4-3
「うん、いいよ」
その日の深夜。
いつも通りの時間に夜がやって来たところに春川さんの話をすると、夜は特に考える様子もなく二つ返事で即了承した。
僕はこうも即決されるとは思っていなかったので、なんだか拍子抜けした気分だった。
「いいの?」
「ダメなの?」
不思議そうに首を傾げる夜。もちろんダメなわけがないが、突然のお誘いを軽く受けた理由は知りたいところだった。
「その子――ハナっていうんだっけ。ハナも心臓移植を待ってるんだよね? だったら私も会いたいに決まってるよ」
僕が訊ねると、夜はそんな答えを返した。何がどう決まってるのかわからないけど、どうやら春川さんが夜と同じ境遇だというのが決め手らしかった。
ひょっとしたら、僕はその同じ理由で夜が拒否するかもしれないと思っていた。逆に同じ境遇だからこそ、自分を必然的に客観視することになるから会いたくないとか。
だけどそういった考えは杞憂だったようだ。なにはともあれ、頼まれごとを無事果たせたわけだからよかった。
僕は安堵しながら春川さんの病室の場所を夜に告げるが、
「え? カイも一緒に来るんだよね?」
その一言に、僕は思わず夜の顔を見返した。
「別に、僕の方は来てほしいとは言われてないよ」
「来てほしくないとも言われてないでしょ? そもそもその子は私とカイが一緒にいるところを見て会いたいって思ったんだよね? だったらカイも一緒に行くに決まってるじゃない」
言われてみれば、そっちの方は決まってるかもしれない。僕は何も言い返せなかった。
密かに抱いていた「久しぶりに夜更かしせずに済む」という思惑はもろくも消え去り、結局僕は夜と一緒に春川さんの病室を訪ねることになった。
三階の一番端。つまり僕と同じ階の、僕の病室とはちょうど反対のところにある部屋だった。
僕はまた夜に支えてもらいながら病室を出て、廊下を真っ直ぐと歩いて行った。
春川という名前がプレートにあることを確認してから、僕は二度ノックして静かにドアを開けた。
「あ、本当に来てくれたんですね!」
するとその途端、部屋の中から院内の静寂を貫くような大きな声が聞こえてきたので、僕と夜は慌てて中に入ると素早くドアを閉めた。
見ると、春川さんはベッドに横になったまま上体だけをこちらに向けた姿勢で待っていた。
春川さんの身体からは何本かのコードが伸びていて、ベッドの近くには何かの機械が見える。定期的に音が鳴りモニターに波形が描かれているところを見ると、おそらく心電図なのだろう。
その光景は、嫌でも心臓の病気を連想させる。窓から差し込む月明かりだけの中で春川さんを見ると、やっぱり昼間のような元気な姿には見えなかった。
「よかった、さすが先輩ですね。そこに椅子がありますから、どうぞ出して座ってください」
しかし春川さんの声は昼間に会った時と変わらずに元気だった。
僕はロッカーの横にあったパイプ椅子を二つ取り出して、ベッドの傍へと広げた。その際に部屋の中をさっと見回してみた。
造りは当然僕の部屋と同じだったけど、雰囲気はまるで違った。春川さんの私物と思しきものがいくつか目に入ってきた。口が開いて服がはみ出しているモスグリーンのボストンバッグや少女マンガの並んだ小さなラック。ベッドの枕元にはスヌーピーのぬいぐるみもある。
備え付けの棚の上に芥川龍之介全集があるだけの僕の部屋とはうって変わって、人が暮らしている気配がする部屋だった。でも逆にそれが、春川さんが長い時間をここで過ごしていることの証でもあるようで、僕は何とも言えない気分になった。
「はじめまして、私は春川花っていいます! やっぱり間近で見るとすっごい美人さんですね!」
「私はヨルだよ。ヨルっていうのはカイにつけてもらった名前なんだ」
「わぁっ! 名前で呼び捨て!? しかもあだ名まで!? ぬはー、やっぱいいですねぇ!」
そんなことを考えているうちにも女子二人は既に話し始めていて、出会ってまだ数分も立ってないはずなのにもう盛り上がっていた。
春川さんは早速興奮した様子で、なんだか心電図の音と波形が速くなったような気もしたけど、見なかったことにした。
「夜さんの髪、すごく綺麗ですね。枝毛一つない黒髪ロングとか、超憧れます」
「ハナの髪は短いね。でも似合ってるよ。可愛い」
「いやぁ、私は部活の関係で伸ばせなかったんですよね。でも夜さんに褒めてもらえてうれしいです」
気がつけばなぜか話題が髪のことになっていて、二人ともお互いのヘアスタイルを褒め合っていた。どういう流れなのかまるで理解できない。
どうして女子というのは、出会ったばかりなのにこうも滑らかに会話ができるのだろう。
いや、それは女子だけじゃないのかもしれないけど、いずれにせよコミュニケーション能力に難のある僕には、こうも早く誰かと打ち解けるなんて魔法のようにしか見えなかった。
「あ、ハナはパジャマ着てるんだね。それパジャマでしょ? いいなぁ」
「これは家で着てたの持ってきたんです。パジャマが変わると寝られなくて。でもデザインが子供っぽいのが難点なんですよね。っていうか、夜さんの場合は何着ても似合いそうだし、その病院の服ですらバッチリ着こなしてるじゃないですか。そっちの方がよっぽど羨ましいです」
今度は服の話になっている。ちょっと目を離した隙に、目まぐるしいことこの上ない。
僕は二人の会話に割って入ることもできず、もちろんそのつもりも最初からなかったので、ただパイプ椅子に座って二人が楽しそうに喋っているところを黙って見ているしかなかった。
こんなことなら文庫本でも持ってくるんだった。いや、やっぱり最初から一緒に来なければよかった。
ぼんやりとそんな思考をしながら、ただ時の過ぎるのを待っていた時だった。
「ところで、夜さんは進藤先輩とお付き合いなさってはいないんですか?」
不意にそんな質問が耳に飛び込んできて、僕は反射的に視線を二人の方へと戻した。
そこでは春川さんがニヤニヤとした笑みを浮かべ、夜がキョトンとした顔で首を傾げているところだった。
「お付き合いって? カイと出会って以来、私の時間は全部カイと一緒に過ごすことに使ってるけど、そのこと?」
「ぬはーっ、なんですかそれは! もう完全にお付き合いですよそれ! お二人の関係はあれですね! ラブですよラブ!」
「……きみは興奮すると日本語が乱れるようだね」
率直に、何を言ってるのか理解できない。理解したくないという脳の働きがそうさせているのかもしれない。
僕が力ないつっこみを入れている間も、夜はよくわかってないといった顔をしたままだった。
「ラブ? ラブとは①愛、愛情。②恋愛。③テニスで得点がない状態のこと」
「なにを知的なボケをかましてるんですか夜さん! そんな夜さんも素敵ですけど、今は率直に、進藤先輩へのお気持ちを聞かせてください」
「カイへの気持ちって?」
「ですから先輩へのラブな気持ちですよ。それさえ聞かせてもらえれば、私はもう思い残すことはありません」
「そういう洒落にならないことを簡単に口にしないように」
僕はため息を吐く一方で、その下らない質問に夜がどう答えるか気が気じゃなかった。
夜のことだから、もしかしたらこの機会に乗じて僕をからかいにくるかもしれない。いや、その可能性は十分ある。
そうなったら、僕は夜と春川さんという猛獣に挟まれることになる。いわゆる前門の虎後門の狼というやつで、つまり僕は生贄の羊だ。
「んー? カイのことは大好きだよ?」
「ぬはーっ!」
そして始まる大虐殺。春川さんの興奮は絶頂を迎え、心電図は見てはいけない物体に変貌する。
「でも、それが愛なの?」
「は?」
しかし、直後に夜が放った一言に、春川さんは拳を握りしめた格好のままポカンと口を開けて固まった。
「あれ、ハナ? どしたの?」
「い、いえいえ待ってください。夜さんは先輩のことが大好きなんですよね?」
「うん、そうだよ」
「先輩と夜さんは男と女なわけです。だったら、その好きは愛以外の何物でもないはずですよね?」
「いや、その理屈はおかしいんじゃ……」
「先輩はちょっと黙っててもらえますか」
僕も当事者のはずなのに、その発言は呆気なく封殺された。
「こんなところで偶然出会って、そして毎晩ひそかに密会を重ねる……そんな関係の根っこが愛じゃなくて何だって言うんですか」
「そうなのカイ?」
「そもそも夜が毎晩会いに来てるのは僕達の担当医も知ってることだし、ひそかに密会って意味が被ってるよ。馬から落馬する的な」
「そんな国語のテストみたいな指摘はどうでもいいんですよ! じゃあ夜さんは、どうしてカイさんに毎晩会いに行ってるんですか」
「それはもちろん、カイに会いたいからだよ。会っていっぱいお話ししたいから」
「それです。その気持ちが愛と言うんです」
「思いっきり断言してるけど、それは暴論でしょ。他にも友情とか信頼とか、いろいろあるんじゃないかな」
「そんなのつまらないじゃないですか!」
春川さんはキッと僕を睨みつけながらそう反論した。
なんというか、ひどい。
「うーん……愛、愛かぁ……愛とは自己の利益を求めないものであるとキルケゴールは言った。一方倉田百三は、愛とは他人の運命を自己の興味とすることであると規定した」
「ど、どうしちゃったんですか夜さん? なんか急に難しいことを言い始めましたけど」
「気にしないでいいよ。いつものことだから」
もうすっかり慣れてしまった僕は、たじろぐ春川さんにそう解説した。
やがて夜はまいったとばかりに首を振ると、ふうっと大きく息を吐いた後、僕の方へと振り返った。
「うーん、よくわかんないなぁ。私はカイに、生きててよかったって言ってもらいたいんだよね。だから試しに言ってみてくれる?」
「どさくさにまぎれて言わせようとしないでよ……言わないよ」
「むー、カイは意地悪だぁ。それでも、私はカイと一緒にいたいんだよね。それは何故か? 何故という問いが普遍的な事象へのものならそれは科学の領域である。しかしそうでないならば哲学の領域となる。カイと一緒にいたいっていう気持ちは普遍的なものかな?」
「……もしそうなら、僕は今頃この世のすべての物質に迫られて押しつぶされてるんじゃないかな」
「あ、そっか。じゃあやっぱり哲学的なアプローチが必要な問いなんだね」
「ちょ、ちょっとちょっと」
僕達がそんな意味不明な会話をしていると、黙って聞いていた春川さんが慌てて割り込んできた。
「なんでそんなわけのわからない話になってるんですか。ようするに、夜さんがカイさんに恋してるかどうかってことですよ、問題は」
「恋? 恋。恋とは特定の誰かを憧れたり慕う気持ちと定義される」
「定義はいいです! 夜さんだって今まで恋をしたことがあるでしょうから、そんなのパッとわかるでしょ?」
「え?」
「……え?」
夜が訊き返すと、春川さんも一拍置いてから同じような反応を見せた。
「……え、あの、もしかして夜さんって、恋をしたことないんですか?」
「あ、うん。たぶんないと思うよ」
夜がすんなりとそう答えると、春川さんは信じられないものを見たといった顔で夜を眺めた。
「そ、そんなのダメですよ! 夜さんみたいな美人が恋をしたこともないなんて、そんなのもったいなさすぎます!」
そして我慢ならないといった雰囲気で、春川さんはそうまくしたてる。
「いいですか夜さん、女の子にとって恋は必須なんです。それはもう、生きていくうえで絶対必要な要素と言っても過言じゃないんですよ」
「生きていくうえで?」
「それはさすがに過言じゃないかな」
「先輩は黙っててください。男の人に乙女心はわからないんです。女の子は恋する生き物なんですよ」
結構鋭い眼光で睨まれて、僕はすごすごと退散するしかなかった。
夜も夜で、春川さんの勢いに少し驚いているみたいだ。
「けど、夜さんにもいろいろと事情があるんだと思います。今までは興味がなかったのかもしれないし、恋どころじゃなかったのかもしれない。ですが、これからは私が夜さんをサポートします」
「……どういうこと?」
春川さんの言ってることが意味不明すぎて、僕はキョトンとしている夜の代わりに訊ねた。
「見たところ、夜さんは恋というものがどんなものか、まだよくわかってないご様子です。なので、私が夜さんに恋の素晴らしさを教えてあげたいと思います。そう、いうなれば私は恋の伝道師です」
満足気な顔でものすごく恥ずかしいことを口走っている春川さん。
一方僕は、恋の伝道師なんてアレな単語を現実で口にする人がいることへの衝撃で、何も言えなかった。
「夜さん、そういうことですので、私に任せてくださいね」
「うん。ハナが何言ってるかよくわからないけど」
「ようするにですね、私は夜さんがもっと先輩と仲よくなれるお手伝いをしたいということです」
「あ、そういうことなの? カイともっと仲よしになれるんなら、いっぱいお願いしたいよ」
「お、やる気が出てきましたね。お二人がもっとラブラブになれるようがんばりますよ。それで、そもそも恋というのはですね……」
僕が黙っている間に二人の会話はあっという間に盛り上がっていき、気がつけばキャイキャイと楽しそうなガールズトークが始まっていて、いよいよ僕は蚊帳の外状態になってしまった。
春川さんは恋がいかに素晴らしいかを連綿と語り、夜はそれを興味津々といった顔で聞いている。すっかり二人の世界が形成され、僕は何もすることがない。
いっそのこのまま自分の部屋に帰ろうかとも一瞬思ったけど、後から何を言われるかわかったものじゃなかったので、それもためらわれた。
結局僕は、ラックにあった春川さんの少女マンガを拝借して読み始めることにした。こんなことなら文庫本を持って来ればよかったとまた考えたけど今更仕方がない。こうなったら内容は二の次で時間が潰せれば何でもいいと、僕はマンガに集中した。
内容は典型的な恋愛物語で、地味で目立たない少女が学校のイケメン達に次第に迫られるようになるといったストーリーだった。女の子って本当に恋愛モノが好きなんだなと呆れつつも、それが結構面白かったのがなんとなく癪な気分だった。
恋愛といえば、兄さんはよくモテた。彼女もいたということは、兄さんも恋をしていたのだろう。僕とは無縁の世界だと思っていたけど、これからは僕もそうは言っていられないのかもしれない。兄さんの代わりになるのならば。
そんなことを薄っすら考えながら、僕はマンガを読み進めていった。そうして、いつの間にか五巻目まで読破したくらいの時だった。
「あ、夜さん? どうしたんですか? ちょ、ちょっと先輩。夜さんが!」
不意にそんな声が聞こえて顔を上げると、慌てふためく春川さんと、春川さんのベッドに倒れ伏している夜の姿が見えた。
「ど、ど、どうしましょう!? 発作か何かですか!? と、とりあえずナースコールした方がいいですか!?」
突然倒れた夜にあたふたと取り乱す春川さん。
僕もすぐに立ち上がって夜の様子を確認しようとした。
「ううん……」
けれどその瞬間、夜が小さく呻いて上体を起こした。
目を細めながら頭を押さえ、ふらふらと身体を揺らしている。
「……ごめん、また急に意識が」
「いつもの?」
「……うん」
僕の問いかけに、夜は小さくコクリと頷く。
そのやり取りを呆然と眺めていた春川さんが「ちょ、ちょっとちょっと」と慌てて割り込んできた。
「ど、どういうことですか? なんか今、いつものって」
「ああ、大丈夫。発作とかじゃないよ。夜は時々こうやって、急に眠くなる時があるんだ」
もう何度も見た光景だったので、僕は落ち着いて説明した。
春川さんはそれを聞いて困惑した表情だったが、僕も初めて見た時は同じ反応をしていた。
「……ああもう、まだ時間はあるはずなのに」
「そういえば今日はいつもより早いような気がするけど、もしかして体調が悪いの?」
「……ううん、元気だよ。ただ、なんかだんだん早くなってきてるの。もう、やだなぁ……」
夜はふるふると首を振りながら立ち上がった。まだ若干身体が揺れているようだったけど、足元はしっかりしていた。
「ふう……ごめん、今日はもう戻らないと」
「一人で大丈夫?」
「うん。カイに送ってほしいところだけど、また急に眠くなって、カイを支えられなくなったら困るからね」
えへへと笑う夜の顔は、もういつも通りの無邪気さが戻っていた。
「じゃあねカイ。それとハナも、今日教えてもらったことは今度また実践しておくから」
「あ、は、はい。がんばってください」
夜はそのまま春川さんの病室を後にしようと歩き出したが、すぐに立ち止まって「あ、忘れてた」と振り返った。
「ハナは心臓移植を受けるんだよね?」
「え? そ、そうですけど」
「大丈夫。ハナは絶対に生きるからね。臓器を移植された人は生きないとダメなんだよ」
「は、はぁ」
「それじゃまたね」
唐突な言葉に戸惑う春川さんを残して、夜は部屋を出ていった。
残された僕達はしばらくドアの方を無言で眺めていたが、やがて春川さんが独り言のようにポツリと呟いた。
「……今の、励ましてくれたんでしょうか」
「そうみたいだけど……」
僕も突然夜があんなことを言い出したのに少々戸惑っていた。
きっとあれは励ましだったんだろうけど、それにしてはまるで誰かに言い聞かせるような口調だったようにも聞こえた。
「先輩、夜さんに私の心臓のことは伝えてあったんですね」
「うん……勝手に言ってまずかった?」
「あ、いえ、そのことは私、オープンにしてますから、全然大丈夫なんですけど」
そこで春川さんはなぜか言葉を切って、どこか遠慮するような視線を僕に投げかけた。
「……その、夜さんがここにいる理由は、先輩はご存じなんですよね?」
もちろん知っている。夜の口から直接聞いたから。
春川さんはどうやら夜の病気のことを知りたがっているようだけど、僕の口からそれを言っていいものか、一瞬迷った。
けれど、おそらく夜ならかまわないだろうとすぐに考えた。なにより夜は春川さんのことをもう知っているのだから、春川さんも夜のことを知る権利があると思った。
「きみと同じ、心臓だって」
僕がそう言うと、春川さんはハッと息を呑んで目を見開いた。
「……夜さんも、私と同じ?」
「うん。移植手術の日を待ってるって言ってた」
「そう、だったんですか……」
春川さんは衝撃を受けている様子だったが、その衝撃がどういった類のものかは、僕にはわからなかった。
「……すごいですね、夜さんは」
「え?」
「だって心臓移植を待つ身で、あんなにも元気で前向きなんですよ。本当にすごいなぁ……」
「……そういう意味じゃ、春川さんも同じだと僕は思うけど」
僕がそう言うと、春川さんは苦笑した。
「私なんて全然です。言ったでしょ? 空元気ですよ。でも、夜さんのは本物に見えます」
それは、僕も同意見だった。
春川さんのことはともかく、夜については時々心臓移植を待つ身だということを忘れてしまいそうになる。
彼女にはそういった重さがほとんどないように思える。ふと夜を眺めると、どこまでも透明でどこまでも現実感がない。
「ふふ……」
「なんで笑ってるの?」
「いえ、私はラッキーだなって思って。夜さんみたいな人に会えて、私幸せですよ。なんかすっごく勇気が湧いてきた」
握りこぶしをつくって笑顔の春川さんは、本当にうれしそうだった。
「それは……結構な話だね。同じ境遇の人同士で支え合うのはいいことだと思うよ」
「はい。私、このご恩に報いるためにも、絶対に先輩と夜さんをラブラブにしてみせますからね!」
「……そっちはやる気を出さないでいいから。というか、やっぱりきみは勘違いしてるよ」
「何言ってるんですか。あんな綺麗な人が傍にいて、好きにならない男子がいるわけないでしょ。もっと素直になった方がいいですよ」
今度は僕が春川さんの言葉に苦笑する番だった。
確かに、夜が綺麗だというのは認める。もし夜が学校にいたとしたら、僕なんかとは縁のない美少女として大人気だったに違いない。
でも、だからといって僕が夜に恋愛に類する感情を抱いているということはない。それだけはハッキリしている。
「まあいいですよ。私が恋の伝道師である以上は、絶対に先輩を夜さんに振り向かせてみせますからね」
「どうでもいいけど、なんか主旨が変わってない? それと、その恋の伝道師っていうの、かなり格好悪いからあんまり使わない方がいいと思うよ」
「え、うそ!?」
僕はラックにマンガを戻しながら立ち上がり、そろそろ僕も自室に戻ると告げた。
春川さんの病室を後にして廊下を歩いている間、僕はまた夜のことを考えそうになっている自分に気がついて、軽く首を振った。
深入りしないとまた頭の中で繰り返すけど、その深入りという意味が夜の事情へのことか、それとも自分の気持ちへのことかもよくわからなかった。
僕は考えるのをやめて、兄さんの代わりになるという使命感だけを思い出しながら歩き続けるのだった。
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