6-2

 その日の深夜二時を回った頃、僕は夜の病室へと訪れた。

 ドアに鍵はかかっておらず、そっと開いて確認したけど中には誰もいなかった。

 夜は昨日見た時と同じ体勢のまま、ベッドに静かに横たわっていた。

 その人形のような姿に僕は胸が痛んだが、今は感傷に浸っている場合じゃない。

 僕は脳波計がまだ動いていることを確認すると、ベッドに近づいて呼びかけた。

「夜……夜……」

 軽く身体を揺すると、幸運なことに反応があった。夜がうっすらと目を開いたのだ。

 荒木先生によると、夜は時間が経つにつれて徐々に起きていられる時間が少なくなっていったのだという。

 最初は八時間ほどあった覚醒時間は次第に短くなっていき、僕と出会った頃には深夜二時からの三時間程度にまで減っていたらしい。

 そこからもさらに短縮していった過程は、僕も自分の目で見てきた。急に眠たくなったと言って帰っていく時間が、だんだんと早くなっていったことを思い出す。

 夜に残された時間は少ない。それを二度と目を覚ますことなく過ごす可能性も十分あった。

 ただ、夜がいつも必ず目を覚ます時間帯に呼びかければもしかしたらまだ目覚めるかもしれない。荒木先生はそう言っていたが、どうやら賭けには勝ったらしい。

「…………カイ?」

 夜は僕の方へと視線を向けると、小さな声ながらハッキリとそう答えた。

 目が覚めても意識がちゃんとあるかどうかは分の悪い賭けだったけど、これもなんとか勝てたようだ。僕はこの瞬間に人生の全てのツキを使ってもいい気持ちだった。

「夜、大丈夫? 意識はちゃんとある?」

「ん……だいじょぶ……」

 夜は思ったよりもしっかりした反応を返しながら、上体を起こした。

 そして慣れた手つきで頭の輪っかと人工呼吸器を外すと、大きなあくびと共に「んー……」と伸びをした。

 当たり前だけど自分で呼吸している。自発呼吸の有無は脳死状態か否かの重要な指標だと荒木先生が言っていた。

「……今何時?」

「きみがいつも起きる時間だよ」

「そうなの? でも……なんだかすごく眠いよ……」

 いつも覚醒する時間でも、夜の頭の働きは鈍いままのようだった。それだけ夜の脳は限界が近いのだろう。

 僕が起こしていなければ、そのまま目覚めることがなかったかもしれないと思うとゾッとする。

「……あれ? そういえば、なんでカイがここにいるの?」

「夜を迎えに来たんだよ」

「私を……? 迎えに……?」

「……夜のことは、昨日きみが倒れた後に瀬戸先生から全部聞いたよ」

「あ……」

 そこで初めて、夜は昨夜のことを思い出したようだった。

「そっか……私、カイに秘密をしゃべっちゃったんだっけ……」

「その後に詳しい話を聞いたよ。……きみは本当にクローンだったんだね」

「えへへ……だから言ったでしょ? カイと同じだって」

「残念だけど僕は違うよ。偽物だ」

「ニセモノ?」

 夜がよくわからないといった顔で首を傾げる。

 僕は以前、自分のことをクローンだと自嘲を込めて言った。兄さんを失った悲しみとコンプレックスから、兄さんの劣化クローンだと。

 だけど違った。僕は単なる双子の弟にすぎない。厳密な意味ではクローンで間違いないけど、そういう言葉は夜のような存在を表すものだ。

「そんなことより、今は早くここを出よう。話は後で」

 僕は昔の自分を思い返しながらも、夜の手を掴んでそう促した。

「え? 出るって、どこかに行くの?」

 夜はまだまだ眠そうだったけど、僕の突然の行動に驚く。

「うん、この病院の外に出かけるんだ」

 そう答えると、夜はさらにビックリした様子だった。

「病院の外……? どうして?」

「きみを湖に連れて行く。……デートをしよう」

 少し照れながらそう言うと、夜の目が急にパッと開いた。

「デート? カイと、湖でデートなの? 連れてってくれるの?」

 僕が頷くと、夜はパッとベッドから飛び起きて「やったぁ!」と勢いのまま僕に抱きつこうとした。

 だけどその途中、足に力が入らなかったのか倒れそうになったので、僕は慌てて夜の身体を支える。

「大丈夫?」

「ごめんなさい。……なんか身体が上手く動かないや。脳機能の低下に伴って運動機能も落ちてるんだね……」

 夜は冷静に自分の変化を分析する。

 徐々に脳が死につつあることを認識してそれを受け止めるなんて、どれだけ勇気のいることだろう。そしてどれだけ悲しいことだろう。

「……手伝うよ。歩ける?」

 僕は泣きそうになるのを堪えて、夜の身体を支える。

「なんか今までと逆になっちゃってるね」

 すると夜は、それがいかにも楽しいことだといわんばかりに笑った。夜がどれほど強いか、今なら痛いほどわかる。

 夜は僕に身体を預けるようにしながらベッドから抜け出し、そのまま歩き出そうとする。

「あっ……とと……」

 しかしやっぱり力が入らないらしく、もつれそうになる足をなんとか踏ん張るだけで精一杯のようだった。

 僕は壁に立てかけられていた車椅子に手を伸ばし、折りたたまれていたそれを広げて座ってと促す。

 すると夜は「いいの?」と目を輝かせ、僕に車椅子を押してもらうのがたまらなくうれしいといった笑顔を見せた。

 はしゃぐ夜の姿に僕はまた泣きそうになったが、そんな感傷に浸っている時間はなかった。

 僕達は病室を後にして廊下に出た。誰にもとがめられなかったし、誰とも会わなかった。

 瀬戸先生は夜の様子を常にモニターしていると言っていた。だから僕が夜を連れ出したことも当然バレているだろう。

 そのうえでなぜ好きにさせているのかはわからないけど、今はいい。状況をありがたく利用させてもらおう。そんなことを考えながら、僕達は一階に下りて裏口の方へと向かった。

「でもカイ、病院の外にどうやって出るの?」

 そろそろ裏口に到着するという頃、ふと夜がそんな疑問を口にした。

「大丈夫、協力者がいるから」

 僕が答えると、それを聞いていたかのようなタイミングで物陰から荒木先生が出てきた。

「来たな。裏口は開けてるしセキュリティも切ってあるぞ」

「ありがとうございます。大丈夫でしたか?」

「なに、こう見えて俺は優秀だからな。それに今は暇だから、いろいろ動きやすいんだ」

 先生はそう言いながらチラリと夜の方を見る。

「ねえカイ、誰この人?」

 一方で夜は人見知りした様子もなく、荒木先生の顔をキョトンと見つめていた。

 僕が担当医だと紹介すると、夜は「アラキアラキ」と何度か呟いてからえへへと笑った。

 それを見た先生の顔が強張ったように見えたのは、きっと闘病中の瀬戸先生の妹さんと比べたからだろう。

 しかしそれも一瞬のことで、荒木先生は裏口を開けると僕達を外に出して急ぐように言った。

「もう一度言うけど、道なりに真っ直ぐ行けばすぐに小さな木の看板が見つかる。その後ろに湖に下りる道があるから。獣道かと思えるくらいの狭いところだが、ちゃんと人の手は入ってる。湖まではそんなに距離はないはずだ。じゃ、がんばってくるんだぞ」

「わかってます。ありがとうございます」

 僕が小さく頭を下げると、先生は僕の背中をバンッと叩いて、

「ほら、デートなんだからもっと気合を入れるんだ。バシッと一発決めてくるんだぞ」

 そんなわけのわからない激励を残してから病院内へと戻って行った。

「ねえカイ、一発決めるってどういう意味? 何を決めるの?」

「……がんばってこいって意味だよ。間違ってもそれ以外の意味はないから」

 僕は自分に言い聞かせるようにそう答えながら、病院を背にして歩き出した。

「……うわぁ、今私、本当に外に出てるんだね。すごいねぇ……」

 夜は車椅子に揺られながら、きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回す。

 僕達は木々に挟まれながら道路を道なりに進んで行き、間もなく小さな看板を見つけた。

 文字はかすれて読めなかったが、かろうじて矢印が見えた。その方向を見ると、確かに草むらの合間に小さな道のようなものがあった。

 しかし先生が言った通り、それはかなり狭かった。車椅子のままで通れるだろうかと迷っている時、夜が不意に立ち上がった。

「あ、どうしたの夜」

「ここからは歩くよ。このままじゃ通れないでしょ?」

「でも」

「……大丈夫。さっきよりも少しだけ身体機能が戻ってきたみたいだから。……でも、やっぱり一人じゃ無理っぽそうだから、カイが支えてね」

「それはいいけど……でも無茶はしなくていいよ。車椅子のままでもなんとか湖まで連れて行くから」

 僕の言葉に「今日のカイは優しいなぁ」と、夜は心底うれしそうにえへへと笑った。

 しかしすぐにふるふると首を振ると、こう続けた。

「……大丈夫だよ。それに、カイの車椅子も楽しいけど、自分の足で歩きたいから」

「どうして?」

「だってこれはデートだもん。一緒に歩いた方が思い出になるでしょ」

 その返答に、僕は思わず胸が詰まった。

 どこまでも健気に、真っ直ぐに、残された時間に向き合おうとしている夜。僕はそれ以上何も言えなかった。

「……わかった。歩こう」

 僕は夜の身体を支えながら、湖への道に足を踏み入れた。

 夜が枝や葉っぱで傷つかないよう密着して歩く。ただでさえ遅い歩みがさらに遅くなったが、無理をするわけにはいかなかった。

「……カイさぁ、どうして急にデートに連れて来てくれたの?」

 しばらくして、夜は唐突にそんな質問を投げかけた。

「私の秘密を知ったから?」

「きみは本当にストレートだね。……でもまあ、その通りだよ」

「……ごめんね。本当はもっと早くに言うべきだったけど」

「いや、口止めされてたし、そもそもあんなことは人には言えないよ」

「カイが自分をクローンだなんて言うから、私もつい言っちゃったんだけどね」

「あんなの額面通りに受け取る人はいないと思うよ」

 僕はそう言ってから、まだ答えていない夜の疑問に答えた。

「……きみを連れ出したのは、罪滅ぼしのつもりっていうのがあった」

「罪滅ぼし? カイは何か罪を犯したの?」

「夜の境遇を知らずに傷つけた。……きみにとって臓器移植というのがどれほど重要なことかも知らずに僕は……」

「ん? それが罪なの?」

「……ちょっと、きみがそんな反応だったら真面目な雰囲気の僕がバカみたいじゃないか」

「だってカイは私の秘密を知らなかったんだから、それは仕方ないことだよ」

「それが通用するならこの世に過失なんて罪はなくなるね」

 なんてのん気な会話だと呆れた。

 でも同時に、僕はそんな雰囲気になんだか救われたような気にもなった。

「……いいんだよ、きみが気にしてなくても、僕は自分が許せなかったんだ。だから夜のためにできることがないかって考えた」

「それが、デート?」

「うん。僕にできることはこれくらいしかなかったけどね」

「ううん、私がしてほしかったことはこれだけだよ」

 夜は笑顔でそう答えた。僕はその瞬間、胸が深く締め付けられた気がした。

 ……そうだ、夜が望んでいたのは本当にそれだけだった。

 夜は一度も生き延びたいなんて言わなかった。死にたくないなんて気配さえなかった。

 本当に、自分の運命を心から受け入れているのだろう。臓器を摘出されるために生まれてきた……そんな過酷な運命を……。

「……えへへ」

「なに?」

 僕が思わず泣きそうになるのを堪えていると、夜が僕の顔を覗き込んでうれしそうに笑っていた。

 それはいつもよりも、どこかとろんとした感じの笑みだった。おそらく眠気によるものだろう。僕は一秒でも長く、夜の意識が続くことを願った。

「いやぁ」

「……なんなの。ニヤニヤして、ちょっと気味が悪いんだけど」

「えへへー、やっぱり今日のカイは優しいなぁって思って」

「それはさっきも聞いたよ」

「何度でも言いたいの。だってさ、いつものカイも優しいんだけど、なんかちょっとピリピリした感じもあったんだよね。でも今はそれがないの。もうなんていうか、カイの全部が優しくなってる感じがする」

「ああ、それは……」

 それはきっと、僕が自分を好きになろうと思ったからなのだろう。

 自分が嫌いな人間は、常に自分を傷つける。その気配を、夜は敏感に察していたのかもしれない。

「……優しくなろうとしてるんだよ」

 僕がそう答えると、夜は「えへへへへー」と一段と頬を緩めた。

「いいね。私、今のカイの方がもっと好きだよ」

「それは、どうも……」

 とはいえ、さすがに夜みたいに素直すぎるといったレベルにまではなれない。

 僕は赤くなった頬を見られないようにそっぽを向く。時折木々の間から降りてくる青白い月光が、隠してくれるといいのだけれど。

「そっかぁ、カイはもっと優しくなったのかぁ。じゃあねじゃあね、私、カイにおんぶしてほしいなぁ」

「え? おんぶって、もう歩けないの?」

「ううん、大丈夫だよ。ただカイにおんぶしてほしいだけ」

「……さすがにそこまで優しくはなれないかな。そもそも僕の今の身体じゃ、夜をおんぶしてもロクに歩けないだろうし」

「えー、ダメなの? じゃあ……だっこ?」

「難易度が上がってるじゃないか。普通に歩くので精一杯だよ」

 そう言うと、夜は「ちぇー」と唇を突き出したが、それでも楽しそうだった。

 とはいえ僕の言葉通り、僕達の歩みは遅々としたものだった。夜の足取りは相変わらずおぼつかないし、それを支える僕も、つい最近支えなしでなんとか歩けるようになったばかりだ。

 湖への道は長かった。木々に囲まれているので、あとどれくらいなのかもわからなかった。春川さんは病院の近くと言っていたけど、僕の体力で辿りつけるかどうか不安だった。

 でも、僕は決して歩みを止めるつもりはなかった。

 なんとしても夜に湖を見せる。ただその思いだけで、僕はひたすら足を動かし続けた。

「……うわっ、なんか見えてきたよ」

 やがて、夜が不意に大きな声を出した。

 息切れして俯いていた僕は、それに反応して顔を上げる。すると、視界の奥にキラキラと輝くものが見えた。

 間もなく、僕達は開けた場所に出た。輝いていたのは月の光を反射する水面だった。暗い夜の底で、そこだけがまるで別世界の光景のように見えた。

「これが湖だよね? すごい……大きい」

「……うん、大きいね」

 僕はなんとか力を振り絞って水辺までいくと、へたり込むようにしてそこに座った。

 夜は何度か水に手を差し入れて歓声を上げていたが、やがて僕の隣に来て同じように腰を下ろした。

「……私、本当に湖に来たんだね。病院の外にいるのも合わせて、なんだか夢みたいだよ……」

 夜は本当に夢を見ているような口調でそう呟いた。

 僕が夜の顔を覗き込むと、目はちゃんと開いていたけどやっぱりどこかぼんやりとしているように見えた。

「ねえ、私ちゃんと起きてる? 寝てたりしない?」

 夜はこちらを振り返って、不安そうな顔で訊いた。

「……やっぱり、眠いの?」

 僕が訊き返すと、夜は頷きつつも「大丈夫」と答えた。

「絶対寝ないから。すごく眠いけど、せっかくのカイとのデートなんだから、絶対意識は手放さない。それに、手放したらたぶん……」

 夜はそこで口を噤んだが、その先は言わなくてもわかった。

 意識を手放したら、夜はもうおそらく二度と目覚めることはできないのだろう。それを自覚しているというのは、どれだけ重いことなのか。

「ねえ、これってデートだよね?」

 夜は重くなりかけた空気を振り払うように声を張り上げ、少し前のめりになった。

「デートって、デートの場所に来た後は具体的にどんなことすればいいのかな?」

「……さあね、僕も経験はないからわからないけど」

 今度は正直にそう答える。

「普通はいろいろ遊んだり、食事をしたりするんじゃないのかな」

「そっか。じゃあ遊ぶ?」

「そんな元気はないし、遊び道具もないね」

「食事は?」

「何も持って来てないよ。あの病院、購買もなかったし」

「他には?」

「……すぐには思いつかないけど」

「私は知ってるよ。デートですること」

 僕はその言葉に「え?」と振り向く。すると夜は「教えてほしい?」と笑った。

「ハナが言ってたんだよ。恋人達は、デートでロマンチックなキスをするんだって」

 キスという単語が飛び出してきたことに、僕はギクリと身体を強張らせる。

「カイはキスしたい?」

 しかし夜は平然とした様子で、続いてそんな爆弾発言を投下した。

 僕は焦った。焦って、どう答えるべきか少し迷ったが、やがてこう返した。

「……そもそも、僕達は恋人同士じゃないよね」

「うん、私もそう思ってた」

 すると夜は拍子抜けするくらいあっさりとそう頷いた。

 けれどすぐに、どこか真剣な様子で考え込みながら続けた。

「ハナが恋愛についていろいろ教えてくれたけど、やっぱり私はあんまりわからなかったんだ。……なんていうのかな、カイのことはそういうのじゃ言い表せないような感じがして……。大好きですごく大切な存在なんだけど、その気持ちを表現する言葉がないんだよね」

 辞書に載ってる単語は全部覚えてるのに、と夜は愚痴るように言った。

「……僕も、夜のことをなんて言えばいいのかわからないよ。友達でもないし、もちろん恋人でもない……とても大きな存在としか」

「そっかぁ、カイも私と同じ気持ちなんだね」

 夜は僕の言葉にうれしそうな笑みを浮かべた。僕もそれを見て笑った。

「じゃあやっぱりキスはできないね。私達は恋人同士じゃないから。それに、キスっていうのは永遠の誓いで、特にファーストキスは一生の思い出としてその男女の心を甘く縛るんだってハナが言ってたよ」

「春川さんの乙女チックすぎる解釈はあまり真に受けない方がいいと思うよ」

「カイは私に縛られたい?」

 夜は無邪気にそう訊ねてきた。

 僕は正直なところ、縛られてもいいと思った。

 けれどそれを伝えることは、僕にとっても夜にとっても適切ではない気がしたので、僕は首を振った。

「よかった。私もカイのことを縛りたくないから」

 それが僕を気づかっての言葉だというのはすぐにわかった。

 間もなくこの世界からいなくなる自分と、まだまだこの世界で生き続ける僕。

 その越えられない壁に向かい合って、今僕達は言葉を交わしている。そのことを強く意識せざるを得ないことがたまらなく寂しかった。

「じゃあキスのことはこれでおしまい。それで、他にデートですることは?」

「……話をする、じゃないかな」

「お話かぁ。でもそれは普段もしてるよね。カイは何か特別なお話があるの?」

「あるよ」

 僕はすぐにそう答えた。夜が少しだけ目を見開いた気配がした。

「ずっと夜に言えなかった話がある。いうなれば、僕の秘密みたいなものだよ」

「カイの秘密? 何? 聞きたい」

 夜はたちまち前のめりになって迫ってきた。いかにも興味津々といった感じで、その素直すぎる反応に僕は思わず笑ってしまった。

 そこで僕は今更気付く。夜は今までもこうやって、ともすれば沈みがちの僕の心を支え続けてくれていたのだ。

 たとえそれが意図しないものであっても――いや、意図しないものであるからこそ、僕は夜のそんな気持ちが泣きたくなるくらいうれしかった。

「僕の兄さんのこと……いや、僕が兄さんに対して感じていたこと……かな」

 僕はそう言って、水面を見つめながらゆっくりと語り出した。

 優秀な兄さんと比べて、一卵性双生児なのに僕には何もなかったこと。少なくとも、そう思い込んでいたこと。

 兄さんのことは好きなのに、そういった思いが僕の中で強いコンプレックスになっていったこと。

 そんな中で事故が起き、兄さんが死んで僕が生き残ったこと。運命を呪ったこと。そして、自分ではなく兄さんが生き残るべきだったと思ったこと……。

 これからは兄さんの代わりとなって生きようとしたことや、そのために自分を捨てようと考えたことも。

「僕達は一卵性双生児だったから、余計にその気持ちは強くなっていったんだと思う。まったく同じ存在なのに、一方は優れ一方は劣っている。だから優れた方が残るのが当然だって思った……」

「カイはお兄さんのことが大好きだったんだね」

「うん、僕は兄さんのことが大好きだった。でも、僕自身のことは嫌いだったんだ」

「……今も、自分のことが嫌いなの?」

 夜は心配そうな顔でそう訊ねてくる。僕はふっと笑った。

「今は、自分を好きになろうと思ってるよ。すぐには無理でも、少しずつ」

「よかったぁ。私はカイのこと大好きだから、私が大好きなカイをカイが嫌いだなんて、そんなの嫌だもんね」

「……そう思えたのは夜のおかげだよ。僕のそんな態度は、夜の尊厳を傷つけることだって気がついたから」

「だから、私は全然傷ついてなんかないってば。もう、カイはすぐそうやって自分が悪いように考えるとこあるよね」

 夜がそんなことを言ったので、僕は一瞬キョトンとした後、思わず笑ってしまった。

「え、なに? どうしたの?」

「……ああ、いや、夜が言ったことがおかしくて」

「私、何か変なこと言った?」

「ううん、僕が自分を悪く考えがちだっていうのがさ。昔兄さんにもまったく同じことを言われたなって思って」

「へぇ、そうなんだ。じゃあやっぱり、お兄さんはカイのことが大好きだったんだね」

「……え?」

「だって私がカイのこと大好きなんだから、同じことを言ったカイのお兄さんもカイのこと大好きに決まってるよ」

 ニコッとうれしそうに笑う夜の顔に、一瞬だけ兄さんの笑顔が重なったような気がした。

 ……ああ、そうだ。兄さんもいつだって、僕にこうやって温かく笑いかけてくれていた。

「……そうだね。なんで僕は、そんなことにも気がつかなかったんだろうね。夜の方がよっぽど兄さんのことがわかってる気がするよ」

 そう言いながら、僕は思い出す。

 初めて出会った時、夜は兄さんが僕に臓器提供してよかったと思ってると言った。

 今ならその言葉を信じられる。なぜなら夜もまた、兄さんと同じ運命を待つ人間だからだ。

「えへへー」

 僕が胸に広がる温かな感触を噛みしめていると、ふと夜がニコニコ顔で僕の方を見ていることに気がついた。

「なに? なにかいいことでもあったの?」

「うん、あったよ。すごーくいいこと」

「なんなの。教えてよ」

「えへへ、私はカイのことをちゃんと理解できてたんだなぁって。そう思うとうれしくってさぁ」

「……どういうこと?」

「それは今は教えなーい。後できっとわかるよ。こうやってまたカイとお話しできて無駄になるかなって思ったけど、よかったなぁ」

「ちょっと、一人でニヤニヤしてないで……」

 僕はクネクネと身体を動かしている夜に呆れた顔を見せる。

 だけどその瞬間、夜が小さく呻いて頭を抱えたので、僕は慌てて夜の身体を支えた。

「夜!?」

「うう……また……」

「……眠いの?」

「眠い……眠いけど……絶対に寝ない……! 寝たら……もう……カイと……えへへ……」

 夜は朦朧とした目を向けながらも、気丈な笑顔を見せる。

 僕はそんな夜の姿に胸が詰まった。自分にできることが何もないというのが、こうも辛いことだとは思わなかった。

「……まだ……カイとお話を……」

「……うん、いくらでも付き合うよ。どんな話がいい? 僕の話はもう、秘密にしてたことも含めてほとんど夜に話しちゃったけど」

「うん……全部覚えてるよ。カイのこと、忘れたりなんかしないもん……」

 発作の波をなんとかやり過ごしたのか、夜は先ほどよりも少しだけ力が抜けた笑みを浮かべる。

「でも、違うの。……まだしてないのは私のお話……私の秘密のこと……」

「秘密? クローンだってことなら、瀬戸先生や荒木先生から聞いたけど」

 僕がそう言うと、夜はふるふると首を振った。

「……そうじゃないよ。それは心臓を提供するために生まれたクローンの女の子のお話……。今からするのは、カイが夜って名前を付けた、私のお話だよ……」

「それは、どういう……」

「カイはさっき自分の秘密を話してくれた。それはカイの心の秘密。……だから、私も私の心の秘密を話したい。誰にも話したことがない、私の本当の秘密……」

 夜が何を言おうとしているのか、僕にはわからなかった。

 けれど、透き通るような夜の目を見ていると、それがとても大事なことだというのはわかった。

 夜はそこで、意を決したように小さく息を呑んだ。そんな夜の仕草を見るのは初めてだった。

「……私ね、ずっと疑問だったんだ。どうして私は生まれてきたんだろうって……」

 それは空に浮かぶ月を見上げながら、天に向かって話しかけているかのような呟きだった。

「……私のオリジナルに心臓を提供するためだっていうのはセトから聞いて知ってた。そのことについては何も疑問は持たなかった。自分がそう言う存在だっていうことには納得してたから。……疑問に思ったのは、じゃあどうしてそんな存在に心が生まれたのかということ。……本来脳死状態のはずの脳に、どうして意識が芽生えたのか……」

 夜の声は、木々を揺らす穏やかな風に乗って静かに流れる。

「誰もその疑問には答えてくれなかった。誰もが私の心をないものとして扱った。……私はその答えを得ようと思って多くの本を読んだ。けどわかったのは、何かがこの世界に存在する本当の理由は、誰にもわからないということだけだった。……私はいつしか何かに突き動かされるように、自分は何者なのかと考えるようになった。臓器提供用のセラピューティック・クローン? そうじゃない……そうだったら『私』なんて生まれるはずがなかったから……」

 夜の言葉は、まるで思考がそのまま形になったかのように硬質に聞こえた。

 最初に出会った時に感じた、夜が形になったかのような女の子の姿がまた浮かび上がった。

 だけどその時、夜は不意に僕の方を振り向いて笑った。

「そんな時、私はカイと出会った。そしてカイは答えをくれたの……」

「……僕が? 何を……?」

 その言葉に、僕は戸惑う。僕が夜に与えたものなんて――

「それは名前」

 夜は僕の思考を引き取るようにして、そう答えた。

「ヨルという名前。その時私は初めて、自分はヨルという名前の女の子なんだってわかったの。とても……とてもうれしかった……。まるでこの世界に初めて居場所ができたみたいだった……」

 本当にうれしそうに、夜は夢の中を漂うような口調で呟く。

 しかし、夜は直後になぜか僕を睨んできた。怖さは全然なく、まるで拗ねているような顔だった。

「でもね、カイは同時に私にあることも教えてくれたの。なんだかわかる……?」

「……わからないよ。教えてほしい」

「それはね……私が今まで何に突き動かされていたのかということ。私はね、怖かったんだ。ずっと死ぬのが怖かった……」

 夜の言葉は静かだった。どこまでも静かだった。

 けれど僕は、その告白に今までで一番の衝撃を受けた気がした。

「カイは私が、死ぬことなんて全然怖がってないと思ってた……?」

「……だって夜は、そんな素振りなんて全然……手術を心待ちにしてるようなことさえ……」

「うん、手術は怖くないよ。私の心臓がオリジナルの命をつなげる……それは私の望みでもあるから。でも、それでも私は死ぬのが怖かったんだよ。……それまで自分でも全然気がついてなかったけど……カイに名前をもらって、人間になって初めて、私は死の恐怖を知ったんだ……」

「……なんで」

「うん?」

「なんでそんなにうれしそうなの……。死ぬのが怖いのに、その死が間近に迫ってるのに……」

 僕がそう言うと、夜はなぜか楽しそうに笑った。

「それがね、不思議なんだよねぇ……。カイに死の恐怖を気づかされたのに、そのカイと一緒にいるとそれが不思議と怖くなくなっちゃうんだよ。……どうしてかなぁ?」

「……そんなこと言われてもわからないよ」

「私もいろいろ考えたんだよ。私が死んでもカイが覚えてくれているからとか……そういう理屈を。でもね、やっぱりあんまりしっくりこなくて……で、なんかもう別にいいかなって思って、考えるのをやめちゃった……」

「いいの、それで……?」

「いいよ……理屈なんてどうでもいい。カイがいてくれるだけで、私はすごく幸せだから……。死ぬのは怖いけど怖くないから……それでいいんだよ……」

 夜は僕の肩にもたれかかりながら、囁くようにそう言った。

「カイ……私と一緒にいてくれて、ありがとね……」

 その瞬間、僕は全てが許されたような気がした。

 何がどう許されたのか、それこそ理屈は全然わからないけれど、なんだか全てのことがストンと僕の中に落ちていったのだ。

「……カイ、泣いてるの?」

「……僕は泣いてるの?」

「うん。私、何か嫌なこと言った……?」

「……逆だよ。僕は夜の力になれてたんだってわかったから……。うれしくて泣いたことなんて今まで一度もなかった……」

「そっかぁ、カイはうれしくて泣いてるんだ……。私もうれし泣きってしてみたかったなぁ……」

「……いつかできるよ」

「……そうだね。いつかできるね……」

 夜は頷きながら、閉じそうになる瞼に抗うように小さく唸った。

 頭はふらふらと揺れ、瞳の光はほとんど消えかけているように見える。

 残された時間があとわずかだということが嫌でもわかった。そして、夜の意識がなんとか耐えようとしていることも。

「夜、他に何かしたいことはある?」

 僕は涙を拭いてそう訊ねた。

 悲しんだり嘆いたり泣いたりする時間は今じゃない。

 今は少しでも長く、僕の時間を夜に与えてあげたい。

「……お墓」

「え?」

「……お墓、作りたい」

 やがて夜は、もうかなりおぼつかなくなかった声でそう言った。

「……なんでまたお墓? 本当なら縁起でもないって言いたいところだけど……」

「私とカイの思い出を保管しておく場所を作りたいなって……」

「お骨とか魂じゃなくて?」

「私の身体は残らないだろうし、魂は死なないもん……」

「……そうだね。じゃあ、作ろうか、お墓」

 僕は頷いて、私もと言う夜を支えながら立ち上がった。

 適当な場所を見つけるために森に入ると、やや奥まったところに周囲に比べて一回りほど大きな木が見えた。

 その裏側に回ると、ちょうど少しだけ開けた場所があったので、僕達はそこにお墓を立てることにした。

 夜に言われて、僕は適当な石を探す。ちょうど先が少し尖がったこぶし大の石があったので、それを拾って戻ると、夜がどこからか白い小石をいくつか探し出していた。

 中央に僕の持ってきた石を配置し、その周りに夜が小石を置いていく。円は若干歪んでいたが、誰もそんなことは気にしなかった。

「……できた。じゃあ早速、私とカイの思い出を埋めよう……」

「どうやって?」

「ここでお話すれば、お墓が覚えてくれるんじゃないかな……。私はちょっと疲れたから……カイ……お願い……」

 夜は力尽きたかのように、僕の腕の中に倒れ込んできた。

 僕は夜の身体を支え、その場に座って二人でお墓の方を向く。

 明らかに朦朧としながらも、夜はその体勢がいかにもうれしそうに、僕を見上げながらえへへと小さく笑った。

 それから僕は、夜との思い出を語った。

 深夜の図書室での出会い。

 翌日から僕の病室に押し掛けてきた夜。

 毎日のように遊び、時には病院内を歩き回り。

 春川さんと出会って、そして別れて……。

 夜の真実を知って、夜の力になりたくて。

 そして今、こうやって最後のデートをしている……。

「……よかったなぁ」

 やがて僕が語り終える頃、夜はポツリとそう呟いた。

 その声は小さく、微かな風の音にさえかき消されてしまいそうなほどだった。

「……ほんとうに……よかった…………カイと会えて……」

「……僕もだよ」

 僕がそう応じると、ふっとわずかに空気が揺れた気がした。きっと夜が笑ったのだ。

 夜の目が開いて、僕の目を見る。月の光が反射して、その瞳は輝いて見えた。

「…………私……生まれてきて……よかった……」

 その瞬間、僕は思い出した。

 そうだ、僕には夜に伝えないといけないことがまだあった。

 夜がずっと聞きたかった、そして僕がずっと言いたかった言葉。

「夜、僕は――」

 けれどその時、気づいた。

 夜の目が、もう閉じられてしまっていることに。

 そして、それはもう二度と開かれることはないということにも。

「夜……」

 僕は一度その名を呟いただけで、もう呼びかけようとはしなかった。

 本当は呼びかけたかった。夜の名前を叫んで、その魂をこの世界に引き戻したかった。

 ……けど、できなかった。夜の眠りを妨げたくなかったのだ。こんな安らかな顔で旅立った眠りを……。

 僕はそれからなおしばらくの間、その場で夜の身体を支え続けた。

 だけどやがて、夜の呼吸がだんだんと小さくなっていくことに気がついた。

 自発呼吸の停止。

 それは脳死と判定される重要な指標の一つ。

 僕は夜の身体を抱えて立ち上がった。この身体のどこにそんな力があるのか不思議だったけれど、今はまるで重さを感じなかった。

 僕は森を出て、湖のほとりへと戻った。

 そしてその時、

「……来たのね」

 僕はそこで待ち受けていた瀬戸先生の姿を見つけたのだった。

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