2-2
その日の深夜、僕は昨日ベッドを抜け出したのと同じくらいの時間に目を覚ました。
起きようと思ってたわけじゃなく完全に偶然だった。でも目覚めてしまったからには図書室に向かうべきなんじゃないかと思ってしまった。
けれど身体を起こそうとして、間もなくそれが無理だと気づいた。動かないのだ。昨日は動いた身体が、今日は重い鎖に縛られたように持ち上がらない。
昨日は気持ちで動いたんだろうと先生は言っていたが、どうやらそれは正しかったらしい。昨夜のような居ても立ってもいられなくなる熱量はもうなく、大怪我と大手術から回復中の身体を動かすほどの気力は今の僕にはないらしかった。
図書室には行けない。約束を破ることになるけど、そもそも夜が勝手に言い放って答えも待たずに去っていったものだ。気にする必要はないはずだ。
僕はそう考えながらも、たとえ一方的なものとはいえ女の子との約束をすっぽかすことに落ち着かなかった。今までこんな経験がないので、どうしても気になってしまう。
兄さんはこういう時どうするのだろう? 兄さんはモテた。とにかくモテた。女の子からもたくさん声をかけられていた。時には一方的にどこそこで待ってるみたいなことを言われた経験もあるんじゃないか。兄さんが女の子で問題を抱えていた気配はなかったから、きっとスマートに対処していたんだろう。どうやっていたんだろうか。想像がつかない。
そんなとりとめのない思考をしていた時、不意にドアの方からカチャリと小さな音が聞こえた。
頭だけそちらに向けると、ドアがゆっくりと開いてその隙間から何かが入ってきた。電灯は消えていたが、窓から差し込む月光でその正体はすぐに判明した。
「あ、カイだ。カイ、みつけた」
「え、夜? なんで」
夜は僕の姿を見つけると、まるで子犬のような仕草でパタパタと近寄ってきた。
そうして僕のベッドに顎をのせて目の高さを合わせると、えへへーと心底うれしそうな無邪気な笑みを浮かべて、カイカイと何度も僕の名前を呼んだ。
「どうしてここに?」
「ひどいよカイ。私、図書室でずっと待ってたのにカイったら来ないんだもん」
「それは……ごめん」
ぷくーっと頬を膨らませる夜に、僕は一方的な約束なんだからという言い分も忘れてつい謝っていた。
「ずっと待ってて、来ないな来ないなって寂しかったんだよ」
「ごめん。どれくらい待ってたの?」
「1分36秒と23」
「ほとんど待ってないじゃないか」
しかもいやに細かい。またからかわれてるんだろうかと、少し身構える。
「昨日と同じ時間にって言ったでしょ。時間は守らないとダメだよ」
「その意見には同意だけど、そもそも同じ時間っていわれても、昨日会ったのが何時頃かもわからないのに」
「午前2時11分29秒39」
「え」
「午前2時11分29秒39だよ。私とカイが会ったの」
「……図書室に時計なんてあったっけ」
僕は見た覚えがない。見落としただけかもしれないけど、それにしたって夜の語る時間は細かすぎる気がした。
「時計? 知らない。図書室にそんなのあったかなぁ? 私は見てないよ」
「じゃあなんで、そんな正確な時間なんてわかるの」
「え、カイはわからないの? 今カイが『じゃあ』って言い終わった瞬間は午前2時24分5秒88だったけど、それも?」
わかるわけがない。
やっぱり冗談で言ってるんだろうと思ったけど、夜の悪意のないキョトンとした顔を見ていると本気なのかもとも思える。
「もしかして、体内時計を持った特異体質とか?」
「時間がわかるなんて普通じゃないの?」
「少なくとも僕にはそんな特殊能力はないよ」
「そうなんだ。じゃあカイが遅刻しちゃうのも普通だよね。よかった、カイが私との約束を破ったのかと思っちゃった」
そういうことじゃないと思うけど、夜は安心したといった感じでふわりと笑った。
やっぱりこの子は変わってる。改めてそう思った。
「僕が行けなかったのは時間がわからなかったからじゃなくて、身体が動かなかったからだよ」
「え、どういうこと? 昨日から今日までの間で、カイは大怪我しちゃったの?」
「……その発想はなかったかな」
どうやら本気で言っているらしい夜に、僕は九割呆れて一割笑った。
「昨日動いてたのがちょっと無茶だったらしくて、今日はその反動が出たみたいなんだ。だから動けない」
「へー、そうだったんだ。じゃあ私がカイのところに来てよかったね」
「そういえば、どうやって僕の病室がわかったの?」
「調べた」
夜はサラリとそう答えたが、僕はこの病院のプライバシー管理に一抹の不安を覚えた。荒木先生の顔が頭に浮かんできて、不安がさらに増した。
「わざわざ調べて訪ねに来てくれて、どうもありがとう」
「そんなの当然だよ。だって私、カイといっぱいいっぱい一緒にいたいもん」
あからさまな皮肉に夜がニコリと笑顔で返したので、照れるよりも困惑してしまう。
僕は人から好意を向けられることに慣れていない。いや、そもそもこれは好意なのかどうかもわからない。他人との距離感を測るのは苦手だ。
「私とカイは友達だし」
「友達だったんだ」
「うん。昨日会った時から友達。仲よし」
ちょっと照れくさそうな夜に、僕はそんなのになった記憶はないとは言えなかった。
「なんで」
「ん?」
「なんでそんなに僕にこだわるの」
代わりに、僕は少しだけ身構えてそんな質問をした。兄さんなら、きっとしないであろう質問を。
「カイのことがもっと知りたいからだよ。いっぱい知りたいことはあるけど、でもその中でも一番知りたいことがあるから」
「一番知りたいこと?」
「うん。どうしてカイは、移植手術が成功してこうやって生きてるのにうれしくないって言ったのかなって」
それは昨日、夜に質問されて僕が返した答えだった。
僕の代わりに兄さんが生き残るべきだったという呟きに続く形で出た言葉だ。
その後すぐに、なぜか夜が急に会話を切りあげてしまったのでうやむやになったけど、そうならなくてもその続きを口にするつもりなんてなかった。
だから僕は、そんなの夜には関係ないだろと突き放そうとした。
「私、そんなのイヤだよ」
だけどその前に、いつの間にか立ち上がって僕を見下ろす形になっていた夜がそう呟いた。
「私、イヤだ。カイが生きててよかったって思っててくれなくちゃイヤ」
「……なにそれ。なんで」
「誰かが死ぬ代わりにその臓器をもらって生きられたなら、生きた人はそれが幸せだって思ってくれないとヤだ。だからカイには今生きてることをうれしいって思ってほしい」
夜の視線はどこまでも透明で、なぜか儚くも見えた。その一方でよくわからない迫力も感じた。
「そんなの、どう思うかはその人の勝手だと思う……」
だから僕は反論しつつも、声に力がこもらなかった。夜の気配に圧倒されていた。
「勝手かもしれないけど、でも私はイヤなの。カイには幸せになってほしいの」
夜は相変わらず僕を真っ直ぐに見据えながらそう言った。表情は変わらないが、その様子はどこか必死にすら見えた。
「……どうしてなの」
「なにが?」
「僕のことを心配してくれてるのはうれしいけど、でもそれだけじゃそんなに必死にはならないはず」
「どういうこと?」
「臓器移植を受けて生き延びた僕が幸せでないといけない理由が、夜自身にあるんじゃないかってこと」
僕のその言葉に夜はあっと目を見開いた後、少しだけシュンとして「うん……」と頷いた。
「それは、なんでなの」
「……言えない」
「友達なのに?」
「私とカイは仲よしだけど、それは言っちゃダメなことだから」
ごめんなさい、と謝られた。なんだか僕が責めているような形になって少し胸が痛んだ。
それでも僕は夜の本名さえ教えてもらっていないのだ。友達って言葉を真に受けたわけじゃないけど、やっぱりこれはあまりにも不公平な気がした。
けど同時に、僕には夜が肝心な部分を言えない理由についてなんとなく予想がついていた。
「じゃあ、一つだけ教えて。……きみは、どこの移植手術をするの」
だから、それを確認するために僕はそんな質問をした。
夜は少しだけ逡巡していたようだけど、それなら答えてもいいと思ったのか、やがてゆっくりと口を開いた。
「心臓」
ドクリと、僕の心臓が跳ねた。
夜は、心臓移植を待っている身なのか。
こんなにも元気で、どこも悪いところなんてないように見えるのに、まさか心臓だなんて。
なのに、どうして夜は笑っているんだろう。どうしてこんなにも屈託なくいられるんだろう。
「私は心臓移植の日を、ずっと待ってるんだぁ」
「……もう、予定は決まってるの」
「うん。たぶん、もうすぐ」
ニコリと、それが本当にうれしいことのように言う夜に、僕は思わず胸が詰まった。何かが込み上げてくるような気がして、それを慌てて抑えた。
僕はすぐに頭を切り替えて、そうだったのかと納得した。今の情報で、僕は自分の予想が当たっていることを確信した。
夜は心臓の移植手術を受けて生きようとしているが、既に移植手術に成功して生き延びた僕はそれを否定している。そのことがきっと許せないのだ。
臓器移植を受けて生き残ることは肯定されないといけない。生き延びた人は臓器を提供して死んだ人の分まで生きて、そして幸せにならないといけない。おそらく夜はそう考えているのだろう。だからこそ、そうじゃない僕は夜にとって必死に幸せになってもらわないといけない対象なのだ。
その構図を理解した僕は、心の底から夜の手術が成功することを祈った。だが同時に、それでも僕は自分が生きていることを肯定する気にはなれなかった。
夜の事情は夜の事情。
でも僕には僕の事情がある。
やっぱり僕は、どうしても僕の代わりに兄さんが生きるべきだったという考えを変えられない。
「僕も夜の手術は成功してほしいと思うよ。でも悪いけど、こっちは生きててよかったとかそういうことを考えてる状況じゃないんだ。やらないといけないことがあるから」
「やらないといけないことって何?」
首を傾げる夜。幻想的な見た目とこういう子供っぽい仕草との落差は、いまだにちょっと慣れない。
「……いろいろ」
それはともかく、僕は質問の答えをはぐらかした。兄さんの代わりを務められるような人間になると口にするのに躊躇したからだ。人に宣言するようなことじゃないし、なにより大それたことだったので、言葉にできなかった。
「あーずるい。ずるいよカイ。秘密にしないで教えてよ」
「教える理由がない」
「私達友達だし、仲よしだし、私はカイのことなんでも知りたいから」
「それは全部夜の理由じゃないか。僕の方には理由がない。大体秘密ばっかりの夜にそんなこと言われたくないよ」
「それは、ごめん……。言っちゃダメって言われてるから……」
そんなに強く非難したつもりはないのに夜があからさまに萎れたので、なんだか罪悪感を抱いてしまう。
冷静に考えると、自分の病気について誰かに言ったりしないという夜の態度は正しい。ましてや臓器移植が必要な重大な病気だ。いろいろ守秘義務的ななにかもあるのかもしれない。
自分の知らないうちに手術を済ませ、勢いのままにその内容をぶちまけてしまった僕の方がよっぽどおかしいのだろう。なのに不公平感を抱いているというのは、我ながら違うんじゃないかと思ってしまう。
――海はすぐに自分が悪いんじゃないかって考えるよな。
頭の中にかつて兄さんから言われたことが不意によぎった。
そう、かもしれない。兄さんのように生きると決めた以上、こんなことを気にしてちゃダメなのかも。
「あ、でもねでもね」
僕が自分の思考に集中していると、急に夜が前のめりになってきたので、僕はハッと我に返った。
「言っちゃダメなこと以外は全部教えるから。私のこと、全部カイに知ってほしい。だから何でも訊いて」
「何でもって、そんなこと言われてもいきなりは思いつかないんだけど」
「えー。……あ、じゃあね、私が一番好きなお話を教えるね。月にどうしてウサギが住んでるかってお話。これって地域によってはウサギじゃなくてカエルだったりするし、ウサギで共通してる地域でも理由はそれぞれ違うんだ。その中でも私はインドのジャータカとか今昔物語集にあるお話が一番好きなんだけど、どんなのか知ってる?」
「……知らない」
「知りたい?」
「そりゃ、教えてくれるなら」
「えへへー、じゃあ言うね。昔々」
「あ、ちょっと待って」
僕は楽しそうに語り出そうとする夜を止めた。なんだか嫌な予感がしたからだ。
「もしかして、それを教える代わりに今度は僕のことを話せなんて言わないよね」
「えっ、なんでわかったの?」
驚く夜に、僕はやっぱりと内心呟いていた。悪い予感だけはなぜかよく当たるのだ。
「そういうことなら知りたくない」
「そんなぁっ?」
なんでなんでと絶対安静患者のベッドを揺さぶる夜。点滴の袋がゆらゆら揺れても気にした様子もない。
危なかった。勝手に変な取引にのせられるところだった。僕は自分のことなんて語りたくないのだ。常に兄さんの陰として生きてきた僕には語るべきことなんて何もない。何を語ってもそれは兄さんの裏返しでしかないからだ。存在の薄さを自分自身の口で語るなんて、そんなのはごめんだった。
だけど僕は、そんな考えの底に「特に夜には」という思いがあることに小さく驚いてもいた。
今まで自分の存在の薄さを誰かに認識されるのを気にしたことはなかった。学校などで僕が兄さんの陰みたいな存在と思われることに抵抗もなかった。それが当然だった。
けれど夜相手には、なぜかそれが嫌だと思っている自分がいる。僕に何らかのシンパシーを感じてくれているこの少女に、自分自身の弱い部分を見せたくないと思っているのだろうか。
「自分のことは言いたくないんだ」
僕は急に落ち着かない気分になって、そんなことを言って寝返りを打った。身体中がギシギシと痛んだけど、夜から顔を逸らしたかったのだ。
でもそうしたと同時に、僕はそんな行動に出た自分にがっかりもした。兄さんのようにならないといけないと思っているのに、結局はいつものように逃げているじゃないかと、自分を非難する声が頭の中に響いた。
「ねえねえ、カイのこと教えてよぅ。なんで黙ってるの? お話ししようよぅ」
ゆさゆさと、今度は絶対安静患者の身体にまで手を伸ばしてきた夜。
さすがにここまであからさまに遠慮なくされると、いい加減腹が立ってくる。しかし同時に、僕は腹を立てている自分に驚いてもいた。喜怒哀楽といった感情を抱くには、その相手とある程度近しい距離にいないといけない。どうでもいい見知らぬ他人に何か言われたところで何とも思わないし、以前のクラスメート達に兄さんと比較されて侮蔑のこもった視線を向けられた時でさえ、僕は特に何も感じなかったくらいだ。
なのに今は、昨日出会ったばかりに女の子に対しちょっと鬱陶しいと思っている自分がいる。僕はそんな自身の変化に戸惑っていた。
「……ああもう、わかったからやめてよ」
僕はそんな自分に耐えかねて再び向き直った。結局無視しきれず夜に付き合う形になってしまったのが癪だったけど、仕方ないと思った。
これは夜が無遠慮すぎるからであり、そして兄さんならきっと女の子との話くらいやりすごせるだろうと思ったからだ。もしかしたら夜の病気の話を聞いて邪険にはできないと思ったからというのもあるかもしれない。ようするに不可抗力だ。
「……忠告までに言っておくけど、今後は人の家の軒先にいきなり乗り込んできて、お茶とお菓子を催促するような無遠慮な真似はしない方がいいと思うよ」
とはいえ夜に押し負かされたことは気に入らなかったので、僕は幾分かの非難を視線に込めながらそう言った。
「ん? それってどういう意味?」
だけど夜はまるでピンときた様子がなく、不思議そうな顔で首を傾げた。
「カイの病室には来たけど、ここってカイの家じゃないよね? 軒先でもないし。それに私、お茶もお菓子も催促なんてしてないよ?」
「わざとじゃないよね? 今のは例えというか、皮肉というか。あんまり上手い表現じゃなかったのは認めるけど……」
「皮肉? 皮肉とは意地の悪い遠回しの非難のこと。つまり、カイは今私に意地悪したの?」
僕は言葉に詰まる。まさかそんなストレートな切り返しをしてくるとは思ってなかった。
なんて返したらいいものかと僕が悩んでいると、なぜか夜は急ににへらっとだらしない、それでいてとてもうれしそうな笑みを浮かべた。
「えへへー、えへへへへー」
「……今って笑う所?」
「だって私、うれしいんだよ。だって意地悪するのって、実は内心で好きだと思ってるからなんでしょ? 特に男の子が女の子に意地悪するのはそうだって本に書いてあったよ」
「普通に相手を嫌ってるからって場合も多々あると思うよ」
「え、カイは私のこと嫌いなの?」
途端に心配そうな顔になる夜に「そうかもね」とさえ返せなかった時点で、僕の負けだった。コミュ能力のなさがこういう時に出る。
僕が無言で視線を逸らしたので、夜はまたすぐに「えへへー」とゆるんだ笑顔に戻った。
「そっかー、カイは私のこと好きなんだね。私もカイのこと好きだからよかったー」
「……よくまあそんな恥ずかしいことを堂々と言えるね。しかも取り扱い要注意な単語を不用意に使ってさ」
「あ、じゃあカイはもっと私に意地悪なこと言っていいよ。むしろどんどん言ってほしい」
「そんなドMなことを面と向かって言われて、どうしろっていうんだ」
「どえむ? どえむってなに? 辞書にはそんな単語載ってなかったよ?」
マゾヒズムなら載ってるんじゃないのと言いかけて、やめた。自分から地雷を踏みに行く必要はない。
「そうだ。じゃあ私もカイに意地悪なこと言わないといけないよね? 皮肉とか冗談とかをいっぱい使うのが親密な間柄での会話だって本に書いてあったし」
「そういう偏った内容は鵜呑みにしない方がいいよ。というかそもそも、僕ときみの間柄が親密だってところにまず異議を唱えたい」
「きみじゃなくて、私はヨルだってば」
「人称代名詞の使用にまで文句をつけないでほしいね」
「どういう意地悪がいいのかな? 傷つけず、でもちょっと恥ずかしく思わせるようなのがベストらしいし」
聞いちゃいない。
夜はしばらく腕を組んでうんうんと唸っていたが、間もなく何かを思いついたような顔で僕に向き直った。
「カイって私と話す時、あんまり視線を合わせないよね? もしかして女の子と話をするのは慣れてない?」
「……別にそれは女の子に限ったことじゃない」
「あ、ほら、また視線を逸らした。図星なんだ。男の子は女の子のことでからかわれるのが弱いって本に書いてあった通りだね」
「それがどんな本か知らないけど、そういう不健全かつ偏見まみれの本は発禁処分にすべきだと思うよ」
「女の子との話に慣れてないっていうのは本当だよね?」
慣れてないってわけじゃない。慣れてるわけでもないが、別に相手が女の子だからって僕は特別緊張したりはしない。そういうのはどうでもいいと思っているからだ。だから厳密には夜の推測は間違ってるわけだけど、かといって真っ直ぐに反論もできなかった。
というのも、僕は確かに少し緊張していたからだ。ただしそれは女の子相手だからじゃなく、夜という少女が相手だからだ。
夜は不思議だ。言動は小さな子のように幼い。なのに見た目はまるで人形のような作り物めいた美しさを持つ。時折非現実的な雰囲気を醸し出しこっちの存在感まで希薄にする。心臓移植を待つ身であり、しかしそれを感じさせないほど元気な様子で、さらに異常なほど他人との距離が近い。
正直なところ、僕はまだ夜との距離感が上手く測れていない。なのに夜の方はグイグイと迫ってくる。そして一番の困惑は、わずかな不愉快さを感じながらも、同時にそんな夜を僕が自然と受け入れてしまっている点だ。
それが、なんだかたまらなく悔しい。いつの間にか僕の本棚に見知らぬ本が収まっていて、しかもまるで違和感がないような感覚。
僕は自分のそんな心境に戸惑って、夜の意地悪な質問にも答えられず黙り込むしかなかった。そんな心情が表情にも出ていると自覚できただけに、悔しさもひとしおだった。
「……えへへ」
「なんで笑ってるの」
無言を貫いていると、やがて夜がまたうれしそうな笑みを浮かべた。
僕はそこそこムッとしながら訊ねると、夜はさっきとは少し違って、まるで喜びをかみしめているかのように答えた。
「なんだかね、よくわからないんだけど。今のカイの表情を見てるとね、胸の辺りがきゅうって感じがして、それからほわほわーって温かい気分になるの」
「……なにそれ」
「カイが悔しそうな顔してるとね、なんだかすごく意地悪なことしたくなっちゃう。カイの嫌がることなんてしたくないはずなのに、不思議だね」
「……きみはドSの素養も持ってるみたいだ。業が深すぎるね」
「どえす? それも辞書には載ってなかったよ?」
「それ、いい辞書だと思うよ」
そう言い返すと、夜は「ありがとう」と満面の笑みで答えた。どうやら僕は皮肉ってやつが上手くないらしい。
「えへへ、うれしいなぁ。カイともっと仲良くなれた気がする」
「気のせいなんじゃないかな。錯覚の類だよきっと」
「でも、こうやっていっぱいお話しできてるし、カイのいろんな顔も見れてるから、やっぱり気のせいじゃないよ?」
そう言われて、僕は言葉に詰まった。実際その通りで、いつの間にか流されるように夜の相手をしてしまっている自分がいる。
夜はいかにもウキウキとした様子で、僕はこれからなし崩し的に質問攻めにあうのではと身構えた。
けれどその時、夜がふと何かに気がついたといった感じで、ベッドの横の棚へと目をやった。そしてそこに置いてあった文庫本を手に取って、しげしげと眺める。
それは芥川龍之介全集の一冊だった。空いた時間に手持無沙汰にならないよう、僕はいつも何かしらの文庫本を持ち歩いている。事故の時も同じで、それはたまたま鞄に入れておいたものだ。
鞄は無傷だったとのことで、今はこの病室のロッカーの中にある。以前気分転換になるかと思い看護師さんに頼んで出しておいてもらったのだが、結局読まずに放置したままだった。
「これ、カイの? アクタガワリュウノスケ……主に明治から大正時代に活躍した小説家。東京生まれ。号は澄江堂主人。俳号は我鬼……」
「……ずいぶん詳しいね。もしかしてファンなの?」
「ううん、違うよ。カイは好きなの?」
「……まあ、好きな作家かな」
「そうなんだ。私も読んだことあるよ。図書室に置いてあったから」
夜はそんなことを言いながら、文庫本のページをパラパラとめくっていく。
「なんだかちょっとボロっちいね、この本」
「年季が入ってると言って。気をつけてるけど、何度も読んでるとどうしても紙がへたってくるんだよ」
「へー、そんなに好きなんだねぇ。じゃあ内容もすっかり頭の中に入ってる?」
「それは……ある程度はだけど」
そのやや挑むような響きを持つ言葉に、僕は少しだけカチンときてそう言い返した。
実際には夜は別に挑発的な言動なんてしていないけど、僕の方が勝手にプライドを刺激された形だ。さっきは控え目に答えたけど実は芥川龍之介は僕の一番好きな作家だし、本好きとして内容を覚えているのかという問いは看過できないものでもある。
「じゃあねじゃあね。えっと……『鼻』に登場する鼻の大きな人の名前は?」
「禅智内供だろ」
「おお、正解だよ」
だから僕は普通に夜の質問に付き合った。答えられたことに内心で安堵しながら。
「さすがにそれはクイズとしては簡単すぎるよ。主人公の名前だからね」
「クイズ?」
僕の言葉に夜は不思議そうな顔で首を傾げていたが、やがてなぜか目をらんらんと輝かせ始めた。
「あそっか、これクイズだよね! 言われてみればそうだよ!」
そっかそっかと、一人で興奮している様子の夜。
「というわけでカイ、クイズやろうクイズ。この本を使って」
「……どうしたの急に」
僕は突然のことに戸惑うが、夜はやっぱり「えへへー」とうれしそうに笑う。
「実はカイと遊びたいなって思ってたんだぁ。でも何で遊べばいいのかなって考えてたんだけど、クイズがいいよ。というわけでクイズやろう」
「唐突すぎない? 大体急に遊びって、夜は僕の話を聞きだしに来たんじゃなかったの?」
「もちろん、それも忘れてないよ。カイと遊びながらカイのお話も聞くの。クイズに答えられなかったら罰ゲームで、質問されたことには絶対答えないといけないってことにしよう」
「ちょっと待って。罰ゲーム? しかも質問に絶対答える?」
「罰ゲームをつけると遊びが盛り上がるって書いてあったからね。これなら一石二鳥でしょ?」
平然とそんなことを言う夜に、僕は唖然としてしまう。
「どうしたのカイ? 一石二鳥っていうのは、一つの石を投げて二羽の鳥を打ち落とすことで、転じて一挙両得っていう意味だよ。一挙両得っていうのはね」
「……いや、そんなの説明されなくてもわかってるよ。夜の発想についていけないだけで」
「なんで? これってカイの好きな本だし、私も読んだことあるし、クイズになるでしょ? もしかしてカイはあんまり覚えてない? 自信がないの?」
それは、言葉の上では安い挑発だった。自信ないの? なんて、バカにするような笑みを浮かべながら言われたところで、僕は動じたりしない。
でも夜にはそういった気配はまるでなく、本当にそうならやめようと言い出しそうな雰囲気で、逆にそれがカチンときてしまった。もちろん、夜の手にあるのが僕が何度も読み返した芥川龍之介全集だというのも大きかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます