5-3

 翌朝、リハビリ部屋を訪れた僕を見て、荒木先生は目を見張った後苦笑した。

「こりゃー……今日はハードな訓練は無理そうだな」

 それでも僕は、ともすればふらふらと倒れそうになる身体に鞭打っていつも通りのリハビリメニューをこなした。

 身体を動かしていないとたまらない気分だったし、身体が悲鳴を上げるのが罰を受けているようで、今は心地よかった。

 病室に戻った後、僕は特に何もせずに過ごした。

 徹夜で身体は睡眠を欲していたが、意識が高ぶっていてとても眠れそうになかった。それに、目をつぶるとまた夜の泣き顔が浮かんでくるに決まっていた。

 神経が摩耗しているのか、時間の経過は早かった。気がつけばもう日は暮れていて、いつの間にか消灯の時間にもなった。

 僕はベッドに仰向けになりながら、いつしかこれからのことを考えていた。これから、というのは、夜とのこれからのことだった。

 もう会うべきじゃないのかもしれない。

 僕は夜の支えにはなれない。それどころか、一緒にいると夜を傷つけるだけかもしれない。

 このままひそかに退院して夜の前から消えるのがベストのように思えた。僕がいなくても、夜はきっと手術を乗り越えて生きていくだろう。

 僕は壁にかかった時計を見る。もうすぐ深夜の二時。いつもなら、そろそろ夜が訪ねてくる時間だ。

 夜は、今日は来るのだろうか。それとも来ないだろうか。それは夜の意思でか、それとも体調の関係か。

 考えている間に、時はどんどんと進んで行く。いつもの時間になった。けれど夜はやって来ない。

 時間はそのままどんどんと過ぎていく。十分、二十分、三十分……。

 どうやら、今日は夜は来ないようだった。僕はホッと安堵し、同時によくわからない焦燥感にも駆られた。

 このままでいいのだろうか。夜の前から消えるにしても、このまま何も言わずにいなくなるべきなのか。夜の心を傷つけたことを、夜の支えになれなかったことを、謝ってからにすべきではないのか。

 頭の中でそんな考えがグルグルと回り出し、気がついたら僕はベッドから抜け出していた。

 廊下に出て歩き出す。その時になって初めて、僕は夜の病室へ向かっている自分に気がついた。

 せめて夜に謝ろう。謝ってから、もう二度と会わないでおこうと伝えよう。

 そんなことを考えながら、僕はいつの間にか速足になっていた。はやる気持ちのまま、僕は廊下の角を曲がった。

「わっ?」

「きゃぁっ!?」

 だけどその瞬間、ちょうど反対側から来ていたらしい誰かと正面からぶつかってしまった。

 お互い結構な勢いだったけど、相手がそれほど大きな人じゃなかったので、僕はそれほどの衝撃を受けずに済んだ。一方で向こうは尻餅をついているようだったが。

「あの、大丈夫ですか」

 僕は慌てて手を差し伸べる。けどその瞬間「あっ」と声をあげた。

「……え? あ、カイ!」

 なぜならその相手とは、他でもない夜だったからだ。

 僕はとりあえず夜を助け起こしたが、昨日の今日でどういった顔をすればいいかわからず、心の準備もないままに出会ってしまったことに戸惑っていた。

「えへへ、ちょうどよかった。今からカイのところへ行くところだったんだよ」

 しかし夜は、昨日の出来事などなかったかのようないつも通りの笑顔を見せてそう言った。

「ちょっと遅くなっちゃったけどね。でも、カイはなんでこんなところにいたの?」

 夜の部屋に行こうと思っていた、とは素直に言えなかった。

 別に、と誤魔化してしまった自分がまた嫌になった。

「ふうん。でも本当にちょうどよかったよ。じゃあこのまま一緒に行こう」

「ちょっと待って。一緒にって、どこに行くの」

 夜が僕の手を取って歩き出そうとするので慌てて訊ねる。

「屋上」

 すると夜は一言だけそう言って、呆気にとられる僕をグイグイと引っ張っていく。

 されるがままについて行くと、僕達は階段を上って間もなく屋上のドアの前に到着した。

 そのドアには立入禁止という貼り紙があったけど、春川さんが言っていた通り内側に鍵がかかっていたので簡単に外して出ることができた。

「うわっ、カイ、屋上だよ屋上!」

 夜は外に出るなり、両手を広げて走り出した。

 屋上はそこそこ広かったけど、室外機や物干し台なども置かれていて、全体としては手狭な印象だった。

 しかし夜はそんなことを気にした風もなく、空を見上げながら笑い声をあげてくるくると回っている。

 僕も夜空を見た。視界一杯に星空が広がって、窓から眺めるそれとはまるで違う次元の景色に、少し時を忘れた。

「空、綺麗だね。それに風も気持ちいいし。カイは楽しい?」

「……ああ、うん。こんな星空は見たことがないよ」

 僕が夜の方に向き直ってそう答えると、夜は「えへへ」と自分が褒められたようにうれしそうな笑顔を見せた。

「でも、どうして屋上になんて来たの」

「それはもちろんデートだからだよ」

「デート?」

 いきなりその単語が飛び出してきたことに驚いていると、夜は少しだけ恥ずかしそうな顔で俯いた。そんな表情の夜を見るのも初めてだった。

「昨日のことで、カイに謝りたかったから」

「……夜が謝ることなんてないよ」

 それは、むしろ僕の方が謝罪すべきことだった。そのつもりで夜のところへ向かっていたはずだけど、今はなぜかその言葉が出てこない。

「けど、それでどうしてデートになるの」

 代わりにそんな質問が口から漏れた。

 謝ることとデートは何も関係がないはずだったから。

 すると夜は、また空を見上げながら独り言を呟くように言った。

「……私ね、あれから考えたんだ。意識が飛びそうになる中で、それでもがんばって考えたの。どうすればカイに許してもらえるかなって」

「許すも何も、夜は謝らないといけないようなことは何もしてない」

「ううん、そうはいかないよ。それでいろいろ考えたんだけど、ただ謝るだけじゃなくて、カイに幸せになってもらおうって思ったんだ」

「幸せ?」

「うん。ほら、この前言ったでしょ? デートっていうのはお互いがすごく楽しくて幸せになる行為だって、ハナが言ってたこと」

 夜は真剣な顔で、僕を真っ直ぐに見つめる。

「私ね、カイに幸せになってほしくて、だったらどうすればいいかってずっと考えたんだ。それで、私にできることはデートくらいしかなかったの。ハナは、私とデートしたらカイはすっごく幸せになるって言ってたから」

 僕はそれを聞いてどうリアクションをすればいいかわからなかった。

 僕を幸せにするとか、そのためにデートをするとか、普通に考えれば方向性がズレていた。

 けれど、はにかむように笑っている夜からは子供のような純粋な善意が伝わってきて、僕はなぜか胸が痛んだ。

「……それだけのために、こんなことを?」

 僕はどう答えていいかわからず、結局そんな言わなくてもいいようなことをわざわざ口にした。

 けれど夜は意外にも頷くことなく「ううん」と、どこか寂し気に首を振った。

「……実はそれだけじゃないの。カイのことを幸せにしたかったのと、それからもう一つ、思い出も欲しかったから」

 思い出。

 そういえば夜は、以前もデートに関してそう言っていた気がする。

「うん、カイと一緒に屋上でデートして、星空を見上げる。こういうのをかけがえのない思い出って言うんだね」

「……待って。前も思ったけど、どうしてそんなことを言うの」

「ん? なにが?」

「だってそうじゃないか。思い出だなんて、まるで移植手術が失敗するのを前提にしているような言い方だよ。そうじゃなくても、夜らしくもない弱気な言葉だと思う」

 そうだ。口に出してみて初めて違和感の正体がわかった。

 手術への不安を支えるための言葉としては、思い出というのはあまりにも……そう、儚すぎる。

「もちろん心配なのはわかるよ。春川さんのこともあったし。でも、だからって思い出だなんて……そんなの不吉すぎるよ」

 僕は夜が遠くに行ってしまうような不安に駆られて、気がつけばそんなことを言っていた。

 少し前まではもう夜とは会わない方がいいとか思っていたくせに、僕はその矛盾する自分の心に落ち着かなかった。

「大丈夫だよカイ。手術が失敗するなんて、私は全然思ってないから」

 けれど夜は平然とそう返した。それは僕の懸念なんて吹き飛ばすような一言だった。

 僕は「本当に?」と念を押す。夜も「本当に」と頷く。

 しかし、その後に続く言葉を聞いた瞬間、僕はスイッチが押されたように世界の色が変わるのを感じた。

「私の手術は成功するよ。絶対。でも、だからこそ、私は思い出が欲しかったんだ……」

 それは、まるで泣き出すのを必死に堪えているような、か細く震えた声だった。

 夜の笑顔の中に、一筋の雫が光ったように見えた。

 そして次の瞬間、夜はガクリと膝を折った。

「夜!?」

 僕は慌てて駆け寄る。

 夜は両手で頭を抱えて、何かに耐えるように顔を歪めていた。

「……うう……もう、なの……? まだ私は……カイに……」

 夜の瞳の光が消えかけていて、意識がもうろうとしているように見えた。それは間違いなく、夜のいつもの症状だった。

 僕は夜を支えながら、急いで病室に戻ろうとした。

「待って……!」

 だけど、なぜか夜がそれを止めた。僕の腕を掴み、行かないでと懇願するような視線を向ける。

「どうして? そんなに具合が悪そうなのに」

「……いいの。もう時間がないから……」

「時間がないって……なに言ってるの? 手術を控えてる身で無茶なんてしちゃダメじゃないか」

「……私の手術はもう少しでできるようになる……そうなったらもう、カイに会えないから……」

「なに、を……」

 言ってるんだ、と続けようとして、できなかった。

 意識が朦朧としているはずなのに僕をジッと見上げる夜の視線があまりにも強くて、僕はその迫力に気圧されたのだ。

「……前にハナが言ってたんだぁ……」

 僕が押し黙ると、夜はゆっくりと夢を見るように呟いた。

「……女の子の秘密は、本当に好きな人とだけは共有していいんだって。……それが恋の秘訣だって。私はやっぱり恋のことはわからないけど……カイのことは大好きだから……今までずっと……秘密にしてたことを言わなくちゃいけないんだよ……」

 秘密? 僕はその言葉を聞いて、思い出す。

 移植手術を受けた僕が幸せでなければいけないと夜が強く主張する理由。

 その理由を訊ねた時、夜はそれは秘密だと言った。言ってはいけないことだと。

 僕はいつしかそれを、夜自身の移植手術に対する不安を払拭するためだと思っていた。

 そうじゃ、なかったのか?

「私の秘密……それはね…………私の脳の機能は、もうすぐ完全に停止しちゃうということ……」

「……なんだって?」

「つまり、私は間もなく……脳死状態になっちゃうんだよ……」

 瞬間、思考も空間も、全てが真空状態になったような錯覚に陥った。 

 すぐには単語の意味がわからなかった。知識としては知っているはずなのに、夜の口から出た言葉とそれが上手く結びつかないのだ。

 今、夜はなんて言ったのだろう。脳死? 脳が死ぬ? なんでそんなことを突然?

 僕はひどく混乱していたが、間もなく夜が小さな呻き声をあげたので我に返った。

「……意味が、わからないよ」

 僕は言った。本当に意味がわからなかった。

「なんで、どうしていきなり脳がどうとか、そういう話になるわけ……? 夜の病気は心臓だったはずじゃ……?」

 呆然と呟く。こんな時に、冗談にしたってまるで笑えない冗談だ。

 僕は目を見開いて夜を見る。今すぐさっきのは何かの間違いだと言ってほしい。そんな思いのこもった視線を投げかける。

「……星……綺麗だね……カイとデートできて……思い出……うれしかったなぁ…………」

 しかし、その問いに対する返答はなかった。夜には僕の言葉が届いていないらしかった。

 虚ろな目で空を見上げ、夢の中を漂うような声でポツリポツリと呟く。

「……でも……ここは病院の屋上で……やっぱり私は……この場所から出られないままで……」

「……夜?」

「……それでいいと思ってた……けど…………カイとデート……外の世界を……湖……見たかったなぁ……」

「夜? しっかりしてよ夜」

 僕は何度も夜に呼びかける。なんだか全身が総毛立つような、とても嫌な寒気がする。

 やがて夜は、ぼんやりと僕の方へと視線を向けた。しかし一言も発しない。相変わらず僕の声が聞こえていないのか、それとも言葉を発する力がないのか。

 僕はその姿に戦慄した。そうして自分でも無意識のうちに、こう問いかけていた。

「……きみは……夜は一体何者なんだ……?」

 すると夜は、笑ったのか、呆れたのか、小さくふっと息を吐いた。

「……だから、私もクローンだって言ったでしょ……?」

 そして夜は目をつぶり、完全に脱力して僕に身体を預けた。

 ただ眠っただけ。いつもの謎の症状。僕はそう思い込もうとして、その時初めて気がつく。

 夜の呼吸が止まっていた。

 いや、もうほとんど止まりそうなくらい微かなものしか感じられなかった。さっきまで普通に会話をしていたはずなのに。

 僕は全身から何か大事なものが抜け落ちていくような感覚に襲われた。それからようやく夜の名前を口にした。最初は弱く、そしてすぐに叫ぶように。

 しかし、夜は何の反応も示さない。

 僕は夜を抱えたまま弾かれたような勢いで立ち上がった。けれどその瞬間、バンッと屋上のドアが開かれる音が響いた。

 振り向くと、そこには瀬戸先生が立っていた。その背後には数名の医師や看護師が何やら見慣れない器具を持って控えているのも。

「自発呼吸が止まりかけてる。急いで」

 瀬戸先生がそう言うと医師がこちらに近づいてきて、硬直している僕の手から夜を引きはがすと、その口元にさっきの器具を装着した後足早に運び去って行った。僕はその光景をただただ呆然と見つめているしかなかった。

 やがて屋上には、僕と瀬戸先生だけが取り残された。先生は立ち尽くす僕をしばらく無言で眺めていたが、やがて何の感情もこもっていない声でこう言った。

「……あなたはもう自分の病室へ戻りなさい」

 その途端、僕は我に返ったかのように、自分の意識が動き出したのを感じた。

「ど、ういうこと、ですか……」

 僕は上手く回らない舌を必死に動かす。

「夜は……一体どうなったんですか……? 急に意識がなくなって、呼吸も……」

「それはあなたには関係のないことよ。さあ、早く戻りなさい」

「……夜は言ってました。もうすぐ自分の脳は機能しなくなるとか、脳死状態になるとか……彼女は心臓移植を待つ患者じゃなかったんですか……?」

 僕がそう言うと、瀬戸先生の表情が揺れた。

 ハッと息を呑んで、驚いたような顔でこちらを見つめ返す。

「……まさか、あの子がそれをきみに……?」

 僕が頷くと、瀬戸先生は俯いて沈黙した。

 しかしやがて先生はまた顔を上げ「ついてきなさい」と言って歩き出した。その時にはもう、元通りの無表情に戻っていた。

 僕は瀬戸先生に続いて屋上を後にする。無言で廊下を歩く先生の背中を眺めながら、僕達は今、夜の病室に向かっていることに気がついた。

 入院患者達のいるところとは正反対の、院内で最も奥まった一画。

 その場所に到着すると、瀬戸先生は振り返ることなくドアを開けて中に入って行った。それがついて来いという無言の意思表示だと理解して、僕も中に足を踏み入れた。

 そこは病室よりも殺風景な部屋だった。なぜか窓もなく、壁には車椅子が無造作に立てかけられていて、あとはただ部屋の中央にベッドといくつかの機械が置かれているだけだ。

 夜はそこにいた。ベッドの上に仰向けに横たわり目をつぶっていた。それだけなら、ただ普通に眠っているだけのようにも見えた。

 けれど夜の口元には透明の覆いがかぶさっていて、そこから伸びるチューブが傍に置かれた機械につながっており、シューシューと空気が移動する音が聞こえてきた。

 そしてもう一つ、定期的に何かの波形を表示するモニター。

 最初、僕は当然それを心電図だと思った。しかし、間もなく違和感に気がつく。

 それは春川さんの部屋で見たものとは違っていた。何がどう違うのか具体的にはわからないけど、とにかく別の機械のように見えた。なにより、そこから伸びる配線は夜の胸元ではなく、なぜか夜の頭に巻きついている金属の輪っかのようなものへと向かっていたのだ。

「……夜はどうなっているんですか」

 そこで初めて僕は言葉を発した。自分の声が少し震えているような気がした。

「あれは心電図じゃないわ」

 瀬戸先生は僕の問いに直接答えず、しかし心を読んだかのようにそう言った。

「あれは脳波計よ」

「……脳波計? なんでそんなものが? だから、夜は心臓の病気なんじゃ……」

「この子がそう言ったの?」

 ドクリと僕の心臓が跳ねた。

 何を当たり前のことをと返そうとして、できなかった。

 気づいたからだ。

 そういえば、夜は一度も自分が心臓の病気だなんて言ってなかった。

「でも、夜は心臓移植手術を受けるんだって……」

「…………そうよ」

 瀬戸先生は小さく頷き、わずかに苦し気に顔をしかめた。だけどそれは一瞬のことだった。

「この子には間違いなく心臓移植手術が施されるわ。ただし……移植を受ける側じゃない」

「……え?」

「この子は心臓を提供する側……つまりドナーなのよ」

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