしれないし、最悪事故に遭う可能性もあったのに? なのに鍵もかけず見張りもつけず、僕達のしたいようにさせた。それはなぜなんです?」
「…………」
瀬戸先生は何も答えない。
だけどその沈黙が、僕には明確な答えに思えた。
「……先生、あたなは僕に止めてほしかったんですね」
だから僕は、ためらうことなく核心を突いた。
「夜が人間らしくなっていくにつれ、あなたの悩みは大きくなった。でも、自分ではもう止まることができない。だから誰かに止めてほしかった。止めたところで何の意味もないとわかっていながら……」
夜の脳の死は、生まれた時から決められていた運命だった。
そしてそれを決めたのは、他でもない瀬戸先生なのだ。
「……さっきの敵を討つなんて言葉もおかしいですよ。僕には、まるで先生が僕に殴られたがっているようにさえ聞こえました」
あれはもう挑発じゃなかった。悲鳴に近いものだと思った。先生は助けを求めていたのだ。
「……けど、僕はそんな望みをかなえるつもりはありません。先生のことは許さない。だから罪を償ってください。夜の手術を必ず成功させてください。……お願いします」
僕はそう言って、背を向けたままの瀬戸先生に頭を下げた。
先生はそれでも何も言わずに立ち尽くしているだけだった。僕にはその背中が泣いているように見えた。
やがて、瀬戸先生は無言のままその場を立ち去った。
僕はその姿が木々の間に消えていくまでずっと眺めていた。
そうして一人になった途端、僕はその場に膝をついた。
涙がとめどなく溢れて、それに合わせて身体中から全てが流れ出していくような感覚だった。
ただそんな中でも、夜への想いだけはいつまでも僕の中に残ったままだった。
僕は顔を上げ、涙で滲む視界で空を見上げた。
既にそこに月はなく、空の端が明るみだしていた。
夜が明けたのだ。
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