5-1

 春川さんが亡くなった。

 それを聞いたのは、いつものようにリハビリ室へ行ってウォーミングアップをしていた時だった。

「昨夜の手術の後、残念ながらお亡くなりになった。急激な免疫反応が出て、抑制剤も有効に作用しなかった」

 荒木先生はなんの表情もない顔で僕にそう告げた。それにどんなリアクションを返したのか、あまり覚えていない。何も返さなかったのかもしれない。

 今朝から遺族の方が来ている、と言って、荒木先生はそれ以上の発言はしなかった。僕も何も訊かなかった。

 春川さんが亡くなった。


 ――移植手術の成功確率ってご存知ですか?


 彼女の言葉が頭をよぎる。どんなに成功率の高い手術も100%ということはあり得ない。

 それはわかっていたけど、それでも何故と思ってしまう。

 思うだけでそれは思考の輪の中には入らず、ぽかりと中空に浮かんだまま漂っていたのだけれど。

 気がつけば、僕はいつの間にかリハビリ室を後にして廊下を歩いていた。

 休憩スペースまで行って、椅子に腰かける。初めて春川さんと出会った場所だ。窓の外を眺めて、足をぷらぷらさせてみる。

 どれくらいそうしていたかわからないけど、僕はやがて立ち上がってまた歩き出した。

 向かった先は春川さんの病室だったが、そこは既に元病室となっていた。

 プレートからは春川さんの名前はもうなくなっていて、今日が昨日でないことを嫌でも思い知らされる。

 僕はドアを開けて中に入った。その瞬間、誰かが振り向く気配がして、僕はいつの間にか俯いていた顔を上げた。

「……誰?」

 そこにいたのは二十歳前後と思しき若い女性だった。

 既に春川さんの私物が運び出され、誰の気配もないただの病室に戻ったその部屋で、女性は一人所在なさげに佇んでいた。

「あ、もしかして……進藤先輩?」

「え?」

 不意に名前を呼ばれて、僕は驚いて女性を見つめた。

 年上の人に先輩と呼ばれた奇妙さと、どうして僕を知っているのかという疑問がぶつかって呆然とする。

「ああ、ごめんなさい。あの子の手紙にそう書いてあったから」

 そんな僕を見て、その女性は静かに笑った。

「私は春川薫。花の姉です。進藤海くん、よね?」

「あ、はい、そうです。春川さんのお姉さん、ですか……」

 僕は頷きながら、お姉さんの顔をジッと見つめた。そういえば、春川さんはお姉ちゃんがいると言っていたような気がする。

 お姉さんは穏やかな感じの人だった。騒々しかった春川さんとはあまり似ていないと一瞬思ったけど、笑顔の雰囲気などにはどことなく共通するものがあった。

「あなたには会いたいと思っていたのよ、進藤くん。会えてよかった。それと、夜という女の子もいると聞いているけど」

「あ、夜とは会えません。今は……」

「……そう。こういう場所だもの、いろいろあるのよね」

 少し残念そうに微笑みながら、お姉さんは小さく頷いた。

「……あの、この度は……」

「ああ、お悔やみの言葉はいらないわ。あなたはそれを言う方じゃなく受ける方だと思うし」

「それは、どういう意味ですか?」

「あなたと夜という子は、花と仲良くしてくれていたのでしょう? ううん、それだけじゃなく恩人だったって、手紙に書いてあったわ」

「恩人……?」

「あら、あの子ったら、本人には言ってなかったの?」

「それらしいことをチラッとは聞きました。手術が終わった後に詳しく話すと……」

「……そう。そうだったの。じゃああのことも、きっと言ってないのね……」

 お姉さんはそう呟いて寂しそうに笑うと、懐からそっと何かを取り出して僕の方に差し出した。

 それは便箋だった。女の子らしい薄いピンク色のパステル模様。春川さんのパジャマを思い出した。

「これは手術の前に、あの子が私宛に出してくれた手紙よ。ここにあなたと夜さんのことが書いてあるの」

「春川さんの手紙……? 僕と夜のことが……」

「ええ、普段はメールか電話ばっかりで手紙なんて書いたことないくせに、今回は手紙じゃないと伝えられそうにないからって、慣れないのにわざわざね。読んでみて」

「僕が、いいんですか?」

「あなたにこそ、読んでほしいの。……あの子もきっとそう望んでると思う」

 僕は便箋を手渡されて、恐る恐る中身を取り出して読み始めた。そして、間もなく全身に鈍い衝撃が走った。

 手紙の書き出しは、春川さんがお姉さんに宛てた近況が書かれていた。

 それは、あの春川さんが書いたとは思えないくらい重い文章だった。

 自分の心臓が徐々に機能しなくなっていく絶望感。次第に近づいてくる死の気配。そして、唯一の救いであるはずの移植手術に対する恐怖などが、生々しく綴られている。

 そんな中で一際目を引いたのが、春川さんが移植手術を一度見送ったことがあるという内容と、それが原因で自殺を試みたという部分だった。

 春川さんはもともと免疫反応が強く、適応試験の際強いアレルギーショックに見舞われたことがある。その時の恐怖から、一度ドナーが現れた時に、手術に踏み切れなかったのだそうだ。

 しかし、春川さんの心臓は急速にその機能を失いつつあり、移植を受けない限り確実な死が待っていた。春川さんは板挟みになり、ついには自殺することさえ考えたとある。

 その日――手紙には一週間ほど前とあるが、その日春川さんは恐怖することに疲れ、自ら命を断とうと病院の屋上へ向かった。

 立入禁止とあったが、鍵は内鍵だったので春川さんは難なく屋上に出た。そしてそこから身を投げ出そうとしたが、結局できなかった。

 春川さんは泣いた。無力な自分に。運命の過酷さに。そしてこの世界のあらゆる理不尽さに。

 だけど新たな絶望を背負った春川さんは、病室に戻る途中にあるものを見た。それは、一組の少年と少女だった。

 二人は最初、この病院の患者とは思われなかった。なぜなら二人ともすごく元気で、しかも楽しそうに見えたからだ。

 誰なんだろうと思った。羨ましいと感じた。憧れた。

 そして思い出した。自分もあんな風な素敵な青春が送りたかった。初恋は失敗したけど、次は燃えるような大恋愛をするんだと思っていた時があった。

 その日の夜、春川さんは久しぶりに熟睡した。翌日、偶然昨夜の少年と出会うことができた。それが進藤先輩――つまり僕だ。

 春川さんは僕と、そして夜と知り合い、そしてそれぞれの境遇を知った。

 兄を失い、移植手術を受けて生き延びた少年。

 自分と同じく、心臓移植を待つ身の少女。

 そんな二人が病院内で知り合い、仲よく元気に過ごしているのだ。春川さんには、その光景が奇跡に見えた。

 僕と夜は、春川さんにとって奇跡の象徴になった。勇気が湧いてきた。この二人は恩人で、恩返しするには自分が恋の伝道師になるしかないと思った。夜はずっと病院で暮らしているから恋愛のことに疎いのでそれがもったいなさすぎると、その部分には!マークがいっぱい書かれてあった。

 しかし出会って間もなく、心臓の発作が出てしまった。命に別状はないが、残された時間も多くないことを春川さんは改めて思い知らされた。

 けれどもう絶望はしていない。自分は移植手術を受けると決めた。ちょうどこの手紙を書いている時に、新たなドナーが見つかったと先生から告げられたのだそうだ。

 手紙の最後は、最初の方とはうって変わって明るい文体だった。僕の知る春川さんの雰囲気が、そのまま文章になったようだった。

 締めくくりは、お姉さんへのお願いがいくつか並んでいた。

 手術が成功したら、ずっとおねだりしてたお姉さんの洋服を譲ってほしいということ。ケーキの食べ放題に連れて行ってほしいこと。遅れてる勉強を見てほしいこと。

 そして、恩人である僕と夜に会ってほしいこと。

「じゃあ行ってきます! もし私が死んだら、その時は進藤先輩と夜さんによろしくね! ウソウソ、絶対生きのびてやるんだから!! ふぁいとっ!! おーっ!!!!」

 最後にそんな一文が書かれていて、そこで手紙は終わっていた。

 僕は読み終えて、手紙を持った姿勢のまま身動きが取れなかった。いつの間にか喉がカラカラに乾いていて、身体中の水分が蒸発したみたいな息苦しさを感じた。

「……やっぱり、あなた達には何も言ってなかったのね、あの子」

 やがて、お姉さんがゆっくりとそう呟く声が聞こえた。

 僕はそれがきっかけで顔を上げ、お姉さんの方を見た。そしてかすれた声をなんとか張り上げた。

「……知り、ませんでした……春川さんが、こんなにも苦しんでいたなんて……。そんな素振りなんて、全然見せなかったから……」

「あなた達には特に、弱ってる自分を見せたくなかったんだと思うわ。憧れの人だったみたいだから」

「……違いますよ。恩人なんて書いてあるけど、僕達は何もしてません。それどころか、手術を受けて春川さんが死んでしまったなら、それは僕達のせいで……」

「それは違うわ。そんなことない」

 僕の言葉を遮りながら、お姉さんは大きく首を振った。

「あの子は移植手術を受けなければ、どのみち長くは生きられなかった。そういう身体だったの。手術は受けるしかなかった。……でもその勇気が出なかった。そこを支えてくれたのが、あなた達なのよ」

「……でも、結局手術は失敗してしまった」

「それは…………仕方がないことよ」

 お姉さんはそう答えつつも、苦しげに顔を歪めた。目尻に涙が浮かんでいる。

「そんな……お姉さんは納得してるんですか?」

「納得なんてしてないわ。あの子が死ぬなんて、そんなの絶対に受け入れられない。私はあの子にこんな運命を背負わせた神様を憎んでいるもの」

 でも――と、お姉さんは毅然とした態度で続けた。

「それでも……これは誰のせいでもないの。あなた達も、ここのお医者さん達も、花の命を支えようとしてくれた。それで死んでしまったのは……私達にはどうすることもできない結果だったのよ」

 それは、まるで自分自身に言い聞かせるような声だった。

 お姉さんはしばらくの間、自分の言葉をかみしめるように黙り込んでいたが、やがて再び顔を上げると「ありがとう」と言った。

「あなたと夜さんにはとても感謝してる。最後にあの子に希望を与えてくれたわ。それは私達家族にもできなかったことだから……だから、本当にありがとう」

「……お礼なんて言われる立場じゃありません。だって僕達は何もしてないんですから」

「いいえ、あなた達は花にかけがえのないものを与えてくれたの。たとえその実感がなかったとしても、その事実だけは否定しないで。花は死んでしまったけれど……でも最後にあの子は希望を掴もうとして一歩を踏み出したの。それができたのは、あの子にとって間違いなく幸せなことだった……」

 お姉さんは涙を拭いながら、もう一度「ありがとう」と繰り返した。

「……最後にあの子の過ごした部屋を見ておこうと思ったんだけど、あなたと会えてよかったわ。夜さんにも、どうかよろしく言っておいて」

「もう、帰るんですか」

「ええ、これからあの子のお葬式だから……」

「あの、これ」

 僕が手紙を便箋に直して差し出すと、お姉さんは首を振った。

「それはあなたが持っていて」

「え、でも」

「いいの。私はもう一字一句覚えてしまうくらい何度も読んだから。それに、その手紙はあなたから夜さんに見せてあげてほしいの」

 そう言われて、僕は差し出した手をひっこめるしかなかった。

 お姉さんは最後に「それじゃあ」と寂しそうな微笑みを残し、病室から出ていった。そうするとその部屋からは、春川さんの気配はもう完全に消えてしまった。

 僕はしばらくの間、手紙を持ったままその場に立ち尽くしていたが、やがて自分の部屋へと戻った。

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