3-1

「さあ、もう一度やってみようか。ゆっくりこっちに歩いてきて」

 その声に従って、僕は手すりから手を離して荒木先生の方へと歩き出した。

 脚の筋肉が張っているような感触がして、小刻みに震える。両腕を広げてバランスを取りながら少しづつ歩いていくが、なんともぎこちない動きだ。痛みもまだ残っている状態で、何の支えもない状態での歩行はまだまだ厳しいという事実を思い知らされる。

「はいご苦労さん。今日はまあ、こんなところかな」

 なんとか荒木先生のところに辿り着くと、先生はそう言って何やらクリップボードに書き込んだ。おそらく経過を記録しているのだろう。

 僕のリハビリが始まってからもう五日ほどが経った。

 最初はベッドに寝たまま脚を曲げたり、マッサージをされたりといったところから始まった。

 そうして少しずつ身体を動かし始め、今日からいよいよ歩行訓練となったわけだけど、驚いたのが全部の過程を荒木先生が付き合ってくれていることだった。

 病院の仕組みはよくわからないけど、こういったことは看護師とか専門のスタッフの人がやるものとばかり思っていた僕は、医者である先生が僕のマッサージまでしてくれたことに驚いた。

「あれだよ、俺は超優秀な医者だから、こういうこともこなせちゃうわけだ」

 疑問に思って訊ねると、荒木先生はそう言って笑って答えたけれど、あんまり理由になっていないと感じた。

 もしかして暇なのだろうかと思ったけれど、さすがにそんな失礼なことは訊けなかった。訊いたところでまともな答えが返ってくるかも怪しかったし。

「リハビリ、どんな感じですか?」

「んー?」

 僕が用意されたパイプいすに腰掛けながら訊ねると、荒木先生はペンの背で頭をかきながら生返事をした。

「どれくらいで普通に動けるようになるか、知りたいです」

「サッカーができるくらいに?」

「そうです」

 僕が真顔で頷くと、荒木先生は苦笑した。

「今日歩行訓練を始めたばかりで気が早すぎるでしょ。それに、まだまだだってのはきみの方がよくわかってるんじゃない? 自分の身体のことなんだし」

「それは、そうですけど」

 実際、まだまだ痛みの残っているこの身体が完全回復に至るには相当な時間がかかるだろう。

 臓器の類はともかく、兄さんからもらった脚の筋肉や皮膚はまだまだ僕には馴染んでくれそうになかった。

「前から聞きたかったんだけどさ」

 そんなことを考えていると、荒木先生がそう切り出した。視線はクリップボードに向いたままだ。

「なんでサッカーなの? やったことはないってこの前言ってたのに、どういう心境の変化があったわけ?」

「……兄さんが得意だったんです。サッカー」

 僕は一瞬迷ったが、正直にそう答えた。さすがに兄さんの代わりになるためにとは言わなかったが。

「つまり、亡くなった兄さんの意思を引き継ごうとか、そういう感じ?」

「まあ、そんなところです」

 曖昧にそう答えると、荒木先生は「ふうん」と特に興味もない素振りで頷いた。

 僕はその素っ気ないリアクションに内心でホッとしていた。この話は掘り下げられても困る。

「なんにせよ、リハビリは気長にやるしかないよ。進藤君の場合、文字通り自分の身体じゃなかったものを自分のものにするわけだし。同じ遺伝子の肉体とはいえさ」

 相変わらずズバッと言う人だなと思うが、変な気遣いをされるよりもありがたかった。兄さんの身体の一部をもらって生き延びたという事実を、僕は常に感じていないといけないと思っていた。

 そのせいで気が急くのは仕方がないとしても、実はもう一つ、リハビリに関して僕を不安にさせる要素があった。それが、今まさにリハビリをしているこの場所のことだ。

 病院の一階のすみにある一室で、荒木先生はここをリバビリ室と呼んだ。しかし中に入って率直に感じた印象は、正直なところ物置といった感じだった。

 机や椅子、古いベッドなんかが部屋の端っこに積み上げられていて、全体的にほこりっぽい。それでも元が広い部屋だからか狭い印象はなかったけれど、僕の想像していたリハビリのための部屋といった印象は微塵も感じられなかった。

「先生、ここって本当にリハビリ室なんですか?」

 それでも僕の勝手な想像なのかもと思っていたのだが、実際に床に簡素なマットを敷いただけで始まってしまった辺りから疑念はいよいよ大きくなった。

 そこでリハビリが終わった今になって訊ねてみたのだが、荒木先生の答えはあっけらかんとしたものだった。

「今はそうだよ。ただ、もともとは使われてなかった部屋だったんだけど、きみのためにわざわざ用意したってわけさ」

「ということは、やっぱりここは物置だったわけですか?」

 そう訊ねると、荒木先生は「あ、気づいた?」と笑った。気づかないはずもなかった。

「まあ、ここにはもともとリハビリ室なんて設備はなかったから仕方ないんだ。悪いけどね」

「病院なのにですか?」

「ここはそういう病院なんだ。移植専門。その後の回復は他の病院で行うことになってるから、リハビリ用の設備なんてのは用意してないんだよ。もっとも、きみの場合は例外だ」

 一卵性双生児間での移植についてのデータをとるために僕はこの病院に残ることになったのだと、以前荒木先生が言っていたのを思い出した。

 別にそれ自体はかまわない。だけど、それで本当にちゃんとリハビリができるのかどうかはすごく不安だった。

「大丈夫だって。設備なんてなくてもリハビリはちゃんとできるよ。それに俺もリハビリについて絶賛勉強中だから、何も心配いらないさ」

 そんな僕の心情を読み取ったのか、荒木先生が笑いながらそう言って僕を励ました。

 とはいえ、言ってる内容には不安しかなかった。ホスト風の軽薄な雰囲気も相まって、余計に心配になってきたのも仕方がないことだと思う。

「……よろしくお願いします」

 ただ面と向かって不満を口にできない辺り、波風を立てられない自分の性格が恨めしい。兄さんだったらこういう場面、毅然と抗議の一つでもするのだろうか。

 そんなことを考えていると、ふと部屋の入口辺りから物音が聞こえてきた。見ると、誰かが部屋に入ってくるところだった。

 白衣姿なところを見ると医者らしいけど、初めて見る人だった。荒木先生も気がついてその人に目を向けるが、その瞬間微かに眉をひそめたように見えた。だけどすぐにいつも通りの軽い笑顔に戻って口を開いた。

「これはこれは、わざわざこんなところに来るとは、何の用事なんだ夕陽?」

 夕陽、というのはその人の名前だろうか。響きからして女性の名前のように思えた。

 もう一度振り向くと、いつの間にかその人は近くまでやって来ていて顔がハッキリと見えた。短い髪型だったこともあり遠目にはわからなかったが、この距離で見ると女性であることがハッキリとわかった。女医さんのようだ。

 まだ若い人だった。年齢的には二十代の後半くらいか。荒木先生と同じくらいの年代のようだ。これといった表情もなく、どこかしら冷めたような視線で荒木先生の方を見つめていた。なんとなく近寄りがたい雰囲気の人だった。

「……呼び捨てにするなと言ったはずよ」

「おっと、こいつは失礼。夕陽先生」

「名前でも呼ばないで」

「はいはい、瀬戸先生」

 瀬戸と呼ばれたその女医さんは、荒木先生の軽口にかすかに顔をしかめた。

 先生と呼ばれていることから、この人が医者であることは間違いなさそうだけど、二人の関係はただの同僚とは違うようだった。

 個人的な知り合い同士のようでもあるけど、それにしてはどこかおかしい。荒木先生は気安い感じだが、女医さんの方はいかにも素っ気ない態度で、やっぱりどういう間柄なのかよくわからない。わかったのは、この人の苗字が瀬戸、名前が夕陽だということくらいだった。

「それで、どうしてここに?」

 僕が様子を窺っていると、荒木先生は相変わらずの軽い口調でそう訊ねた。しかしそれは表面上で、なんとなく張りつめたような気配が室内を覆っているように感じた。

 瀬戸先生はそれには答えず、無言のままなぜか僕の方を見た。表情のない顔でまっすぐに見つめられ、少し戸惑う。

「……ああ、やっぱ進藤君目当てね」

 その時、荒木先生がやれやれと言った表情でそう呟いたので、僕は「え?」と振り向いた。

 僕が目当て? どういうことだ?

 説明を求めるような視線を荒木先生に送るが、先生はジッと瀬戸先生の方を見ているばかりだった。その瀬戸先生は僕を無言で見つめたままで、僕達の視線はしばらくの間奇妙な三角形を描いた。

「……別に、ただ少し様子を見に来ただけよ」

 だがやがて瀬戸先生はそう呟くと、ふっと視線を外して遠くを見つめた。少しだけ眉をひそめた感じで目を細めるその様子は、どこか苦しげにも見えた。

 瀬戸先生はその後すぐに「邪魔をしたわ」とだけ言い残して去って行った。なんのためにやって来たのかわからず、僕は困惑するしかなかった。

「夕陽はきみに会いに来たんだよ」

 そんな僕を見かねたのか、荒木先生が苦笑まじりにそう言った。

「どういうことです? どうして僕に」

「きみが毎晩会ってる彼女の件さ」

 その返答に僕が驚いて目を見開くと、荒木先生はぷっと噴き出した。

「そんなに驚かなくてもいいだろ。きみ達が毎晩逢引きしてることくらいはもちろん知ってるよ」

「逢引きだなんて、そんな」

「ああ悪い悪い、こういう冗談を言うタイプじゃなかったな」

 荒木先生はひとしきり笑った後、もう一度「知ってるよきみ達のことは」と繰り返した。

「夜のこと、ご存じだったんですか」

「…………夜、ね」

 言って、そういえば夜っていうのは僕が付けたあだ名だったことを思い出したが、荒木先生はそれがあの少女のことだとちゃんと認識しているようだった。

「図書室でぶっ倒れた時に彼女と会ったんだろ?」

「……その、あんな深夜に起きてたことは謝ります。夜があの時間じゃないとダメだって言うから……」

「ああ、別に謝らないでいいよ。逢引きしてるのを怒ってるわけじゃないからさ。禁止とかもしないし」

「はぁ」

「ただ、きみ達がどういう関係なのかは気になるかな。実際どうなの?」

「関係といわれても、偶然病院で出会った同年代の――……まあ知り合いですよ」

 夜が言っていた友達とか仲良しといった単語は持ち出さず、僕は若干言葉を濁しながら正直に答えた。

「なるほど、そいつは結構な話だ。これからも彼女と仲良くしてやってくれ」

 荒木先生は僕の返答に頷きながらも、少しだけ笑顔に陰りを見せたような気がした。

「あの……」

 その時ふと、僕は夜のことについて先生に訊いてみようと思って口を開きかけたが、直後に深入りしないと決めたことを思い出して言葉に詰まった。

 けれど荒木先生が怪訝そうな顔で振り向いたので、僕は結局訊ねてしまった。夜のことを知る第三者の存在を知って、話を聞きたくなったのだ。

「夜は――あの子は一体どういった患者なんですか?」

 患者という単語を口にする時に、心臓移植という言葉が思い浮かんでドキッとしたが、僕は思い切って訊ねた。

 しかし荒木先生は「あー」と曖昧な反応で、しばらくの間なにやら難しい顔で黙っていたが、

「……悪いけど、他の患者のことは教えられないんだ。プライバシーのこともあるしね」

 やがてそんな当たり前といえば当たり前の返答で、僕の質問を受け流した。

「……心臓移植を待ってるって言ってましたけど」

「まあ、うん、そうだな」

 さらに踏み込んでみても、荒木先生は答えるつもりはなさそうだった。

 僕は夜のことを訊ねたのを後悔し始めていた。気にしないでおこうと思いながらも気にしている自分に、居心地の悪い気分を抱いた。

「そうですよね。他の患者のことを話すわけにはいかないですよね。変なこと訊いてすいませんでした」

 そう言って頭を下げると、荒木先生は「気にする必要ないよ」とは言ってはくれたけど、やっぱりどこか気まずい雰囲気が残った。

 僕は自分自身の気分を変えるためにも、まったく違う話題を口にした。

「先生、空いてる時間はあったりしますか?」

「どうしたの急に? 俺は超優秀な医者だけど、偶然最近は暇を持て余してると言えなくもないかな」

「もしよければ、僕に勉強を教えてもらえませんか」

「勉強?」

「はい。先生は医学部に進んだんですよね。だったら受験勉強も相当こなしたと思います。だから、よければ勉強のコツなんかも一緒に教えてもらえたらなって」

「別にいいけどさ、それにしても勉強のコツとか急にどうしたの? えらく熱心だね」

「ええ、勉強もしないといけないと思って」

「でもきみはまだ高校一年生だろ? 受験なんてまだまだ先じゃないか。それとも、何か目標でもあるの?」

「そういうわけじゃないんですが……」

「入院での遅れを取り戻すため? それなら心配しなくても、高校一年の範囲くらいコツコツやればすぐに追いつくよ」

「いえ、できれば僕は要領のいい勉強のやり方が知りたいんです。本来はコツコツやるタイプですけど」

「それならそれでいいと思うけど、なんでまた?」

 兄さんがそういうタイプだったから。

 一瞬、正直にそう答えそうになったけど、結局口にはしなかった。

 なんとなくだと答えになっていない答えを返すと、先生は一呼吸置いた後「ふうん」と鼻を鳴らした。

「まあ俺のやり方が役に立つかはわからないけど、教えてほしいっていうのなら別に教えてもいいよ」

「本当ですか。ありがとうございます」

「でもまあ、それもおいおいだな。今はリハビリに集中してくれってことで。じゃあ病室に戻ってまた安静にしといてくれ」

 荒木先生は僕の頼みを引き受けてくれたものの、その顔はどこかつまらなさそうな感じにも見えた。

 とはいえ了承をもらったことには変わりがない。僕は先生に再度お礼を言って、点滴台を杖代わりにして部屋を後にしようとした。

「……瀬戸先生な、彼女の担当医なんだよ」

 だけど部屋を出る直前、荒木先生がポツリと呟くような口調でそう言った。

 僕が「え」と振り向くと、先生は明後日の方向に視線を向けたまま続けた。

「きみが夜って呼んでる子を担当してるのが彼女だ。おそらく、きみのことを聞いて、気になって顔を見に来たってとこだろう」

「夜の担当医……」

 僕はぼんやりと呟き返すが、夜を担当している医者と聞いて最初あまりしっくりこなかった。

 だけど考えてみれば夜も入院患者である以上、僕と同じように診ている医者がいるのだ。夜の無邪気な元気さに触れていると、そういったことを忘れそうになるが、言われてみれば当たり前のことだった。

 瀬戸先生が、夜の担当。

 この病院で夜のことをもっともよく知っている人。

「じゃあまあ、そういうことで、お疲れ」

 荒木先生は話は終わりだという感じで、そう言って手をヒラヒラと振った。

 僕は頭を下げて元物置のリハビリ部屋を後にして、自分の病室へと向かった。

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