4-1

「はは、進藤君って結構要領の悪いタイプだったんだね」

 荒木先生のいかにも軽薄なその笑い声に、僕は少しムッとして教科書から顔を上げた。

「おっと、悪い悪い。なんとなくきみは勉強が得意な感じがしたから、ちょっと意外だったんだ」

「……苦手でもないですけど、成績は普通くらいです」

「あ、そうだったの。ごめんね、できる子用の教え方をしちゃったよ」

「別に、無理を言って教えてもらってる身ですから、いいんですけど」

 そう言いながら、僕は既に気を取り直していた。こういった勘違いは今までもよくあったことだから慣れていたのだ。とはいえ荒木先生の態度はいかにもあからさまだったので、少々不愉快にはなったが。

 夜と一緒に病院内を歩き回った翌日のリハビリ後のこと。僕は前日お願いしていた通り、荒木先生に勉強を教えてもらっていた。

 まさか昨日の今日で早速教えてもらえるとは思っていなかった。荒木先生はどこからか教科書とノートまで調達して来ており、今やってるのは数学だ。

 リハビリの後、そのまま同じ部屋で机と椅子を引っ張り出してきて勉強を始めたわけだけど、そろそろ小一時間にもなるのに荒木先生は仕事に戻る気配がまるでなく、本当に暇なのかもしれないと思った。

「うーん、最終的には正解に辿り着くんだけど、いろいろ無駄な部分が多いな。もっと簡単にできる方法があるのに、わざわざ回り道をしてるって感じ」

 荒木先生は僕のノートを覗き込みながら、鼻歌まじりにそう分析した。

 その指摘は確かだった。なにせ、僕は以前兄さんから同じことを言われた経験があるのだ。自覚もあった。

「こことかさ、こんな無駄な計算なんてしなくても、さっき説明した通りのまとめ方をすれば……ほら、すごく簡単に解ける」

「……そうですね。言われてみればその通りなんですけど、どうしても細かいところが気になって」

「ま、それはそれでいいと思うけどね。それがきみに合ったやり方なら、別に間違ってるわけじゃないんだし。時間はかかるだろうけど」

 意外にも、荒木先生は僕のやり方に合わせてくれる姿勢を見せた。その柔軟さはありがたかったけど、僕は「いえ」と首を振った。

「先生のやり方で教えてください。僕は要領のいい勉強法を身につけたいんです」

 僕がそう言うと、先生は少し目を見開いて僕の顔を眺めた。

「そりゃ別にいいけど、きみにはきみのスタイルがあるんじゃないの? それとも、どっかいい大学を目指して今から受験勉強とか?」

「成績を上げたいんですよ。それも、できるだけ小さな労力で。他のことも十分できるくらいの時間を確保しながら」

「なんか妙な物言いだなぁ。楽して成績上げたいって言ってるようなのに、どこか切羽詰った感じじゃないか。何か理由でもあるわけ?」

 理由は、ある。もちろん、兄さんのことだ。

 兄さんは頭がよく成績も常にトップだったけど、かといって勉強ばかりしてたわけじゃない。部活や友人との付き合いにも沢山の時間を割いていた。勉強時間だけなら僕の方が多かったかもしれないくらいだ。

 それでも、僕は兄さんの成績にまるで敵わなかった。もともとの頭の出来もあるのだろうけど、とにかく兄さんは要領がよかったのだ。最小の労力で最大の結果をごく自然に出していた。

 兄さんの代わりになると決めた以上、僕も今後はそういった勉強法を身につける必要があった。それでなくても、やらないといけないことが多すぎる。

 荒木先生にお願いしたのは、先生も兄さんと同じタイプなんじゃないかと思ったからだ。

 医学部を出ているということは相当な勉強をしたに違いない。でもいわゆるガリ勉な感じに見えないということは、きっと兄さんと同じく要領のいいやり方を知っているタイプなのだろう。実際、その予想は当たった。

「別に、ちょっと自分を変えようと思っただけです」

 そんなことを考えながら、僕は荒木先生の問いに正直ながらも婉曲的な答えを返した。

「いやいや、自分を変えようなんて相当なことだよ? 生半可な気持ちじゃそんなこと言えないもんさ。実際きみの雰囲気は張りつめてるしね」

 けれど先生は、サラリとしながらも核心を突いたことを言ってきた。

 やっぱり先生も地の頭がいいのだろう。雰囲気は軽いしいかにもチャラい感じなのに、どこか知性に裏打ちされたような迫力がある。

 適当な誤魔化しは通用しないと思った。通用するかもしれないけど、だったら教えるのはやめると言い出されそうな気配だった。

「……兄さんみたいになりたいからですよ」

 僕は結局、本心を口にせざるを得なかった。

 もともと秘密にしていたわけでもないけど、昨日も夜に打ち明けたからか心理的なハードルが下がっているのかもしれない。

 でも、荒木先生にはなんとなく言ってもいいような気もしていた。

「兄さんみたいにって?」

 僕の言葉に、先生は意表を突かれたようにポカンと口を開ける。

 僕は兄さんがいかに優秀な人間だったか、勉強も運動もできて人気があって完璧な人間だったかを言葉少なげに語った。

 そんな兄さんがいない今、僕は兄さんのような人間を目指して生きていくつもりなのだと説明した。だから要領のいい勉強法を身につけたいのだと。

「……ふーん、そっか」

 僕の話を聞いて、荒木先生の反応は薄かった。

「そういや、やったこともないのにサッカーがしたいなんて言ってたのも、きみの兄さんが理由だったっけ」

「はい。兄さんが得意だったので」

「なるほどねぇ」

 そうことだったのかと、荒木先生は茶色く染まった自分の髪をなでた。

 その顔はやれやれと呆れているようでもあり、つまらなさそうでもあり、そしてどこか白けたような感じにも見えた。

「わかった。そういうことなら教えてあげるとしますか」

 やがて先生はそう言って、一息を吐いてから椅子に座り直した。

 だけどその視線は教科書の方ではなく僕に向けられていた。

「ところで、そういったことを俺に頼んだのは、俺がきみの兄さんに似てたりするからかい?」

「……似てはいないんですけど、共通点はあるって感じで」

「ははぁ、つまりその共通点ってのは、要領がよくて人気者で、いわゆるクラスカーストが上位っぽいところ?」

 ずけずけと、よくまあ自分でそんなこと言えるものだと思いながらも、僕はこくりと頷いた。

 実際、先生の言っていることは的を射ていた。ただ、もし先生が同じクラスにいたとしたら、僕としては苦手なタイプだったと思う。兄さんにはそういった感じがなかった所は大きな違いだ。

「なるほど、きみはそんな風に俺のことを見てたわけね」

「……もしかして、違ってましたか?」

「いや、違ってないよ。実際俺は優秀で女子にもモテモテのカーストトップリア充だったし」

 自分で自分をリア充って言う人は初めて見た。

 ここまで明け透けだと、逆に清々しくなってくる。事実、先生にはそういった自称が許されるような雰囲気はあった。

「先生の学生時代ってどんな感じだったんです?」

 基本的に他人に興味を抱かない僕だけど、なんとなく空気に押される形でそんな質問をした。

 自画自賛しながらも、どこかつまらなさそうな顔をしていた先生が印象的だったからかもしれない。

「あ、そういうこと訊いちゃう? 俺はとある大病院の院長の息子でね、生まれた時からのエリートなわけよ。小中高も当然名門私学。しかも俺は生まれつき優秀すぎちゃってね、頭もよければ運動神経もあるときた。成績はトップクラスでバスケ部のエースなんかしたりして、外見もいいから女子からモテすぎて困ったくらいだよ。彼女がいなかった時期なんてなかったし、修羅場も何度かあったなぁ。俺を巡って女の子同士がバトっちゃってさ、いやぁモテモテなのも考えもんだったね。なのに成績は下がらないし大会で活躍したりするわけだから、他の男も嫉妬を通り越して俺には尊敬の念しかなかったな。つるむ連中も似たようなグレードのやつらだったから、さながら俺のいる場所が学校の中心みたいな感じだったよ」

 へらへらと笑いながら、そんなとてもじゃないけど自分の口から言うべきことじゃない内容を話す先生に、僕は唖然とする。

 しかもそこにはまるで自慢げな様子はなく、むしろ客観的に事実を語ってるだけといった感じがまたすごかった。

「当たり前のように難関医大も一発合格。そこでまたみんなの中心みたいな感じになってたんだけど……その時くらいにあいつに出会ったんだったな」

「あいつ、とは?」

「夕陽。瀬戸夕陽、先生だ」

 荒木先生はいつの間にか笑みを引っ込めながらそう答えた。

 瀬戸先生……そういえば荒木先生は瀬戸先生に妙に馴れ馴れしい感じだったけど、同じ大学出身だったのか。

「同級生だったんですか? 瀬戸先生と」

「ん? ああ……あいつと出会って……それからまあ、なんやかんやあって、今はこの病院に勤めてるってわけだ」

 荒木先生はそう話を締めくくったが、なんだか急に端折ったような感じがしたのは気のせいだろうか。

 てっきり大学でも華々しい生活を送ったことなんかを語られると思ってただけに、なんだか肩透かしを食らったみたいだった。別にそんな話を聞きたかったわけじゃないが。

 ……でも、そういえば先生はとある大病院の跡取り息子のはずではなかったっけ?

 なのに今はどうしてこの病院にいるのだろう。研修、とかだろうか。

「…………」

 しかし荒木先生は、不意に黙り込んで物思いにふけっている様子だったので、そのことについては訊けなかった。

 どうしたんだろうと思っていると、先生は急に「そういえば」と言って、僕の方を向き直った。

「きみは毎晩のようにあの子に付き合ってるんだってね」

「あの子って、夜のことですか? 付き合ってるっていうか、付き合わされてるって感じですけど」

「どうしてなんだい?」

「なにがですか」

「気の進まなさそうな感じで言ってるけど、どうしてあの子に付き合ってあげてるんだい? もしかして、好きになっちゃったとか?」

 最初それを聞いて、何を言ってるんだこの人はと思った。

 あれだろうか。こういうリア充を自称できる男性は、女性と見るとまずはそういう視点になるのだろうか。

 僕は馬鹿なことを言わないでくださいと、若干辟易としながら言い返そうとした。だけど荒木先生の顔には笑みは浮かんでおらず、からかうような気配もまるでなかった。

「そんなのじゃないですよ。ただ、なんとなく彼女に押し流されてるだけです」

 だから僕は正直にそう答えた。しかし先生は納得いかないとばかりに首を振った。

「それだけじゃないだろう。見たところ、きみはあんまり人付き合いが好きなタイプじゃない。それがたとえ可愛い女の子相手でも、基本的に一人でいる方を好む。なにかしらの特別な事情でもあるんじゃないのかい?」

 それは実に的確な人物評だった。僕の性質というものを正確に読み取っていて、少し驚いてしまった。

 確かに先生の言う通り、夜がどれだけ押しが強くて無遠慮な子だったとしても、それだけなら相手にしようとは思わない。たとえ流されても迷惑だという無言の意思表示はするし、おそらくそれは相手に伝わって自然と離れていってくれるだろう。

 しかし、僕が夜相手にそうしないのは、確かに夜に対する特別な事情によるものだ。

 その事情というのは、やはり彼女が待つ移植手術のことを知ってしまったというのが大きい。

 手術を待つ夜が、手術を終えた僕にこだわる。そのことの意味を考えると、時に鬱陶しいと思うことはあっても、僕にはどうしても彼女を邪険にはできない。

 ただ、その明確に言葉にできない感情を、好きだのなんだのといった下世話な次元で見られるのはごめんだと思った。僕は夜に対してそんな感情を抱いたことはない。

「それも、兄さんみたいになりたいからですよ」

 だから、変な誤解を避けるため僕はキッパリとそう返した。

 兄さんだったらきっとこうするという考えがなければ、他人に興味のない僕は夜と関わろうとなんて考えもしない、はずだ。

「……なんだって? どういうことだい?」

「兄さんも先生みたいに女子からモテました。女の子の気持ちをよく理解して優しかったからですよ。僕が夜の相手をしてるのも、そういう人間になりたいと思ってるからです。個人的な理由はありません」

 僕のその答えに、荒木先生は最初怪訝そうな顔をしていた。

 けれどすぐにふっと肩の力を抜くと「なるほどね」と言ってまたいつも通りの軽薄な笑顔に戻った。

「そういうことなら、まあがんばってくれ。応援してるよ」

 それはどこかおざなりな感じに聞こえたが、僕はこの話題が終わったことにホッとして「はい」と答えた。

「さて、じゃあ要領のいいやり方を教えてやるとしますか。勉強なんてテストに出るところ以外はやる必要なんてないんだから、いかに無駄を省くかが重要だ」

 荒木先生は教科書の覚えるべきところにだけ次々と線を引いていく。

 その後もしばらくの間、先生は僕の勉強に付き合ってくれたけれど、やっぱり暇なのかという疑問については、結局口に出すことはなかった。

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