4-5
翌日、僕はリハビリに向かう前に春川さんの病室の前へと足を向けた。
陽の出ている時間帯に来るのは初めてだったが、プレートには昨日はなかった面会謝絶の文字が新たに付け加えられており、僕はどうすることもできず引き返すしかなかった。
「なんだか今日は全然集中できてないみたいだね。何かあったかい?」
リハビリ中は、荒木先生からそんなことを言われた。
その言葉通り、僕は春川さんのことで上の空だった。考えても仕方がないことだとわかっていても、どうしても昨夜の苦しんでいた春川さんの姿が頭から離れない。
僕は思い切って、荒木先生に春川さんのことを訊いてみた。担当ではなくても何か知ってるんじゃないかという期待があった。
「ああ、春川さんね。……まあいいよ。気になるだろうし教えてあげよう」
「いいんですか? その、守秘義務的なものは」
「きみ達が春川さんと知り合いだったことくらい知ってるよ。昨日春川さんの部屋にいたこともさ」
言われて少し驚いたが、考えてみれば当然のことかもしれないと思った。
狭い病院内のことだ。入院患者達の行動など筒抜けだろう。僕達も隠れながら行動していたわけじゃない。
「心臓のことは彼女から聞いてるんだろ? とりあえず、今のところは命に別状はないよ。いつもの発作の類だから」
荒木先生のその言葉に、僕はとりあえず安堵する。が、それで心に沈む重いものが完全に解消されたわけじゃなかった。
「今のところは、というのは……」
「今のところは今のところだよ。言葉通り。ここの入院患者の全員に付く枕詞ってやつだ。きみは例外だけど」
「相当悪いんですか」
「ここにいるみんなは、移植手術をしない限り悪くなるしかない病気を抱えてるんだよ。でもとりあえず、春川さんについては今日明日にどうにかなるってものじゃないから、その点は心配しなくていい。しばらくしたらまた落ち着くだろうさ」
心の中の重さがハッキリとした輪郭を持ったような感触がした。
今更ながらに、僕はこの病院の現実というものを突き付けられたような気がした。そうすると、自分が部外者であることを強く意識せざるを得なくなる。
僕は考えるのをやめた。それは部外者の役割じゃなかった。僕のやるべきことはリハビリを続け、一刻も早く回復することだけだ。そう思って集中しようとしたが、どうしても気が散ってしまうのは避けられなかった。
その晩も、いつもの時間に夜が病室を訪ねてきた。
しかし、夜にはいつもの元気はなかった。僕以上に、春川さんのことでショックを受けているようだった。
僕は夜の要望で、また春川さんの病室の前へと行くことになったが、もちろん面会謝絶の文字が消えているようなことはなかった。
部屋に戻り、荒木先生から聞いたことを夜にも伝える。もちろん、それは夜の不安を解消できるような情報ではなかった。
結局その日は、夜は早々に自分の部屋へと戻ることになった。春川さんのことで気が塞いでいたから、というわけじゃない。夜はなんとか気を取り直そうと、今まで以上にトランプだ将棋だと遊びに夢中になろうとしていた。
「あ……う、また……」
けれど間もなく夜は頭を抱えて、あの透明な姿を見せる。ふらふらする身体をなんとか踏ん張ろうとするが、あきらかに難しそうだった。
そうなるには、いつもよりも随分と早い時間だった。夜のその症状がどういったものかよくわからないけれど、春川さんのことが影響しているのかもしれない。同じ心臓移植を待つ者同士、あんな姿を見せられた動揺が出ているのかも。
結局夜はそのまま戻らざるを得なくなった。僕は久しぶりに夜更かしから解放されることになったが、それで平穏が訪れるはずもなかった。
時間が経つのが早くなった。
春川さんの姿は相変わらず見ることができず、今まで毎晩きていた夜の訪問は途切れ途切れになった。
しかも、夜が訊ねてきても以前のような元気がなかった。夜が言うには、最近異常に眠気がするようになって今までのように動けなくなってきているとのことだった。
その言葉通り、夜は訪ねてきてもすぐに眠くなってしまうようで、わずかな時間で自室に戻ることを余儀なくされた。僕は周りの環境が急激に静かになっていくのを実感した。
そんな日々が続く中、僕にも変化は訪れた。ただしそれは夜や春川さんとは逆ベクトルのものだった。
熱心にリハビリを続けてきたおかげか、僕の身体は次第に滑らかに動くようになっていった。ついには支えなしで一人で歩けるようになった。
まだまだ体力は戻っていないし身体の痛みも完全に消えたわけではないけど、それは一つの目に見える成果だった。
「おめでとさん。これでサッカーへまた一歩近づいたわけだ」
荒木先生もそう言って、いつも通りの軽い笑みを浮かべながら祝福してくれた。その言葉通り、僕は兄さんの代わりになるべく、進むべき道を順調に歩んでいた。
けれど、そのことを喜ぶ気分には、どうにもなれなかった。
春川さんと会えなくなって一週間ほどが経った頃だった。
僕はリハビリを終えて、もうずっとおともにしていた点滴台なしに病院の廊下を歩いていた。
休憩スペースに差し掛かり、なんとはなしに椅子に腰かける。そうして窓の外の景色を見るともなく眺めていた時だった。
不意にキィキィという音が廊下の向こうから聞こえてきた。それはここにきてすっかり聞き慣れた車椅子が立てる音だった。
入院患者が通りかかったのだろうと思いながら、僕は何気なくそっちの方向に視線を向けた。だけどその瞬間、僕の目は思わず見開かれた。
「お久しぶりです先輩」
そこにいたのは春川さんだった。
看護師に車椅子を押されながら、ひらひらと手を振ってこちらに近づいてくる。
やがて僕の傍まで来ると、看護師は春川さんと一言二言何か言葉を交わした後去って行った。二人きりになるや、春川さんはまた「お久しぶりです」と繰り返した。
「いやぁ、すいませんでした。あんなとこ見せちゃって、心配させちゃいましたか?」
「あ、いや、うん……」
「ちょっと、なんでそこで歯切れが悪くなるんですか。もしかして心配してくれてなかったんですか? ひどいなぁ」
「そういうわけじゃなくて、突然きみが現れたからビックリしてるんだよ」
「なんですか現れたって。人をモンスターみたいに」
春川さんはそう言ってあははと笑った。
残念ながら、それは見覚えのある春川さんの笑みじゃなかった。
声には張りがなく、よく見ると頬も少しこけているように見える。顔色もあまりよくない。なにより車椅子を使っているところが、彼女の病状の具合を明確に告げている。
それでも不思議なことに、彼女の表情自体はどことなく明るく見えた。これも彼女の言う空元気なのだろうか。
「でもほんと、すいませんでした。実はもっと早く先輩と夜さんには会いたかったんですけど、いろいろあって」
「別に謝られることはないよ。そんな義務はないんだし」
「先輩は相変わらずクールですね。ここは『いろいろって?』って心配そうに訊くところですよ」
「きみは僕に何を期待してるのさ」
僕がそう言うと、春川さんはまたあははと声を上げた。
「いえ、変に深刻な感じにならなくて、先輩には感謝してるんですよ。今日はお伝えしときたいことがありまして、先輩に会いに来たんです」
そこで春川さんは、少しためらうように言葉を切った。だけどすぐにまた笑顔で僕に向き直ると、今日の天気でも口にするようなごくごく軽い口調で、言った。
「実は私、手術を受けることが決まりました」
「手術って……」
「もちろん、移植手術です。心臓の」
そう、もちろんそれ以外ない。ここはそういう場所なのだから。
わかっていても、僕はなぜか訊き返していた。
「しかもなんと、手術は今晩行われるんですよ」
「それはまた……随分と急な話だね」
「ちょうどドナーさんが見つかったタイミングだったんです。それでも数日前には決まってましたけど、先輩に報告するのがギリギリになっちゃいました」
てへっと舌を出す春川さん。今の話を聞いた後だと、その仕草を今まで通りの雰囲気で受け取ることはできなかった。
「…………そう、がんばってね」
僕はどう返すべきかしばらく迷った。そしてようやく出てきた言葉は、字面だけ見ると随分と乾燥したものだった。
「えー、それだけですか? 先輩はあっさりしすぎです。なんかちょっと冷たい感じだし」
「ごめん。そう受け取られたのなら謝るよ」
「あ、ウソですウソ。先輩が私の手術の成功を祈ってくれてるってのはちゃんと伝わってますから。ありがとうございます」
「それをわざわざ報告しに?」
「はい。本当は夜さんにも伝えたかったんですけど、会えないのは仕方ないですよね。先輩から言っておいてもらえますか?」
「わかった。必ず伝えておくよ」
「お願いします。先輩と夜さんは私の恩人ですから、手術前にどうしても報告したかったんですよね」
「恩人? どういうこと?」
「おっと、口が滑りましたね。いろいろ深い事情があるんですよ。その辺りのことは、手術が無事成功したらお話ししますね」
春川さんは何やら含みのある笑みを浮かべながらそう言った。
よくわからないけど、それを今無理矢理聞き出そうというつもりもなかったので、僕は黙っておいた。
そこで会話は一度途切れ、しばらく沈黙が流れた。
「……先輩」
やがて春川さんは、少しだけ声のトーンを落としてまた話し始めた。
「移植手術の成功確率ってご存知ですか?」
「90%近くあるんじゃなかったっけ」
「それは術後三年の生存率ですね。直後はもっと高いですよ。いやぁ、医療技術の進歩ってスゴイですね。他人様の心臓を移植してくるなんて、まるで魔法ですよ魔法。そう思いません?」
「うん、そうだね。スゴイことだと思うよ」
「そういえば、先輩も移植手術を経験なさったんでしたよね。そういう意味でも先輩は先輩ってわけかぁ」
また、あはは。
しかしその声はどこか震えているようにも聞こえた。
「……もしかして、不安なの?」
それは訊くべき問いではなかったかもしれない。
でも同時に、春川さんはそう訊いてほしいようにも思えた。
「……不安がないわけないじゃないですか」
その表情が、一瞬だけ苦しげに歪む。だけどそれはすぐに消えて、また笑顔に戻った。
「でももう決めたことですから。後は突き進むだけです。バッターボックスに立った時と同じですよ。投げてくる球種はこれだって決めたら、後はバットを振りぬくだけです」
春川さんは強い。僕は素直にそう思った。空元気も元気だという言葉が頭に浮かんだ。
「大丈夫ですよ。私にはまだまだやりたいことがあるんですから、手術程度はバーンと乗り越えてみせますよ」
「やりたいことって?」
「そんなの決まってるじゃないですか。恋ですよ恋。先輩と夜さんみたいに身の焦がれるような大恋愛をするんですよ」
「……目標とするところが既に見当外れなんだけど」
「あーあ、私も先輩みたいな彼氏が欲しいです。略奪愛ってアリですか?」
「吊り橋効果ってやつだね。退院したら、僕のことなんか綺麗さっぱり忘れるよきっと」
「そんなわけないじゃないですか。そういうところはクールじゃダメですよ先輩」
そう言って、春川さんはひとしきり笑った。それは僕の錯覚かもしれないけど、彼女の心からの笑い声のように聞こえた。
「じゃあ、そろそろ私は行きますね。夜さんに伝える件、絶対に忘れないでくださいよ」
「もういっそ事後報告でいいんじゃないかな。手術が終わってからきみが直接伝えればいいよ」
「そんな失礼なことできるわけないじゃないですか。いいですね? 念は押しましたからね」
春川さんは自分で車いすを動かしながら、何度も振り返って「お願いしますよ!」と繰り返しながら去って行った。
その後ろ姿を見送った後、僕は自室に戻って睡眠をとった。こまめに睡眠時間を確保しておくというのは、夜が深夜にやって来るようになって以来身についた習慣だった。
春川さんの依頼は、言われるまでもなく果たすつもりだった。夜はあれだけ春川さんのことを心配していたのだ。伝えるべき義務がある。
深夜二時頃。僕はベッドに横になったまま、じっと夜が訪れるのを待っていた。
しかし結局、その日夜がやって来ることはなかった。
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