5-4

 その瞬間、世界は根本から変化した。

 周囲から音がなくなり、時が止まった。あらゆる色が消え去った。

 思考は完全にストップし、呼吸をすることさえも忘れてしまった。

「……そのことまではさすがに告げていなかったようね」

 しばらくして瀬戸先生がそう続けるまで、僕はただただ凍り付いていた。

 だけどようやく時が動き出すと、僕は急激な立ちくらみに襲われた。ふらつく足をなんとか支え、踏ん張る。ハァハァとうるさいと思ったら、それは僕が呼吸する音だった。

 身体が重い。頭が痛い。今にも意識が飛んで倒れそうだった。

「……な、何を言ってるんですか……」

 しかし僕は、それでも声を絞り出した。喉がカラカラで痛いくらいだったけど、そんなことはどうでもよかった。

「夜が……心臓を、提供する側……? 悪い冗談はやめてください……」

「冗談ではないわ」

「そんなバカなこと、あるわけがない……」

「どうして?」

「どうしてって……だって夜は生きてるじゃないですか。心臓なんて提供できるわけない……」

 僕は呼吸を何とか整えながらそう言った。

 そうだ、移植用の臓器を提供するのは死んだ人間だけだ。生きている人間から臓器を――ましてや心臓なんかを取り出すなんてことはありえない。

「……そうね。生体肝移植なんかはあるけど、生きた人間から心臓を摘出するなんてあってはならないことだわ」

 瀬戸先生はそう答える。しかし夜を見つめるその目は、どこまでも冷たい光を放っていた。

「けれど、よく考えてみて。臓器を提供するのは死人だけど、臓器そのものは機能していなければ――つまり生きていなければならない。この矛盾はなぜ生じると思う?」

「なぜって……」

「進藤くんも臓器移植手術を受けたのよね」

 ドクンと、また心臓が大きく跳ねる。

「ドナーはあなたのお兄さんだった。その時のお兄さんがどんな状態だったか……」


 ――頭だ。頭部だよ。


 荒木先生の言葉が頭の中で再生される。

 続いて『致命的』『昏睡状態』そして『脳死』という単語も。

「死と一言でいうけれど医学上、法律上の死はこう定義されているの。脳の機能停止をもって死亡とする――と。つまり肉体がまだ活動していても、脳が機能を停止すればそれは死亡したと判断される……いわゆる脳死状態ね。そして臓器移植のドナーとは、そういう状態なのよ」

 脳死。脳の機能の停止。

 ついさっき、夜が自分の口で言った言葉。

「この子は間もなく脳死するわ。明日か明後日か、そのくらいにはもう完全に脳の機能は停止する。……そしてドナーとなる」

「……待って、待ってください。そんなの……やっぱりおかしいですよ……」

 僕が痛みを訴える頭を押さえながら言うと、瀬戸先生は無言でこちらに顔を向けた。

「そんな、脳死するだなんて……そんなのどうしてわかるんですか。僕の兄さんは事故で頭部にダメージを負って、その結果脳死状態になったんです。つまり、脳死っていうのはそういう偶発的に起こるものなんじゃないんですか……」

「普通ならそうね。ただし、この子は普通じゃないの」

 先生はまた夜の方に振り返って、淡々と続けた。

「この子はそういう風に造られているから」

「造られて……?」

「この子は人工的に造られたクローン体なのよ」

 今度は衝撃はなかった。

 その台詞を、心のどこかで予期していたからかもしれない。

 ただし、じわじわと体を蝕まれるような悪寒が全身に走った。


 ――だから、私もクローンだって言ったでしょ……?


 夜の言葉がよみがえる。

 ついさっきのことなのに、それはもう遠い過去の出来事のように思えた。

「……もともとは再生医療の技術で対処しようとしていたわ」

 僕が無言で立ち尽くす中、瀬戸先生はゆっくりと語り出した。

「どうしても健康な心臓が必要だった。それも完全な形の心臓が。……けれど今の再生医療の技術では臓器を完全な形で作り出すことはできない。せいぜい血管や組織の一部までしか……」

 その口調にも、やはり何の感情もこもっていなかった。こめないようにしているようにも聞こえた。

「完全な形の臓器を形成するには人体を一から生み出す必要があったわ。人工的に人間を作り出すクローン技術は既に確立されていた。けれど、そうやって生み出された人間は普通に生きている。両親から生まれてきた私達と何ら変わらない存在よ。意思を持って生きている人間から臓器を摘出することはできない。それは単なる殺人でしかない……」

 瀬戸先生の冷然とした声が、ガランとした室内に広がる。

「しかしある時、その課題を解決できる技術が生まれたわ。クローンを生み出す際、あらかじめ脳の機能を停止させた状態に設計しておくというものよ。さっきも言った通り、脳死状態の人間は死体とみなされる。……生まれて成長はしていくけれど、自発的に呼吸もしないし人格もない。人間の形をしているけれど、それは臓器の培養器でしかないの」

 セラピューティック・クローン。

 瀬戸先生は臓器摘出を目的に造られるクローン体をそう呼んだ。

「この子はそういった技術で作られたわ。脳の機能があらかじめ停止していながら、しかし肉体は生きている状態で、この子は生まれてきた。成長促進技術が使われ、この子は短時間でここまで成長した。心臓も移植に耐えうるまでになり、いよいよ手術という時になった」

 けれど――と、そこで先生は一度言葉を切ってから、かすかに顔を伏せた。

「……そこで、あり得ないことが起こったの。この子に意識が宿ったのよ……」

 先生は目をつぶっていた。その姿は何かに耐えているようにも見えた。

 しかし再び目を開いた時には、先ほどと何も変わらない口調で続けた。

「全く説明がつかない事態だったわ。この子の脳は確かに死んでいたはずだった。実際に、物理的に溶融さえしていたの。でも、この子は目を開いて……脳波を出し、自発呼吸までし始めた。その姿はまぎれもなく、生きた人間だった」

 奇跡だったと先生は言った。

 しかしその声には喜びの気配など微塵もなかった。

「あり得ないことは続いたわ。意識を持ったこの子はすぐに高い知能を示した。完璧な記憶力と高度な理解力を持ち、独立した人格まで形成してしまった。もちろん一般的な人格形成のプロセスを経なかったから知能の高さに比べて幼児性などは目立ったけれど、それでも見た目の年齢とさほど違和感がないくらいまで、あっという間に成長した。この子の脳には本来そんな機能などないはずなのに。……当然心臓の摘出手術も見送られることになった。ただし、一時的にだけれど」

 何故だかわかる? と、それは誰にともなく向けられた問いかけだった。

「検査の結果、やはりこの子の脳は医学的には脳死と判断される状態だったのよ。そこに人格が宿った理由は不明だったけれど、それでも一つだけ確実にわかったことがあった。……それは脳死状態は進行しているということ。この子の脳は器質的に崩壊し続けているのよ。いずれ、そう遠くないうちに、この子は意識を失って本来あるべき状態になると判断された。私はその時が来るまで待つことにしたわ。病院内だけだけれど、この子の好きなようにもさせた。いずれこの子の人格は消えてなくなる。そうすれば、元の予定通り摘出手術を行うだけ。この奇跡は一時の幻になる……そう思ってた」

 そこで瀬戸先生は、再び僕の方を向き直った。

「でも、そんな中であなたがこの子と出会ってしまった。そして『夜』という名前を付けた。……それまでこの子には名前がなかったの。すぐに消える幻には不要だったから付けなかった。でもあなたが名付けた時から、この子のまだ不完全だった人格は完全なものになった。この子は……急激に人間らしさを身に着けていったわ。それもすぐに消えてしまうのに……」

 先生はそこで、わずかに憐みのこもったような目を見せた。

 しかしそれもすぐに見えなくなった。先生が静かに瞼を閉じたからだ。

 しばらくの間、沈黙が部屋の中を覆った。人工呼吸器と脳波計のかすかな音は、その沈黙の外で静かに流れた。

「……あなたには聞く権利があると思ったから話したわ」

 やがて、瀬戸先生はゆっくりと目を開いてから言った。

「あなたはこの子とつながりを持ってしまったからね。それも、決して自分がセラピューティック・クローンであることを明かさないようにという言いつけをあの子が破ってしまうくらいのつながり……」

 しかし、それももう終わり。

 先生はそう言って、僕に背中を向けた。そしていつも通りの言葉と、いつも通りじゃない言葉をつなげて、こう告げたのだった。

「……あなたは自分の部屋に戻りなさい。それから、もうこの子のことは忘れるのよ。夜なんて女の子は、最初からこの世界に存在しなかったと思って……」

 話はそこで終わりだった。瀬戸先生はもう決してこちらを振り向こうとしなかった。

 僕はずっと無言のままだった。一言も発することなく、ただジッと先生の話を聞いていた。そうすることしかできなかった。

 頭が痛い。意識が朦朧とする。息が苦しい。身体中から力が抜けて、今にも倒れそうなほどだ。

 それでも、僕は夜を見つめ続けた。一度でも目を離すとすぐにでも消えてしまいそうに思えて、恐ろしさで全身が震えた。

 頭の中もグチャグチャだった。様々な光景が時系列も無茶苦茶に明滅していた。遠くから声が聞こえてくるようだった。


 ――お兄さんもカイに臓器提供できてよかったって思ってるよ。


 それは夜の言葉だった。僕はそれに対し、なんでそんなことが言い切れると反感を抱いた。

 だけど言いきれたのだ、夜には。いや、臓器提供のために生み出されたからこそ、この世界で夜だけが言いきれることだったのだ。


 ――私は心臓移植の日を、ずっと待ってるんだぁ。


 まるでその日が来るのを楽しみにしているかのような夜の姿。

 彼女はその運命を受け入れていた。つまりは自分の死を。

 僕はそれを応援すると言った。自分のことで頭がいっぱいで、よく考えることもせず、軽く。


 ――ここで目覚めてからの記憶以外、私にはないんだよね。。


 ここで生まれ、わずかな時間を生きて、ここで死んでいく。

 誰がそんなことを想像できるだろう。なんでそんな悲しい運命を、そんなにも軽く言えるのだろう。


 ――生きてる間にカイとの思い出をいっぱい作りたいなって。


 それは、まさにそのままの言葉だったのだ。

 夜は自分の死を、ごくごく身近に感じていたのだ。そしてそのうえで、あんなにも明るく笑っていたのだ。

「……なのに」

 なのに僕は、そんな夜の心の内など何も知らずに……。

 ズキリと、激しい痛みが胸から湧き出て、全身に広がっていくような感覚がした。

 意識がふわりと浮き上がり、視界がぼやけた。不意に今までの夜との光景が次から次へと再生され、僕はその中にのみ込まれた。


 ――私もカイと同じ、クローンだよ。


 最後に、夜の笑顔が月の光の中に浮かんできて、そしてやがて消えた。

 僕の意識は、そこで途切れた。

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