2-3

 結局、僕はそのクイズをやることを承諾した。元来、僕は自分の意思を通すよりも周りに合わせる性格だが、この時は珍しく自発的だった。結果として夜に流される形になったのは癪だったけど。

「私から先に問題出してもいい? 答えられなかったら、カイは私の質問を受けるんだよ」

「答えられたらそうならないってことだけどね」

「じゃあいくね。……あ、そうだ、こういう時って第一問って元気よく言わないといけないんだっけ」

「……そういうの、別にいいから」

「第一問! ……えっと、よし。では72ページの4行目の文章は何でしょう?」

「ちょっと待って」

 なぜか無駄に楽しそうに問題を口にする夜に、僕はすぐさま待ったをかけた。

「……なにその問題。そういうのってアリなの?」

「え、なにが?」

「普通クイズっていったら内容を問うものでしょ?」

「だから、この本の内容だよ?」

「じゃなくて、そんなただの記憶力勝負みたいなのはどうなんだってこと」

「なんで? ダメなの? 私はわかるよ? カイはわからないの?」

 心底不思議そうな顔をする夜に、僕は言葉に詰まった。

 ダメかダメじゃないかといわれたら間違いなくダメな部類だと思うけど、なぜか夜の反応に僕はそう返せなかった。

「あ、制限時間がないとね。……3、2、1、はい時間切れでカイの負け! 私の質問に答えてもらうよ。あ、ちなみに答えは『彼は、それを聞くと、慌ただしく答えた』だよ」

「わかるわけない。こんなの絶対にズルいと思うんだけど……」

 その愚痴も聞こえない様子で、夜は「何にしようかなぁ」とワクワクしながら僕への質問について悩んでいた。

 僕は釈然としなかったけど質問を待つしかなかった。こういう時、文句の一つも言えないのが我ながら残念だった。

 やがて夜は質問を決めたらしく、一度小さく頷いてから僕の方へと向き直った。

「質問なんだけど、カイのお兄さんのことについて訊いてもいい?」

 そう言われた瞬間、僕はピリッと緊張した。

 それは半ば予想していた質問だった。昨日の僕の口ぶりからしても、兄さんのことが僕の中で大きな要素を占めているのは明白だ。だから夜がそれを知りたがるのは自然なことだった。

 とはいえ、やはり答えにくい。それも、特に夜の前では。

「あ、やっぱり今の質問はなしで」

「え?」

 しかし、そうやって答えあぐねていると、突然夜が質問を撤回したので、僕は驚いた。そして「どうして」と訊ねて返ってきた言葉に、さらに驚く。

「だって、質問した時のカイの顔がすごく辛そうだったから。さっきカイが嫌そうな顔した時はうれしかったんだけど、今はそんなことなかった。苦しそうなカイを見てると私もなんだか苦しくなったから、だからこの質問はやめるね」

 それはどこまでもストレートな物言いだった。

 良く言えば自由な、悪く言えば勝手極まりない性格の夜だけど、今は間違いなく僕を気づかってくれていた。

 僕は、そんなに苦しそうな顔をしていたのだろうか。していたのかもしれないと、僕は無意識のうちに自分の顔を撫でた。

「じゃあ別の質問にするね。カイの好きな食べ物は?」

「……ざるそば、かな」

「へー、ざるさばかぁ。どんな味がするのかな。私、食べたことないよ」

 僕の答えに、夜はうれしそうに頷いている。夜に気をつかわれてしまったことに困惑していたが、ホッとしたというのも正直なところだ。

「次はカイの番だね。さあさあ問題を出してよ」

 僕が内心で胸をなで下ろしていると、夜は文庫本を渡しながらそう促してきた。

 その時ふと、そういえば正解できなかったら夜も僕の質問に答えなければいけないんだということに今更思い至る。同時に、いつの間にか自分も夜という少女に多少の興味を抱いていることに気がついて、少し奇妙な感じを抱いた。

 ではどんな問題を出そう。そういえば、さっきのあの問題は理不尽すぎた。夜は自分ならわかるといっていたけど、だったら答えてもらおうと、僕は少し意地悪な気持ちで口を開いた。

「……212ページの10行目の文章は?」

「『あいにく一字半句の心得もござない』だね。きりしとほろ上人伝のところ」

 だけど夜が即座にそう答えて、しかも当たっていたことに僕は驚愕を禁じ得なかった。思わず夜の顔をまじまじと見つめる。

「……本当に覚えてるの?」

「うん」

「ウソでしょ……。読んだことがある本とはいえ、内容じゃなく特定箇所の文章を覚えてるなんて、どんな記憶力なの……」

「あ、この本自体を見たのは今さっきだよ? このアクタガワリュウノスケ全集は図書室にあったのとは違うやつだから、文章の位置とかも違うし」

「待って。じゃあまさか、さっきパラパラめくってた時に覚えたとかいうんじゃないだろうね」

「そうだよ?」

 それがなにか? とでもいった感じのテンションで返され、僕はいよいよ絶句する。

「……フォトグラフィックメモリーとか、夜はそういう特殊能力者なの……?」

「それって見たものを画像のように覚える能力のことだよね? そういうのじゃないよ。私はただ、見て触れて感じた全部のことを覚えておきたいだけ。すぐに消えてなくなるかもしれないけど、それでも」

 すぐに消えてなくなるかもというのはどういうことだろう。心臓移植手術の失敗の可能性を口にしているのだろうか。だとしたら、それは重い言葉だった。

 とはいえ、そういった重いものがあったとしても、やろうとしてできることではない気がする。一瞬目を通しただけの本の内容を完全に記憶するなんてやっぱり普通じゃない。

 夜は、本当に一体何者なのだろう。

「じゃあ正解したから、私からの質問だね。何にしようかなぁ」

 僕は呆然としてたが、間もなく夜のそんな言葉で我に返った。

「え、どういうこと?」

「ん? だから、正解したから私の勝ちだよね。私が質問する番」

「問題に答えられなかったら質問されるっていう話じゃなかったっけ?」

「うん。でもそれだとお互い正解し続けると何も起こらないでしょ? だから、質問に答えられちゃったら質問した方が罰ゲームってことにしよう」

「……途中で勝手にルールを変えないでほしいな」

「カイにいっぱい質問したいから、この方が合理的だよ」

 それはその通りだと思うけど、自分が勝つことを前提にしているところがズルイと思う。

 だけど、さっきみたいな問題がまかり通るなら僕は決して勝てない。

「質問いくね。カイの好きな動物は?」

「……犬よりは猫派かな」

「ネコって可愛いよね。私、触ったことないんだけど、カイは?」

「野良猫には例外なく避けられるタイプだよ僕は。それより、まだ続けるならルールを決めよう。さっきみたいな何ページの何行みたいな記憶力だけの問題は禁止で、内容に関することじゃないと勝負にならない」

 僕がそう提案すると、夜は特に気にした風もなく「うん、いいよ」と承諾した。

 これでまだいくらかは戦いになる――そう思っていたけど、僕のその目論見はもろくも崩れ去ることになる。

「第二問。クリストフォロスを聖人と見なしている教派は?」

「いや、なにその問題。そんなの知らないし、芥川龍之介と全然関係ないじゃないか」

「きりしとほろ上人伝の聖クリストファーのことだから、全然関係ないわけじゃないよ? ちなみに答えは正教会、非カルケドン派、聖公会、ルーテル教会だよ。じゃあ質問、カイの好きな季節は?」

「……冬。理由は暑いのより寒い方が好きだから。それより、派生知識の問題も禁止で。本に載ってることだけ」

 僕がそう言うと、夜は「仕方ないなぁ」と笑った。なんだかとても悔しい。問題が理不尽だとわかっていても、何度も読んだ本のことだから特に。

 この辺りから、僕もだんだんとムキになっていった。

「……杜子春の舞台となる場所と時代は?」

「玄宗皇帝時代の唐だね。玄宗皇帝の在位期間は西暦712年から756年。正解だから質問するね。カイの得意科目は?」

「……現国。昔から根っからの文系だよ僕は」

「第三問。同じ杜子春からで、杜子春に声をかけた仙人の本名は?」

「それは……待って、覚えてる。……そうだ、鉄冠子だ」

「ぶぶー、ハズレ。確かに本文中では峨眉山の鉄冠子と自称してるけど、そらんじた詩と時代的に正解は呂洞賓だよ」

「だから、そういう派生知識のトリビアなんてわかるわけないって。ズルじゃないか」

「そんなことないよ。だってこれは本の注釈のところにちゃんと書かれてることだもん」

「注釈……」

「峨眉山の鉄冠子というのは三国時代の左慈のことだから、唐代の人ではないんだよ。だからやっぱり呂洞賓が正解。ちなみに呂洞賓っていうのは中国でも最もポピュラーな仙人の一人で、邯鄲の夢っていう故事に出てくる仙人もこの呂洞賓だよ。そもそもこの杜子春で書かれてるエピソード自体も、もともとは呂洞賓自身のものと言われてるし――」

「わかった。わかったから。……でもさすがにそんな詳しいことまで注釈には書いてないでしょ。そんなのどこで知ったの」

「本で読んだんだよ」

 それはそうなのかもしれないけど、だからってそんなにスラスラと出てくるようなものなのだろうか。

 僕も相当本を読む方だが、だからって内容や書かれている文章・知識などを全部覚えているわけじゃない。

「……質問は?」

 僕はそれ以上何も言えず、夜の記憶力に屈するしかなかった。この時点で、僕の心は早くも折れかけていたのかもしれない。

 夜はうれしそうに「カイの好きな好きなスポーツは?」と訊ね、僕は「マラソン」と答えた。体力がなくて歩かずに完走したことなんて一度もなかったけど、一人で黙々とこなすところが他の団体競技に比べて気楽だったからだ。ちなみに、サッカーとは答えなかった。

 その後もクイズは続いたが、結果は完全に予想通りのものとなった。もちろん僕が出した問題はどんな意地悪なものでも答えられてしまい、逆に夜の問題には僕は一問も正解できなかった。

 夜は完璧に文庫本の内容を記憶していて、しかも関連知識が百科事典を引くようにするすると出てきた。

 それはまるで図書室にある本の内容を全て覚えているかのようだった。さすがにそこまではにわかに信じられないとはいえ、夜の頭が凡人の僕とはまるで違う特別なものだということだけはハッキリとわかった。

「カイの好きなお菓子は?」

「海苔せんべい……かな」

「カイの覚えてる一番古い記憶は?」

「ベッドに寝転がって天井を見上げてる時に、母さんにご飯だって呼ばれたこと」

「カイは自分のどういうところが格好いいと思ってる? アピールポイントは?」

「……なにその質問。僕は自分に格好いいところがあるなんて考えたこともないよ」

「今までいた彼女はどんな人?」

「そんな人はいない。いない人間は語れない」

「女の子の髪は長い方がいい? 短い方がいい?」

「どっちでもいいと思うよ」

「その回答は認めません。どっちか選んでよぅ」

「……長い方が女の人っぽいとは思う」

「そっかぁ。えへへー」

「なんでうれしそうなの」

 クイズで負け続けた僕は、こんな感じで夜からひたすら質問攻めにあった。

 だんだん質問内容もよくわからないものになっていったけど、僕は律儀に答えていった。そういうルールだったし、そういうルールに流されてしまった自分が悪かった。

 それに夜があまりにも楽しそうな顔で質問を続けるので、邪険にはできなかったというのもある。僕は自分のことについて語るのがあまり好きじゃなかったけれど、夜の無邪気さに次第にそれも忘れた。

「そっかそっかぁ、カイのこと、いっぱいわかっちゃったなぁ」

 やがて夜は質問を打ち切り、満面に笑みを浮かべながら一人でしきりに頷き始めた。どうやらもう満足したらしくクイズは終わりのようだ。

 結局、僕が一方的に夜の質問に答えただけだった。こんなことなら別にクイズなんて形式にしなくてもよかったような気もする。そうすれば、無駄に悔しい思いをすることもなかった。

「はぁ……、もう十分?」

「うん、とりあえず今日のところは」

 僕がため息まじりに訊ねると、夜は悪びれた様子もなく答えた。

 こんなことが今後も続くのかとげんなりしかけたが、続く夜の言葉にそんな気分も吹き飛んだ。

「カイのことはもっともっと何でも知りたいから、手術の日まではずっとカイと一緒にいるって決めたよ。今日はもうそろそろ時間がないけど、明日もまたお話ししようね」

 それはこっちの都合なんてまるで考えていない随分と身勝手な言葉だった。知り合ってわずかな時間とはいえ、実に夜らしいといえる言葉だ。

 だけど僕はそれに対してイヤミの一つも返せなかった。ハッと呑んだ息が、言葉を胸に押し込めたからだ。

 手術の日まで――夜は今そう言った。

 どうしてそういうことを、あんな笑顔でさらりと言えるのだろう。

 心臓移植。怖くはないのだろうか。それとも怖さを胸に押し込めて無理をしているのだろうか。

 いや、実は僕が思っているほど大した手術じゃないのかもしれない。命の危険なんてほとんどない安全な手術なのかも。

 でもそういった考えを、僕は無意識のうちに否定していた。根拠があったわけじゃない。ただ、夜の発するどこか儚い雰囲気が、僕の不安を否応なくかき立てていた。夜が無邪気な笑みを浮かべるほど、そういった陰の部分がふとした弾みで浮き彫りになるように感じられたし、今がまさにそんな瞬間だった。

 僕は今更ながらに、夜のことをもっと知りたいと思った。同時に、他人に対してこんな興味を抱いたことが今までなかったので、そんな自分の気持ちに戸惑った。

 そもそも、僕は夜になんて訊ねればいいのだろう。

「……クイズ」

 気づいたら、僕はそう呟いていた。夜が「え?」と僕の方を振り向く。

「最後に僕からもう一つクイズを出させてほしい。このまま勝ち逃げされるのも夢見が悪いし」

 少なくとも、僕はそのままストレートに夜に質問することはできなかった。だからクイズのルールに乗っかるしかなかった。

 クイズに勝ったら質問ができる。そんなエクスキューズがなければ動けない自分が情けなかった。

「うん、もちろんいいよ」

 夜はそんな僕の内心など知るはずもなく、ワクワクした様子で受けて立った。

 それはいいのだけど、今まで僕が出した問題は全て夜に答えられてしまっていたことを今更になって思い出す。夜に勝てるような問題が何かあるのかと、僕は頭を悩ませた。

 けど、ここは何としても勝ちたかった。夜には絶対に答えられないような問題。僕は珍しく必死になって頭を回転させ、やがてほとんど反射的に口を開いた。

「この本の中で、僕が一番好きな小説は?」

「カイの一番好きな小説?」

 僕はそう言ってから、何を言ってるんだと自分で自分に呆れた。こんな問題、わかるはずがない。

「カイの一番好きな……うーん」

「……ごめん。今のはやっぱりなしで」

 僕はすぐさま撤回しようとした。しかし夜は「え、なんで?」と不思議そうな顔をする。

「いや、だってこんなの問題として成立してないし」

「そう? 今まで一番難しくていい問題だと思うよ?」

「難しいっていっても、わかるわけなかったらダメだよ。他のを考える」

「ううん、私はカイの一番好きな小説が知りたいの。確かにわからないけど、でもそれがすごく面白い。カイが好きなのはどれなんだろって、考えてるだけですっごく楽しいよ」

 夜が目を輝かせながらそう返してきたので、僕は驚いてしまった。こんな無茶苦茶なクイズを出されたら普通なら怒られるところなのに、夜はそれを本当に楽しんでいるようだった。

「うーん、うーん……じゃあ蜘蛛の糸!」

 しばらくして、夜は右手を高々と掲げながらそう答えた。今までとは違い、思いっきり力がこもっていた。

「……それも好きだけど、一番は芋粥かな」

「あ、そうなんだ。はずしちゃったぁ。なんでそれが一番好きなの?」

「それは……主人公の人物像が好きだからかな。なんで好きかって訊かれたら困るけど、なんとなく……」

 僕は申し訳なさを感じながらそう答えた。こんな問題を出してしまったことと、それなのにこの程度の理由しか返せなかった両方への申し訳なさだった。

 だけど夜はそんなことなど気にした風もなく、

「そうなんだね。これがカイの一番好きな小説かぁ」

 と、なぜか今までで一番うれしそうな顔で文庫本のページに見入っていた。

「えへへ、私の負けだね。どんな質問でも答えるよ」

「どんな質問でも?」

「そういうルールだから」

 それは暗に、さっきは言えないと答えていたことも、今訊ねれば答えると言っているようにも聞こえた。

 僕は勢いで、夜は一体何者なのかとまた訊ねそうになった。けれど、寸前で留まった。

 夜はさっき、兄さんのことを僕に訊ねかけて、やめた。僕がそれを答えたくないと思っていることに気がついたからだ。

 夜は自分について「言っちゃダメなこと」があると言っていた。それを訊ねるのは、やっぱり躊躇われた。夜は僕を気づかってくれたのに僕がそうしないわけにはいかない――そういう思いがあったからだ。

 でも、僕は夜という少女について、何か少しでもわかるような情報も欲しかった。夜が答えられる範囲で、何かいい質問はないだろうか。

 そう考えた僕は、その時ふと頭に浮かんだ質問を口に出した。

「……夜は、いつからこの病院にいるの?」

 時間的な区切りがあればいいと思った。それがわかれば、その前後で夜という人間がわかるような気がした。

 ここに来る前の夜。どこで、どんな学校で、どんな人達と一緒にいたのか。

 それがわかれば、この幻のような少女に輪郭ができるんじゃないか――そう思って、僕は訊ねたのだが、

「たぶんずっとだよ」

 即座に返ってきたその答えに、僕はすぐにはリアクションをとれなかった。

「…………ずっと? それに、たぶんって……」

「なんて言えばいいんだろう? ここで目覚めてからの記憶以外、私にはないんだよね。だからハッキリとはわからないけど」

 その答えに、僕はいよいよ言葉を失うしかなかった。頭の中も真っ白になった。

 この病院で目覚める前のことはわからない? それって……つまりは記憶喪失とか、そういうことなのか?

 その時不意に荒木先生の言葉が頭に浮かんだ。この病院にはいろんな事情の子達が集まってきてると、先生は言っていた。その「いろんな」の中に、まさかこんなものまで含まれているとは、想像もしていなかった。

「……え、と」

 僕は動揺した。動揺しながら、それ以上踏み込んではいけないギリギリの場所に今自分が立っているような気がした。

 どうして僕は夜のことを知りたいと思ったのだろうか。他人のことに深く関わろうだなんて、僕のするべきことじゃなかった。兄さんならこういう時どうするんだろうと考える余裕もない。僕は今すぐ不用意な質問をしたことを夜に謝りたかった。

 なんか、変なことを訊いちゃって、ごめん。

 そう言って、この話題は打ち切ろう。僕はそんなことを考えながら、夜の方へと向き直った。

「夜……?」

 だけどその瞬間、僕はある違和感に気がついた。

 人の気配がしない。さっきまですぐ傍に夜がいたはずなのに、今は何の存在感も感じない。

 だけど目をやると、そこにはちゃんと夜の姿があった。窓から差し込む月光を全身に浴びて、白い肌を青く輝かせていた。

 けれど、僕は一瞬それが夜なのかどうか判断がつかなかった。夜の形をした人形がそこ立っているのだといわれたら信じてしまいそうなくらい、あらゆる感覚が希薄だった。夜の目は開いていたが、そこには何の輝きもなかった。

 僕は息を呑んだが、同時にあることを思い出していた。そういえば、昨夜も図書室でこんな夜の姿を見た。これは一体何なのだろう。

「……あ、ごめん」

 僕はどうすることもできずに呆然と見つめていたが、間もなく夜はハッとした様子で我に返ると、小さくそう言ってふるふると首を振った。

 その瞬間、世界に色が戻ってきたような感覚になった。もちろん夜の気配も瞳の輝きももう元に戻っていた。さっきまでのモノクロ映像のような光景は、すぐに幻のように消えていった。

「……どうしたの、夜? 大丈夫?」

「うん、ごめんね。またボーッとしちゃった。時間が来たみたい。なんだか……すごく眠い」

 そう言って目元を押さえる夜。その言葉通り、身体全体が微かにゆらゆらと揺れている。

「……もう、せっかくカイと過ごせる時間なのに、そろそろ戻らないと……」

「うん、部屋に戻った方がいいよ。深夜だし、そもそもここは病院で僕達は病人だ。夜更かしなんてしていい身分でもないしね」

 そう、今更だけど僕達は病人なのだ。夜はやっぱりそんな気配はまるでないけど、心臓移植手術を控えているれっきとした重病の持ち主。こんな時間におしゃべりをしていていい立場じゃない。

「でも、やっぱりもったいないよぅ……もっとカイとお話ししたい」

「明日にしよう。僕もそろそろ寝ないと」

「……うん。明日もまた絶対来るね。それでいっぱいお話して。まだまだカイに訊きたいことはたくさんあるんだから」

「いいけど、せめて訪ねてくるなら昼の内にしてほしいね」

「……ごめん。この時間じゃないと無理なの。他の時間は動けないから」

 夜は申し訳なさそうな顔でシュンと肩を落とした。

 僕はすぐに「だったら仕方ない」と、深夜の訪問を受け入れた。

 どうしてこんな時間じゃないとダメなのか――そんなことは訊ねなかった。訊かなくても、それが夜の心臓に関することだってのはわかったからだ。

 僕はこれから早めに寝て、深夜の夜の訪問を待とうと思った。わざわざそこまでして夜の相手をする理由はどこにもないのだけれど、少なくとも積極的に夜を拒否する動機も僕にはなかった。

「うん、ありがとうカイ。えへへ、すっごくうれしい」

「……夜は感情表現がストレートすぎるよ」

「え、そうかな?」

 そうだよ、と僕は心の中で呟いた。本当にそんなうれしそうな顔をされると、リアクションに困る。

「じゃあ私、もう行くね。明日もまた来るから、カイは絶対起きて待っててね」

「サラッとハードルの高いことを言ってるけど……でもまあ、わかったよ」

「あ、でもでも、もしかしたら来れない日もあるかもしれないから、その時はカイも寝てていいよ」

「その判断はどこですればいいのさ」

 僕は夜の言葉に呆れたけれど、夜はやっぱりうれしそうな笑顔で「じゃあね」と言って病室を後にしようとした。

 だけどその直前にふと立ち止まって、

「やっぱりカイは、今も生きててよかったって思えない?」

 と、透明な視線でそう訊ねてきた。

 それには答えず僕が「おやすみ」と返すと、夜も「おやすみ」と言って、そのまま何事もなかったかのように去って行った。

 一人になった病室は途端にシンと静まり返り、静寂が降り注いでくるような気配がしてしばらくの間落ち着かなかった。

 僕は窓の外に浮かぶ月を眺めながら、今日知った夜のことを考えた。

 心臓移植。異常な記憶力。この病院に来る以前の記憶がないということ。

 夜の姿が目の前にないと、やはり全てが現実感のないものだった。けれど、それらは間違いなく現実の出来事なのだということもわかっていた。

 夜は――彼女は一体何者なのか。

 僕はまたそんなことを考えかけて、すぐにやめた。他人に関わり合っている場合じゃないんだと、自分で自分に言い聞かせた。

 夜は心臓移植を待つ身で、異常な記憶力の持ち主で、ここで目覚める以前のことを覚えていない女の子。

 それでいいじゃないかと思った。心臓移植手術に対する不安から、移植手術を終えて生き延びた僕に興味を持って話しかけてきている。それだけのことなのだ。

 そんな女の子を邪険に扱ったりはしない。かといって、特別に親切にするつもりもない。そんな距離感でちょうどいい。

 夜が話し相手を求めているなら、僕はいくらでも付き合うだろう。

 でも僕は、決して夜の望むようなことは言わない。だって、生きててよかったなんて思っていないから。夜のことは応援しているけど、そこはまた別問題だ。

 僕はそんなことを考えながら目を閉じた。眠気はすぐに訪れて、僕はまた今度芥川龍之介全集をちゃんと読み直そうと思いながら眠った。

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