3-2
昼の病院内を歩いていると、当たり前のことだけど夜中とは違う印象を受ける。
ただ、静けさという意味ではあまり変わりがなかった。人はいるけれど、話し声の類はほとんど聞こえてこない。
見かけるのは医者と看護師と患者の子供達だけ。その全員が、一様に何かに耐えるように押し黙りながら、静かに移動をしている。
僕が見た範囲では、子供達はみんな僕よりも年齢が下な子ばかりのようだった。大抵は車椅子に乗って、付き添いの看護師と一緒だった。彼らはみんな臓器移植を待つ身で、その過酷な運命が子供らしい快活さを封じ込めているのだろうと思われた。
そういう雰囲気に合わせてか、すれ違う医者や看護師達もどこか重い雰囲気をまとっていた。何かに耐えるように俯きがちで、その姿勢はまるでこの病院の重さをその身体に背負っているようにも見えた。
そんな中、僕は一人回復への道を歩んでいる。疎外感を抱く必要はないけれど、自分が部外者であるということを感じずにはいられなかった。物置部屋でリハビリさせられるのも、やむを得ないことなのかもしれなかった。
「あ……」
その時、ふと目をやった方向にさっき見たばかりの姿を発見して、僕は思わず小さく声をあげた。
そこは小さな休憩スペースで、いくつかの椅子と飲み物とアイスクリームの自動販売機が置かれた一角だった。
そのすみの方で、瀬戸先生はコーヒーの入った紙コップを片手に一人で座っていた。表情のない顔でジッと虚空を見つめ微動だにしないその姿は、まるでそういった形の彫像に見えた。
気がついたら、僕はその方向へと足を進めていた。夜の担当医という言葉が頭の中に残っていたからだ。
「あの……」
僕が声をかけると、瀬戸先生は物憂げな動作で顔を上げた。心ここにあらずといった感じだったが、僕の姿を見た途端「あぁ……」と少しだけ目を見開いて、何とも言えないリアクションを返した。
「すいません、隣、いいでしょうか」
僕は緊張しながらそう言った。元来僕は誰かに話しかけるのがあまり得意じゃなかったけど、年上の女性となると普段から接点がないだけになおさらだった。
「……どうぞ、かまわないわ」
けれど瀬戸先生はそんな僕の内心など知る由もなく頷いてくれた。相変わらず、その顔からはなんの表情も読み取れなかったけれど。
何か飲む? と訊ねる瀬戸先生に首を振ると、先生はまた何もない中空へと視線を戻した。沈黙が訪れ、手の中の紙コップは口をつけられることなく湯気を立て続けていた。
僕は瀬戸先生の横顔を見た。化粧気のあまりない、整った顔立ち。あんまりよくわからないけど、世間一般でいうところの美人と言っていい人種なんだと思う。けれどその表情に差し込んだ陰のようなものが、そういった美しさをのみ込んでいるように見えた。
何か、とても重い何かを背負っているかのような、そんな気配を感じさせる人だった。
もしそれが担当している患者の、夜のことだとしたら――
そう考えると、深入りしないと決めた心はあっさりと覆って、僕は瀬戸先生に話しかけずにはいられなかった。
「……瀬戸先生は夜を担当医をしていらっしゃると、荒木先生から聞きました」
やがて僕がそう切り出すと、瀬戸先生はピクリと身体を揺らして、ゆっくりとこちらへと向き直った。
「夜……」
「あ、夜っていうのはあの女の子のことで、僕が付けたあだ名です。本名は知りません」
「……ええ、聞いてるわ。あの子から、あなたのことは、よく」
瀬戸先生はそこで、初めて思い出したといったようにコーヒーを一口すすった。
「あ、僕は進藤海といいます。交通事故に遭ってこの病院に運ばれて……」
「進藤君のこともよく知っているわ。双子のお兄さんから臓器やその他の組織を移植されたのよね。……突然不躾なことを訊いて申し訳ないのだけど、あなたはそのことをどう思っているの?」
「……兄さんの命を奪ってしまったような気分になることは、時々あります」
「事故の原因はきみとは関係ないのに?」
それでも、兄さんではなく僕が生き残ってしまっていることに申し訳なさを感じずにはいられなかった。
けれどそのことは口には出さず、僕はただ無言で頷くにとどめた。
瀬戸先生は「そう……」と呟いて、また一口コーヒーをすすった。
「ごめんなさい。変なことを訊いたわね。許してちょうだい」
「いえ、大丈夫です」
「それで、私に何か用事でもあるのかしら」
「夜のことで、少し……」
僕がそう言うと、瀬戸先生はピタリと動きを止めた。身体を硬くして、次の僕の言葉を警戒しているようにも見えた。
「あの、別に夜のプライバシーに関することを教えてほしいわけじゃないんです」
僕は慌ててそう取り繕いながら、慎重に言葉を選んで続けた。
「……そうじゃなくて、知り合ってからほぼ毎日夜は僕のところを訪ねてくるんですけど、いろいろ話をしても夜がどういった人間なのか、いまいち掴めないと言いますか……」
僕は夜との毎晩のやり取りを思い返しながら言う。
あれから夜は、本当に毎日深夜に僕の病室へとやって来た。
といっても、やることはいつも同じだ。夜の遊びに付き合わされて、僕のことを根掘り葉掘り聞いてきて、そしてうれしそうな顔をしてはやがて時間だと言って帰っていく。
その過程で、新たにわかったことはあまりない。この病院は子供向けということで遊具室というのがあるらしく、夜がそこからトランプだのオセロだのといった玩具を調達してきていることや、やっぱり夜の頭は異常なほど鋭く、そういった遊びで僕が勝てる見込みはまるでないといったことくらいだ。
夜のことについて訊ねようと思ったことも何度かあった。でも結局それは実行できなかった。訊くべきじゃないという思いがブレーキとなり、質問が口から出なかったのだ。結果として、僕は一方的に個人情報を抜かれ続けた。語ることはそう多くはなかったけど、夜はおかまいなしに同じ話を何度も繰り返しせがみ、毎回楽しそうに聞いていた。
ただ面と向かって本人に訊く勇気がないだけなのかもしれない。だからこそ僕は今、瀬戸先生に夜のことを訊ねようとしているのかもしれない。
たとえ教えてくれはしないとわかっていても、少しでも夜という女の子の輪郭が掴めるならと、そんな淡い期待を抱いている自分がいる。深入りすべきではないとわかっていても、どうしても夜が気になる自分に、少し苛立つ気持ちもあった。
「あなたは、あの子のことをどれくらい知っているの?」
「……心臓移植を待ってるということと、この病院に来る前のことは覚えてないということ」
「そう、そんな話をしたのね……」
「あと、それから、すごく頭がいいってことくらいです。夜についてわかってるのは」
瀬戸先生は僕の話を聞いてわずかに俯いた。表情はうかがい知れなかったけど、唇を静かに噛みしめているようにも見えた。
僕は続けた。
「夜のこと、どういう人間なのか知りたいって気持ちは正直あります。でも、それは訊きません。ただ、不思議な子だなって思います。時々、この世の存在じゃないようにさえ思ったりも……バカな話ですが」
「そうでもないわ。もしかしたら本当にそういう存在かもね」
「……からわかわないでください」
「正体不明の存在なんて、この世界にはザラにあるんじゃないかしら」
「お医者さんって科学者でしょう? そんな非科学的なこと……」
「科学者ほどオカルトを信じるとも言うのよ。科学を突き詰めれば突き詰めるほど、科学では説明できないことにぶつかることだってあるから。……そんなの戯言だって思ってたけど」
瀬戸先生は言葉を切って首を振った。
「……ごめんなさい、おかしなことを言ったわ。今のは気にしないで。あの子はただの人間よ。間違いなくね」
「それは、わかってますけど……」
僕は戸惑いながら、瀬戸先生の様子に違和感を抱くとともに不安も覚えた。
瀬戸先生にとって夜はただの患者ではないような雰囲気を感じる。瀬戸先生は夜のことで深く悩んでいるようにも。
「夜の病気は、重いんですか」
気がつけば、僕はそんな質問を口にしていた。
口にして、結局僕はそのことが一番知りたかったのだと今更自覚した。
「病気?」
「心臓の、です。移植手術、失敗の可能性があったりするんですか?」
深入りするわけじゃない。深入りするわけじゃないけど。
でも、偶然こんな所で知り合った正体不明の女の子の命を心配するくらいはいいだろうと思った。
そうだ。もし僕じゃなく兄さんが夜に出会っていたら、きっとその病状を深く気にかけるはずだ。
だから今の僕のこの行動も、兄さんの代わりに生きていくという意味でごく自然なことなんだ。
僕は気がついたら、いつの間にか身を乗り出していた。瀬戸先生はそんな僕をただ黙って見つめていた。
どれくらいそうしていたかわからない。
けれど、やがて瀬戸先生の顔から一切の感情が消えた気がした。
さっきまであった苦悩の陰のようなものも今はもうなく、代わりにどこまでも冷然とした眼差しだけが僕を透かし見ていた。
「大丈夫よ」
瀬戸先生は紙コップを傾けて残ったコーヒーを一息で飲み干すと、不意に立ち上がった。
「あの子の手術は絶対に失敗しない」
そして空になった紙コップを握りつぶすと、それをゴミ箱に放り投げながら、瀬戸先生は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
「私はそのために全てをなげうってきたんだから」
それはとても静かな口調だった。瀬戸先生の決意がそのまま言葉になって表れたようだった。
「そう、ですか……。それなら、よかったです」
僕は先生の迫力に気圧されながら、かろうじてそう返した。
すると瀬戸先生はハッとした様子で、まるで僕がいたことを忘れていたといった顔を見せた。
「……ごめんなさい。私、そろそろいかないと。進藤君も自分の病室に戻りなさい」
「はい。すみません、お時間をとらせて……」
瀬戸先生はそれから僕と目を合わせることなく、足早に休憩コーナーから去って行った。
僕は小さくなっていく背中を見つめながら、さっきの先生の言葉を思い返していた。
大丈夫。失敗しない。そのために全てをなげうってきた。
それは夜の手術に対する強い決意の表れで、心配をする者にとってはこれ以上ないくらい頼もしい言葉だった。
だけど。
なぜだろう、漠然とした不安が依然として消えないような気がするのは。
僕は瀬戸先生の姿見えなくなった後も、しばらくの間その場でぼんやりとしていた。
だけどやがて頭を振って思考を切り替える。自分のことで精一杯で、他人のことを心配してる場合じゃないということを改めて考えながら。
僕は再び点滴台を杖にして立ち上がり、今度こそ本当に自分の病室へと向かうのだった。
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