3-4

「ま、いっか。カイにはいつか必ず言ってもらうから、とりあえずこの場では引き下がっておくよ」

「よくまあそんな自分勝手すぎる宣言ができるね。しかも本人の目の前で」

 間もなく、夜はまたパッと笑顔に戻った。本当に感情表現のオンオフがハッキリしてると思う。

「カイのお兄さんの話が聞けたから、私は満足なんだよ」

「そりゃよかったよ。そのまま満足しながら自分の病室に戻ってもらっていいよ」

「何言ってるのカイ。そんなもったいないことできるわけないよ。まだ時間はあるんだから、質問タイムは続行だよ」

「質問って……罰ゲームは今したじゃないか」

 僕が訝しんでいると、夜はえへへーとちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「でもカイはさっき、罰ゲームじゃなくても質問に答えるって言ったよね」

 確かにそうは言ったけど、今度こそ本当にもう質問されるようなことは残ってないはずだ。完全に出し尽くした感がある。

 しかし夜は戸惑う僕を見て、自信満々にこう続けた。

「私達は日々生きてるんだよ。だったら情報も更新される。というわけで、カイの今日あったことを教えてよ」

 僕はそれを聞いて呆れてしまう。よくもまあ、なんだかんだとひねり出せるものだ、と。

 これまでも変な質問はあった。今まで蚊に噛まれた回数は? とか。そんなの聞いてどうするんだと思ったけど、夜は僕に質問すること自体が楽しいらしく、中身は二の次なのかもしれない。

 それに比べたらこの質問はまともな部類とはいえ、病院での生活なんて代わり映えのしないものだから、あえて答えるような内容なんてないのに。

 いつも通りリハビリをしたくらいで――と、そこで僕はあることを思い出した。

「……そういえば、今日はきみの担当医に会ったかな」

「担当医って?」

「瀬戸先生。夜を診てるんだろ?」

 首を傾げる夜にそう訊ねると「あー」と頷いた。

「セトに会ったの? カイが? なんで?」

「なんでといわれても、リハビリしてたら向こうから訪ねてきたんだよ」

「へー、そうなんだ。何か用事でもあったのかなぁ」

「別にそんな感じじゃなかったよ。ただ単に、きみがこうして夜な夜な会ってる相手を知りたかったんじゃないの」

「あ、なるほどね。セトにはカイのことを色々話してるから、気になっちゃったのかも」

「いろいろって、僕のことをどんな風に言ってるの?」

 僕は若干嫌な予感を覚えつつ訊ねた。

「カッコよくてや優しくて温かくて、一緒にいるとすごく楽しくなる男の子だって話してるよ」

「……とんでもない逆風評被害だね」

 とても僕のことだとは思えないその形容。誰それ知らない人ですねって感じだ。

 こんなあからさまな人物評を真に受ける人などいないだろう。実際瀬戸先生も僕に会った時はそんな様子じゃなかったし。

 夜の性格的に、冗談にいちいち付き合ってられないってことは先生もよく知っているんだろう。夜が先生を呼び捨てしているところをみると、結構親しい間柄のようだし。

「それで、カイはセトとどんなお話をしたの」

「……別に、僕の顔を見に来ただけって感じだったから」

 夜の質問に、僕はほんの少しだけ逡巡してからそう答えた。

 事実、瀬戸先生は僕の顔を見にきただけっぽかったけど、その後偶然話をする機会があって、そこで夜の病状について訊ねたことは言わないでおこうと思った。これ以上、夜にからかわれるようなネタを提供する必要はない。

「ふうん、そうなんだ。じゃあ他には、カイは今日どんなことしてたの?」

 幸い夜はそれ以上追及してこず、早々に話題を換えた。

「いつも通りのリハビリだよ」

「リハビリってどんなことしてるの?」

「関節を曲げる体操をしたりマッサージをしてもらったり。でもメインはやっぱり歩行訓練かな」

「歩行訓練? 歩く練習?」

 事故では主に腹部以下に大きなダメージを負った。兄さんから移植を受けたのもその部分だ。だからリハビリも足がメインになる。

 先生曰く、内臓の方は完璧に定着していて何の問題もないらしい。ただズタズタになった筋肉の方は放っておいただけではダメで、動かすことに慣らしていかないといけない。歩くという行為は全ての基本だから、まずはそれを違和感なくこなせるようにならないと始まらない。

「本当は飛んだり跳ねたり走ったりしたいところだけど、段階を踏まないといけないから」

 僕は自分がサッカーをしているところを考えながらそう言ったが、上手くその姿を想像できなかった。

「……わかってるんだけど、やっぱり気がはやるな……」

「カイは早く動けるようになりたいの?」

 焦れた気持ちから出た呟きに、夜が反応する。

「それはそうだよ。できるならもっとリハビリをこなして早く元通りになりたいと思ってる」

「じゃあ、今からしようよ」

 その言葉に、僕は「え?」と夜の顔を見た。不意に会話が明後日の方向に飛んでいったような感じだった。

「今からするって、何を?」

「だから、カイの歩行訓練だよ。もっとリハビリしたいって今言ったでしょ」

「確かにそうは言ったけど……なんでまた、急に?」

「だって私、カイがリハビリしてるところ見たいし、お手伝いもしたいもん。だから今からしようよ」

「……夜は本当にストレートだね。ストレートすぎるよ」

「それに、いっぱい訓練した方が早く動けるようになるでしょ?」

「それは……」

 即座に答えられなかった。

 荒木先生は無理をするなと言っていたし僕もそれには納得していたのだけど、それでも焦れる心が反論するのを抑えた。

「だから、今からやろ。私もカイのお手伝いするから」

 そんな心の隙を突くように、夜がしきりに勧めてくる。その動機は僕のためというより興味本位って部分の方が強いと思うけど、それでも魅力的な提案に聞こえてしまっている時点で僕の負けだった。

 僕は一刻も早く動けるようになりたかった。一刻も早く兄さんの代わりになりたかったのだ。

「……わかったよ」

 僕が頷くと、夜は「やったぁ」と飛び上がった。

「じゃあ早く行こう。そうと決まれば時間がもったいないよ」

 そして僕の手を掴むと、早く早くと引っ張り始めた。

「ちょっと待って。行こうってどこにさ。リハビリするんじゃないの」

「だからリハビリに歩くんだよ。病院内を歩くの。私と一緒にお散歩だよ」

 てっきり病室の中で歩行訓練をするものだとばかり思っていた僕は、それを聞いてビックリした。

 でも、確かに室内で延々と歩き回るよりは散歩っていう形の方がいいかもと思ってしまい、気づいた時には僕は夜にベッドから引っ張り出されていた。

「おっ、と……やっぱりまだまだ思う通りには動かないな……」

 僕は立ち上がりながら、ガクガクと震える自分の足に顔をしかめた。

「大丈夫だよ。私がちゃんとカイを支えてあげる」

 すると、夜が僕の右腕を自分の肩に回して言葉通り支えてくれる体勢になった。

 なにかと距離の近い夜だけど、こんな密着体勢になったことは今までなかったので、僕は思わず夜の顔を見た。

「ん? どしたのカイ?」

「……なんでもない。突然だからちょっと驚いただけ」

 動揺している僕に対して、夜はなんでもないといった感じでいつも通りの笑顔を返してきた。

 なんだかこっちだけ意識するのも癪だったので、僕もすぐになんでもないと思うようにした。下手なことを言ったら、どうせまたからかわれるに決まってるし。

 僕が「ありがとう」と言うと、夜は「どういたしまして」と返した。

「あ、そんなの別にいらないよ。私がいるし」

 歩き出す前に僕が点滴台に手を伸ばすと、夜は不満そうに唇を尖らせた。

 どうやら自分がいるのに杖代わりに点滴台を持っていくことに不満らしい。

 とはいえ勝手に外すわけにもいかないし、気まぐれで夜が僕を放り出した時の保険にも持っていかないわけにはいかなかった。

 僕は左に点滴台、右にぶーぶーと抗議の声を上げる夜を引き連れて、病室から出た。

「大丈夫? 痛くない?」

 二、三歩歩いたところで、夜が僕を見上げるように訊ねてきた。

 まだまだ身体は自由に動かないけど、痛みの方はもうかなり引いていたので、僕は大丈夫と答える。

「元気になってきてるんだね。生きててよかった?」

「ことあるごとにそう言わせようとするの、やめてくれない?」

 もはやお馴染みのやり取りを軽く流しながら、夜に訊ねる。

「それで、散歩って話だけどどこにいくの」

「適当にぐるっと回ろうよ。カイと一緒に歩くのが目的なんだし」

 ようするにノープランということらしかった。とはいえ歩行訓練という意味ではその通りなので、特に文句もなかったけど。

 僕達は適当な方向へと歩き出した。夜中にこうやって病室を抜け出すのはあの日以来二度目だったけど、今回は前回と違って深夜の病院を観察するくらいの余裕はあった。

「夜の病院って大抵は不気味なイメージで語られるけど、実際はそうでもないよね。僕が入院生活に慣れただけかもしれないけど」

「そうなの? 夜の病院に不気味なイメージなんて、私には全然ないけどなぁ」

 記憶のない夜にはこの病院が全てだろうから、マイナスなイメージなんてないのだろう。

 そう思ったけど、僕はあえて口には出さなかった。その辺りのことはなんとなく触れてはいけない話題のように感じられたからだ。

「あ、そうだ。今は私がカイの案内役なんだから、この病院についてなんでも訊いていいよ」

 だけど夜はそんな僕の気持ちなど盛大に無視する発言をしてきた。

 いつ案内役に就任したのかなどのつっこみどころはともかく、その言い方があまりにも屈託がなかったので、僕は一人で気をつかっていたのがバカバカしくなった。

「……ここって移植手術を待つ子供達専用の病院だって聞いたけど」

「そうだよ。移植手術の中でも普通の病院じゃ対応が難しい特殊なケースを扱ってるの」

「特殊なケースって?」

「今までにない症例だったり、手術自体が難しい場合だったり」

 なるほど、僕の場合は一卵性双生児の移植という意味で前者なわけらしい。

 ……夜の場合はどうなんだろう。後者だったりするんだろうか。

「そういうのに対応するために、ここは病院であると同時に研究機関でもあるんだ」

「研究機関?」

「そう、臓器移植とか再生医療の最新技術を日々研究するための施設なんだよ。ほら、ここから見えるあれが研究棟」

 夜がちょうど通りかかった窓を指さすと、中庭の向こうに無機質なコンクリート製の二階建ての建物が見えた。

 前から何の建物なんだろうと思ってたけど、そういうことだったのか。

「今私達がいる方は病棟だよ。残念だけどあっちは立入禁止だから、お散歩には行けないよ」

「別に行きたいと思ってないよ」

 夜のことだからあそこに探検に行こうとも言い出しかねないと考えていただけに、内心で安堵する。

 僕達は再び歩き出した。夜がしきりに話しかけてくるのであまり意識していなかったけど、ふとした拍子で話が途切れたりすると途端に深い静寂がやってくる。

 そうすると一瞬の間、まるでこの世界に二人ぼっちにでもなってしまったかのような感覚に襲われるが、もちろんそれは錯覚だ。昼の間に時折見る他の患者は、今は静かに自分達の病室で眠っているはず。

「そういえば、他の入院患者ってどれくらいいるの」

 ふと気になって、僕はそんな問いを口にした。

「さあ、そんなに多くないはずだよ。入ってる病室の数もそんなにないって聞くし」

 すると夜にしては珍しく曖昧な答えが返ってきた。

「詳しくは知らないの?」

「カイは知りたいの?」

「そういうわけじゃないけど……」

 ただ、ずっとこの病院にいるにしては知らないというのも妙だなと感じただけだ。

「入院患者とはなるべく接触しないようにって言われてるから」

 すると、夜が不意にそんなことを言い出したので、僕は弾かれたように振り返った。

「セトに」

「……どうして?」

「さあ? 私もよくわからないよ」

 特段気にした風もなく、夜は軽く答えた。

 どういう意図で瀬戸先生は夜にそんなことを言ったんだろう。やっぱりそれは、夜の置かれた特殊な状況によるものだろうか。

「でも、待ってよ。夜は入院患者である僕に、こうやってガッツリ接触してるじゃないか」

「あ、そうだね。密着しちゃってるね今」

「そういう意味じゃなくて。ほぼ毎日病室に訪ねてくるし、思いっきり知り合いになっちゃってるけど、いいの?」

「別にセトからは何も言われてないよ? カイのことはちゃんと話してるし、いいんじゃないかな」

 やっぱり軽い。

 それはともかく、じゃあなんで瀬戸先生は他の入院患者との接触禁止なんて言ったんだ。

 ……万が一の場合の別れが辛くなるからとか? でも僕はもう手術が終わったから特別? それもいまいちピンとこない話だけど。

「もしかして、夜の秘密に関することかもしれないね」

 僕はやっぱりよくわからなかったので適当にそう言うと、夜は「そうかも?」と首を傾げた。

「だとしたらごめんね。誰にも言っちゃダメだって言われてるから」

「別に流れに乗じて聞き出そうとしてるわけじゃないよ。それも瀬戸先生に?」

 その問いに夜は「うん」と頷く。担当医に口止めされている秘密ということは、やっぱりそれは病状についてのことなのだろう。

 さすがに訊ねるわけにもいかず、僕は気になりつつもこの話題を流すことにした。

「ああでも、カイには教えたいなぁ。友達だし、仲良しだし」

 だというのに、夜は一人でうずうずしている。勝手に話し出されても困るので釘をさしておくことにした。

「教えなくていいよ。それで瀬戸先生に怒られることになったらたまらないからね」

「なんで私が話すのにカイが怒られるの?」

「無理矢理聞き出したって思われるかもしれないじゃないか。それに、そうでなくても夜は怒られるだろ。僕のせいでそんな形になるのは嫌だからね」

「そっかぁ、カイが嫌なら仕方ないね」

 うんうんと、理解したのかしてないのかよくわからない反応の夜。

 天才的な頭脳を持ってるはずのくせに、こういう時は天然っぽく見えるから計り知れない。

「あ、あれが屋上へ続く階段だよ。ちなみに屋上は立入禁止になってるね」

「それは知ってる」

「え、なんでカイが知ってるの?」

「一応僕も病院内は一通り見て回ったからね」

 実はリハビリが終わった後も、自分の病室に戻る前に自主練習も兼ねて毎日院内を散策していたことを明かす。

 といってもまだ一人で動ける範囲は限られているので、毎日少しずつしか見て回れなかったのだが、それでも荒木先生に訊いたりもして大体どこに何があるかは把握できていた。

「えー、なにそれ。せっかく私がカイを案内してあげようと思ってたのに、ひどいよぉ」

「そんなこと言われても困るんだけど。そもそも今やってるのは歩行訓練であって、道案内じゃないでしょ」

「案内ついでのリハビリだよ」

「勝手に主旨を変えないでよ。僕は歩ければそれでいいんだから」

「そんなのつまらないよぉ。あ、そうだ、カイが忘れてくれればいいんじゃない? はい忘れて。で、あそこが図書室だよ」

「無茶苦茶なこと言わないでくれる? 僕の記憶はオンオフ式じゃないんだけど」

 夜は不満タラタラで、それでも案内を続けていく。

 この辺りで、どうやら夜は遊びたかったのだなと気づく。僕のリハビリ熱に乗じての案内ごっこってやつなのかもしれない。

 なんにせよ適当に付き合うしかないなと思った。すると夜はすぐに機嫌を直してしまった。こういう時、彼女は本当に小さな子供のように見える。

「ここが入院患者用の病室が並んでるところだよ。この一画は一階からずっと同じような構造だよ」

「さすがに自分の病室のあるところだからわかるよ」

 僕はやれやれと首を振りつつも、改めてそう言われるとここには他の入院患者もいるんだなということに思い至った。

 廊下の壁にいくつものドアが並んでいるのが見える。その最も遠い端が僕の病室のそれだ。けれど手前にあるドアの中にも、今もどこかの臓器移植を待つ子供達がいるのだ。半分くらいはネームプレートのない空室だけど、もう半分には確実に。

「……夜は、ここに入院してる子達の理由とかは知ってるの」

 気がついたら、僕は夜にそんな質問を投げかけていた。

 どこか場違いな感じがするのに、僕もまたこの空間の一員であることへの違和感がそうさせたのかもしれなかった。

「聞いたことはあるよ」

「会ったことは?」

「ないかな。さっきも言ったように接触しないよう言われてたから。でも、いくつかはセトから聞いてるよ」

 肝臓、腎臓、膵臓、胃腸。

 夜はさまざまな臓器の移植を待っている子供達がいると語る。

 その中のいくつかは、僕も兄さんから移植された箇所だった。

「それと心臓移植を待ってる子も一人いるって」

「きみも合わせれば二人だろ」

 夜の他にも心臓の移植を待っている子がいるのかと、僕は少し驚いた。

 夜はその子に会ってみたいとか考えないのだろうか。同じ境遇にいる人間として。それとも、夜は心臓移植を待つ身としてもさらに特殊な立場にいるのか。

「……そろそろ戻ろう。自主的なリハビリはこれくらいでいいや」

 けれど僕はすぐに考えのをやめ、そう言って自分の病室へと歩き出そうとした。

 考えても仕方がないし、考えるべきことじゃないと思ったからだ。

「えー、もう? まだまだ案内するところは残ってるよ。もうちょっと歩こう」

 けど夜は案内――もとい遊び足りないらしく、その場から動こうとしない。身体を支えられている僕としては、そうなったら動くに動けない。

「遊ぶならまた病室に戻ってトランプなりなんなりすればいいじゃないか」

 だから僕は仕方なく折衷案を出す。正直に言うとそろそろ眠りたいところだったけれど、それで納得してくれる相手でもなかった。

「む、トランプも魅力的だけど……。でもやっぱり今はカイと一緒にお出かけしたい」

「もはや僕のリハビリを手伝うっていう口実さえ消し飛んでるね」

 しかし夜は納得した様子がなく、いやだいやだとごねていた。

 僕はどうしたものかと途方に暮れる。こうなった以上、自分の意思が薄弱な僕としては流されて付き合うしかないのかもしれない。

 一方で、こういう時兄さんなら毅然と対応するんじゃないかという考えもあり、けど兄さんなら女の子相手にもっと上手くやるだろうから、僕もなんとか夜をなだめすかして納得させるべきなんじゃないかと、そんなことを考えていた時だった。

「うわっ?」

 不意に右半身の支えが弱くなり、僕は危うく倒れ込みそうになる。

 なんとか踏ん張って堪えながら隣を見ると、夜もまた僕と同じように膝を折る姿勢をとっていた。その顔は時折見せるあの無表情で、目には光がない。

「……どうしたの夜?」

 僕がゆっくりと訊ねると、夜はしばらく何の反応も見せなかったが、やがてハッと我に返った様子で僕の方を振り向いた。

「……あ、ごめんね。また意識が……ったくもう、なんてタイミングなの」

 すっかりいつも通りに戻った夜は、そう言って自分で自分に腹を立てていた。

 僕はホッとしつつも、時々夜が見せるさっきのような姿を訝しんでいた。あの意識が不意に消えてしまったかのような瞬間。あれもまた、夜の病気に関係しているのかもしれない。

「……さっきのは何なの。時々ああなるよね」

 恐る恐るながら、僕はそう訊ねる。触れてはいけないことなのかもと思いつつ。

「ん……時々ああやって急に眠くなるんだ。なんだかだんだん眠気が来るのが早くなってきてるし……ああもう!」

 だけど夜は気にした様子もなく、憤りを見せながらそう答えた。

 詳しい説明にはなっていなかったけど、それ以上踏み込んだことは、僕には聞けなかった。

「……ごめんカイ。そろそろ私、戻らないと」

 やがて夜は、不承不承いった感じながらそう言った。

 本当なら大歓迎なところだけど、さっきの姿を見た直後ではそんな楽観的な反応はできなかった。

「本当はもっとカイといたいけど……でも階段を下りてる時にさっきみたいになったら困るしね。今日はもう戻るよ」

「困るどころか大惨事になるからそうしてほしいけど……」

「けど、なに? あ、もしかしてカイも私と離れたくない? 心、通じてるねっ」

「僕はそんなこと思ってないよ。勝手に変なところとつなげて盛り上がらないで。そうじゃなくて、夜は一人で大丈夫なの」

 さっきみたいな姿を見せられると不安になる。

 階段の話も、夜一人でも起こり得ることだ。今まで深く考えてこなかったけど、実際にああいう場面を体験すると怖くなってきた。

「ん? 別に大丈夫だけど、どういうこと?」

「……いや、なんなら僕もきみの病室まで一緒に行こうかなって……」

 自分のキャラにまるで合ってないその台詞に、思わず歯切れが悪くなる僕。

 でもすぐに、兄さんならきっとこの場面で当たり前のようにこう言うはずだと思い直した。

「え、カイが私を送ってくれるの? やったぁ。じゃあ早く行こう」

 夜はその言葉に、うれしそうにまた僕の右半身を支え始めた。

 さっきまでの不満そうな気配は今はもうまるで感じられない。現金なやつと思いながらも、僕は自分の提案が受け入れられたことにホッとしていた。

「えへへー、カイのエスコートだねぇ」

「この姿勢だとエスコートされてるのはどう見ても僕だけどね」

「ねえカイ、送り狼って言葉知ってる?」

「なんで今その単語を出すの? 状況と全然関係ないよね?」

 そんな意味不明な会話を交わしつつ僕達はまた歩き出したわけだけど、すぐにある違和感に気がつく。

 なぜか夜は病室のある一角とは反対方向に行こうとしているのだ。僕はてっきり、夜の病室もその辺りのどこかにあるとばかり思っていた。

「ねえ、どこに向かってるの。もしかして違う階だから階段に向かってるとか?」

「何が?」

「夜の部屋だよ。そういえば僕、きみの部屋がどこにあるのか知らない」

 僕がそう言うと、夜は「そうだったっけ?」とキョトンとしつつも、こっちこっちと歩き続けた。しかしその方向は、僕達入院患者のいる部屋とは全くの逆方向だった。

 この病院は建物の中央に階段と事務室があり、一方に入院患者用の病室、もう一方に診察室や処置室といった場所が存在する構造になっていた。

 夜が向かっているのは後者の方向だが、どういうことなんだろう。

 僕が疑問に思っていると、やがて夜はよくわからない部屋が並ぶ奥まった一角へと足を進めた。そこは窓もなく、薄暗い電灯だけが唯一の明かりになっているような場所だった。

 その時、僕は最奥にあるドアの前で誰かが立っているのが見えた。近づくにつれてその人影が誰なのかハッキリと見えてきて、思わず「あっ」と声をあげた。

「瀬戸先生……?」

「……進藤君? きみがどうして……」

 向こうも僕の姿を認めて、訝るように眉をひそめている。

 状況を把握しようとするように、僕とそれを支える夜に交互に視線を向けていた。

「ただいまセト。カイに送り狼してもらったんだぁ」

 そんな中、夜がまるで空気も読まずに不穏な単語を平気で口走ったので、僕は焦るよりも呆れてしまった。

「狼はいらないでしょ。本当に意味がわかって言ってるの」

「もちろんわかってるよ。カイの慌てる顔が見たかったの。もうちょっと慌ててもいいんだよ?」

「そういう意図が透けて見えるから、残念ながらいちいち慌てたりしないよ」

「でもちゃんと反応してくれるんだからカイはいい人だよねぇ。えへへー、楽しいなぁ」

 夜はえへえへと笑いながら、憎たらしいことを上機嫌で言った。

 正直なところ結構イラッとしたけど、それを表に出したらまた夜を喜ばせるだけだし、それに瀬戸先生の前でそんなやり取りなど見せられなかった。

 僕は夜を努めて無視して、瀬戸先生の方へと向き直る。だけどその時、先生が驚いたように目を見開いているのに気がついた。その視線は、僕の隣ではしゃいでいる夜へと真っ直ぐ向けられていた。

「あの、先生は夜を待っていたんですか?」

 そう訊ねると、瀬戸先生は我に返った様子でこちらに向き直り「ええ」と頷いた。それでもともすれば、視線は夜の方へと向きがちだった。

「こんな時間まで大変ですね」

「その子の担当だから」

 だから仕方ないといった口調だったが、僕の担当の荒木先生はそこまでしてくれはしない。

 それに、この一般の病室からかけ離れたような一画。

「……ここは夜専用の病室か何かですか?」

「そんなところかしらね」

 結構突っ込んだつもりの質問に、瀬戸先生は曖昧に頷いた。否定しなかったことで、僕の想像は間違っていなかったことがわかる。

 ここは夜専用の病室で、つまり夜はそんなものが必要な特別な患者だということだ。薄々わかっていたことだけど。

「この子を送ってくれたのね。ありがとう。さあ、あなたは早く休みなさい」

 瀬戸先生は僕にお礼の言葉を述べた後、夜に部屋に入るよう促した。

「……もうちょっとカイと一緒にいたい」

 けど夜は、ここでもまだ不満そうに拗ねた表情を見せる。

「もうそろそろ限界だから戻って来たんでしょう?」

 それに対し先生は、叱るでもなだめるでもなく、淡々とした口調でそう返した。

 夜は「むー」と膨れながらもコクリと頷き、渋々僕から離れる。先生はそれを見てそっとドアを開けた。僕のいるところからは中は見えなかった。

「じゃあねカイ。また明日、絶対会おうね」

「それは明日も絶対訪ねてくるってことだよね」

 僕が肩をすくめると、夜は「うんっ」と元気よく頷いてから、ドアの隙間に消えていった。

 瀬戸先生はそれを確認してから、自分は廊下に残ったままドアを閉めた。てっきり夜と一緒に部屋に入ると思っていた僕は、ちょっと意外だった。

「……あんな我儘を言うとは思ってなかったわ」

 先生は独り言のようにそう呟いた。しかしこの場に僕がいるとわかっている以上、それは僕に向けられた言葉だった。

 もしかして、僕は今責められているのかもしれない。僕と付き合うようになってから我儘を言い始めたという意味だとしたら、なんて答えるべきなのだろう。

「あの、僕からも注意した方がいいんでしょうか……?」

 遠慮がちにそう訊ねると、瀬戸先生はハッとした様子で顔を上げて僕を見た。

「ああ、ごめんなさい。あなたに言ったんじゃないの」

 どうやら、さっきのは本当に独り言だったらしい。先回りで見当違いな予測をしたことが恥ずかしかった。

「……そろそろ、僕も自分の部屋に戻ります」

 僕は気まずい気分を誤魔化すようにそう言って、踵を返そうとした。

 けれどその時、瀬戸先生が「待って」と僕を呼び止めた。そして何かに迷うような表情を一瞬見せた後、こう続けた。

「進藤君……あなたの目から、あの子はどんな風に見える?」

「え?」

 突然のそんな問いかけに、僕は面食らってしまった。

 どうして瀬戸先生がそんなことを訊いてきたのかわからないけれど、僕はその視線の強さに圧されて答えざるを得なかった。

「どんなと言われても……確かに夜は色々変わってますけど、それでも全体として見れば普通の女の子なんだと思いますけど……」

 我ながらふわふわしてるなと思いながら、僕はなんとかそう答えた。

 正直「変わってる」の部分の比重はかなり大きいけど、それでもやっぱり普通の女の子という形容が一番しっくりきた。というか、それ以外どうとも答えられない気がする。

「…………そう」

 瀬戸先生は僕の答えに、どこか遠くを眺めるような目で静かに頷いた。

 僕にはその反応がどういった意味を持つのかわからない。というか、そもそも質問の意図さえわからなかった。

「どうして急にそんなことを訊くんですか」

 だから思い切ってそう訊ねてみたのだけど、瀬戸先生はふっと小さく息を吐いた後、また何の感情も浮かんでいない顔になって、

「別に深い意味はないわ。あなたがあの子と仲がいいみたいだから訊いてみただけよ」

 そう言って「おやすみなさい」と残した後、夜の病室へと入って行った。

「……答えになってないような気がする」

 一人残された僕は思わずそう呟いたけど、だからといってどうすることもできなかった。

 僕は少しの間、夜の病室のドアを眺めていたが、やがて自分の病室へと戻るべく、点滴台に体重をかけた。

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