5-2

 その日、僕はベッドの上で後の時間を何もせずに過ごした。何かをする気にはなれなかったし、眠ることもできなかった。

 日が暮れて、時計の針が0時を回っても、僕はただジッと天井を見つめていた。

 今日は夜は来るだろうか。わからないけれど、来るまで待つしかないと思った。

「……カイ、いる?」

 幸いなことに、夜はやって来た。いつも通りの時間ピッタリで、寸分の狂いもない。

 だけどやっぱりどことなく眠そうで、目はちゃんと開いているが、その瞳の輝きはどこか鈍く見えた。

 僕は上体を起こして、言った。

「春川さんが死んだよ」

「……え?」

「昨日の夜、移植手術をしたんだ。その結果……亡くなったって」

 夜はそれを聞いて、呆然とした顔で立ち尽くした。

 その姿は、初めて夜を見たあの図書館での印象を彷彿とさせた。

「……ウソ、なんで……?」

 僕はずっと、夜に春川さんのことをどう伝えるべきか迷っていたが、結局ただ淡々と事実を伝えるしかないと思って、そうした。

 それが一番ショックが少ないんじゃないかと思ったけれど、夜の反応を見ると、結局身近な人の死にショックの少ない伝え方など存在しないことを知っただけだった。

「心臓、移植したんじゃなかったの……? なのに、死んじゃったの……?」

「荒木先生は、急激な免疫反応がどうとか言ってた」

「そんな、せっかく移植したのに……?」

 夜は愕然とした表情で僕を見た。だけど僕の方から言うべきことはもう何もなかった。

 僕は便箋を取り出して、夜の方へと差し出した。これは? という顔で見返す夜に、昼間春川さんのお姉さんと会ったことと、そのお姉さんが春川さんから受け取った手紙だということを伝えた。

 しかし夜は受け取った手紙をわずかな時間開いただけで、すぐに僕に返してきた。

「……読まないの?」

「もう覚えた」

 僕の問いに夜はそう答え、間もなく自分の考えに没頭するように黙り込んだ。

 しばらく無言の時間が流れた。夜は時折痛みを抑えるように頭に手を当てながら、何やら考え続けているみたいだった。

「……どうして?」

 けれどやがて、夜は表情の消えた顔でポツリと呟いた。

「どうして、ハナは死んだの……?」

 それは、おそらく遠い過去から連綿と吐き出され続けてきたであろう永遠の問いかけだった。

 死因のことじゃない。何故春川さんは死なないといけなかったのか、その運命についての疑問だ。

 その問いに答えられた人はいない。おそらく回答なんてないからだろう。

 それでも人は答えを求め続け、それこそ運命や、偶然や、神の意志などの言葉を使って説明をしてきた。

 けれどそれは、結局死が人の手の届かない領域の出来事だと言っているにすぎなかった。

 もちろん、僕には何も答えられない。

「心臓を、移植したのに……それなのに死んじゃうなんて……そんなの、そんなの絶対にダメだよ……」

 無意識なのか、夜はそう呟きながら自分の胸元を強く掴んでいた。その手から血の気が引いて真っ白になるくらい、強く。

 ハァハァと、いつの間にか夜の荒い息づかいが室内に響いていた。

「……カイは、生きてるよね?」

 やがて夜は顔を上げて、まるですがるような目で僕を見た。

「うん、カイは生きてる……移植手術を受けて、こうやってちゃんと生きてるんだ……」

 夜は苦し気ながらも、どこか愛おしそうに僕の顔を眺める。

「移植を受けた人は、生きなくちゃダメなんだよ……元気に生きて、幸せにならなくちゃ……そうでなきゃ、どうして……」

 頭を抱えながら呻くように言葉を紡ぐ夜の姿に、僕は困惑する。その声はまるで、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「……ねえ、カイ?」

「……なに?」

「生きててよかったって言って」

「……急に何言ってるの」

「お願い。私、カイの口から生きててよかったって聞きたい。お願いだから……」

「……悪いけど、思ってもないことは言えないよ」

 僕がそう答えると、夜は本当に悲しそうな顔を見せた。

 まるで、この世界の全てから拒絶されたような、そんな絶望的な表情。

 それを見て、僕はズキリと胸に強い痛みを覚えた。けれど、それでもそのお願いだけは聞けなかった。

「どうして……? カイは意地悪してるの……?」

「……そんなんじゃないよ。それよりも、どうしてそんなことにこだわるのさ」

「だって、カイは移植手術を受けて、こうして元気に生きてるから……」

 夜は荒い息の合間に、言葉を絞り出すようにして話し続ける。

「元気に生きてるのに……なのに、生きててよかったって、幸せだって思わないなんて……そんなの、私は嫌だよ……耐えられないよ……」

「……仕方ないだろ。だって僕は今、全然幸せなんて感じてないんだから」

 言って、またズキリと心臓が悲鳴を上げた。

 打ちのめされた様子の夜にこんな言葉を投げかけることに、僕は強い罪悪感を抱く。でも僕はこう答えるしかなかったのだ。

 夜が自分の移植手術に不安を抱いて、その支えとして僕の言葉を求めているのはわかっていた。僕だって、夜の不安を取り除くことができるならそうしてあげたかった。

 けど、それでも譲れない一線というのはある。今、夜が踏み越えようとしているのはまさにそれだ。感情がそのまま形になったような夜の言葉は、僕の感情もまたむき出しにする。

「…………それは、ドナーがお兄さんだったから?」

 しかし、夜は退かなかった。

 さらに一歩踏み込んだその言葉で、僕の身体に緊張が走る。

 僕が何も答えずにいると、夜は続けた。

「カイは言ってたよね……私達が最初に出会った時に。お兄さんからの臓器移植を受けて生きてることがうれしくないって……」

 夜と出会った時を思い出す。痛みと熱と罪悪感で朦朧としていた中で、思わず口にした本音を。

「それに、カイはこうも言ってた……自分が生き残るべきじゃなかったって。自分じゃなくて、お兄さんが生き残るべきだったって……」

 自分以外の口から語られる自分の気持ちを、僕は奇妙な感覚で聞いていた。

 腹立たしいような、一方で不思議と落ち着いていくような、やはり奇妙としかいえない感覚だった。

「私、今でもその意味がわからないよ……どうしてカイはそんなこと言うの?」

「……夜には関係ないことだろ」

「関係なくないよ。私はカイのことが知りたいんだよ」

「……僕は教えたくない」

「もしかして、カイはお兄さんよりも自分の命の価値が低いと思っているの?」

 それは、唐突に核心を突かれた瞬間だった。

 兄さんと比較する形で、僕が自分という存在に強いコンプレックスを抱いているのは今までの話から明らかだった。けれど夜はわかっていない様子で、これまでそのことについては一度も口にしてこなかった。

 なのに今、夜は不意にその部分を直接触れてきたのだ。僕はその衝撃がたまらなく辛く、痛く、そして恥ずかしかった。

「もしそうなら、そんなの絶対間違ってる……」

「……なんでそんなことが言えるんだ」

 もう隠す意味もなく、僕はそう反論した。心の痛みが反感となっていく。

「夜は兄さんに会ったこともないからそう言えるんだ。兄さんは本当にすごい人だった。僕なんかとは比べものにならないくらい優秀な人だったんだ」

「優秀だから価値があるの?」

「僕ができないことを兄さんはできた。兄さんができることを僕はできない。普通の兄弟だったらそれでもよかったかもしれない。でも、僕達は同じ遺伝子を持つ双子だったんだ。だったら、どっちが生き残るべきだったかなんて誰でもわかる」

「私にはわからないよ。同じ遺伝子を持って優秀だから、そっちが生き残るべきだなんて、この世界はそんな風になってないことを、私は知ってる」

「……僕だって知ってるよ。いや、無理矢理知らされたんだ。だから……苦しいんじゃないか」

「お兄さんは、こうやって私とお話してくれない。お兄さんは私とトランプやオセロで遊んでくれない。それができるのはカイだけだよ」

「……それは結果論だよ。もし僕が死んで兄さんが生き残ってたら、その役目はきっと兄さんがしてたと思う。そして兄さんなら、きっとこんな言い争いなんてしてないで、夜のことを支えてたに違いない」

「そんなことない。私はカイのお兄さんなんて知らない。私が知ってるのはカイだけだもん。カイの言ってることはおかしいよ。仮定の話が成り立つなら、どうしてハナは今生きてないの? ハナも生きる価値がなかったの?」

「それは……」

「そんなことない……そんなことないんだよ。私はどうしてカイがそんな風に考えるのかわからない。私はカイは生きててよかったって思ってるのに。私はカイが大好きなのに……」

 夜は俯いて、声を震わせながら言う。

 僕はその姿を見て、そんな姿をさせているのが僕自身だということに今更気がついた。

「……僕は、自分が嫌いなんだよ」

 そうして、不意にそんな言葉が口からこぼれた。

 それはまるで、今までずっと落下し続けてきたのに、突然ぽすんと草原に着地したような感覚だった。

 兄さんのことやコンプレックスなんかをいちいち持ち出す必要はない。その根本は至ってシンプルだ。一言で表せる。

 僕は、自分が嫌いだ。

 そんなのは、もうずっと昔からわかっていたことだったはずなのに。

 急に肩の力が抜けた気がした。これ以上の底はなく、従ってもう話すことも何もなかった。僕とは話す価値さえなかった。

 だから、これでなにもかも終わりのはずだった。

「……う、ううっ……あうぅ……」

 けれどそう思った瞬間、そんな嗚咽の声が聞こえてきた。

 顔を上げると、夜がその目に大粒の涙を溜めながら、僕の方をまっすぐに見つめていた。

 初めて見る夜の泣き顔。

 僕はその姿を呆然と眺める。

「……あぅ……ご、ごめん……ごめんなさい……カイ、ごめんね……!」

「な、なにを……」

 やがて夜は流れ出した涙を拭うことさえせず、僕を見つめながら謝り始めた。

 何度も何度も、僕の名前を呟きながら謝罪の言葉を口にし続ける夜。

 僕は突然の事態に動揺して身動きが取れない。ただ涙が流れるたびに、かきむしられるような痛みを胸に覚えるだけだった。

「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

「ど、どうして……? なんで、なにを謝ってるの……?」

「だって……だって私……カイを傷つけた……! カイが今、とっても傷ついたことがわかったの……! 私が、それを……」

 それを聞いて、僕は初めて夜が罪悪感に苦しんでいることを知った。

 僕を傷つけたと、自分の言葉で傷つけたのだと、夜は今自身を責め苛んでいるのだ。

「ち、違うよ。夜は悪くない」

 僕はそう言って慌てて夜に手を延ばそうとしたが、それでどうすればいいのかわからず、中途半端な姿勢のまま止まってしまった。

 今まで女の子を泣かせたことなんてない。こんな時どうすればいいのだろう。

「カイ……ごめんなさい……カイ……カイ……!」

 夜は泣きながら僕の名前を呼び続ける。

 兄さんだったらどうするだろう。兄さんだったら、きっと女の子の慰め方だって知ってるはずなのに。

「カイ……私、胸が苦しいよ……! カイの方が悲しいはずなのに、なんで……! こんなの私、知らない……こんな時に、頭も……もう、いやだよぉ……!」

 その時、夜が旨と頭を押さえながらふらふらと倒れそうになった。

 僕は咄嗟にベッドから飛び出して、夜の身体を支える。夜は相変わらず僕の名前と謝罪の言葉を繰り返しているが、どこか意識が朦朧としている様子だった。

 いつもの症状かもしれない。それにしては時間が早い気がするけど、胸が苦しいとも言っていた。感情の高ぶりで、なにか異変が生じたのかもしれない。

「……とりあえず、部屋に戻ろう。送っていくから」

 僕は夜を抱えてドアの方へと歩き出した。つい最近までは夜に支えてもらっていたが、今は立場が逆転した形だ。

 まだ体力は十分じゃないとはいえ、夜の病室までなら行けるはず。そんなことを考えながら、僕はドアを開けて廊下に出た。しかしそこで「あっ」と立ち止まった。

「瀬戸先生……? どうして……?」

 なぜならそこには瀬戸先生が、僕達を待ち受けるようにして立っていたからだ。

「……その子のことは常にモニターしてるから」

 先生は「後は任せて」と言って、僕から夜を受け取ろうと近寄ってきた。

 だけどその時、夜の頬にハッキリと残った涙のあとを見て、かすかに目を見開いた。

「……すいません。僕が泣かせました」

 僕は正直にそう告げた。罪の告白をする罪人のような気分だった。

 しかし瀬戸先生は、顔からはすぐに表情を消して「そう」と言っただけだった。

「あなたは自分の部屋に戻ってもう休みなさい」

 そして夜を両手で抱えると、そのまま振り返ることなく廊下の暗がりへと姿を消していった。

 僕はしばらくその場に立ち尽くした後、言葉通り自分の部屋に戻った。

 ベッドに寝転がり目をつぶる。しかし眠れるはずもなかった。瞼の裏には夜の泣き顔が焼き付いていた。

 夜は言った。僕のことを傷つけたと。けどそれは違う。逆だ。僕が夜の心を傷つけたんだ。夜が差し伸べてくれた手を、僕は払った。

 僕はギュッと目をつぶって、圧し掛かるような罪悪感に耐える。

 やっぱり、僕は自分が嫌いだ。

 その夜、結局僕は一睡もすることはなかった。

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