2-1

「で、結局海は部活には入らないのか?」

「読書部ってのがあったら考えたかもしれないけどね」

「へえ。じゃあ作ればいいじゃないか。なんなら俺も協力するぞ」

「あっても結局入らないかな。本は一人で静かに読むものだから」

「なんだよそれ。結局部活には興味ないってことか」

「そういうことになるね」

 僕が文庫本に目を落としながらそう答えると、兄さんはやれやれといった感じで首を振った。呆れているわけじゃなくて、しょうがないやつだなって苦笑している感じだった。

 これは夢だ。病床の中で見る夢。

 意識が戻って以後、僕は眠りに落ちるたびに兄さんの夢を見た。夢には例外なく必ず兄さんが出てきた。あまりにも兄さんの夢を見すぎたためか、夢の中でこれは夢だなとハッキリわかるまでになってしまった。

 だから断言できる。これは夢だ。兄さんを失った僕が見る悲しい夢。現実にはもう兄さんはいないと知っているから、夢なのに慰めにもならない。

 実は兄さんが生きていて「驚いたか? ドッキリってやつだよ」と笑いながら病室に入ってくるような夢も見たけど、ただ心が痛んだだけだった。夢は様々な荒唐無稽な状況を描いて兄さんが生きているかのように見せる。だけどそれがあり得ないとわかっていると、ひたすら虚しいだけだった。

 どこまでも乾いた悪夢。しかし夢は懲りずにまた生きている兄さんを登場させる。

「どこか適当なとこでも入ればいいじゃないか。気の合うやつも見つかるかもしれない」

「何その理由。そんなことのために部活に入るなんて間違ってるでしょ」

「生真面目なやつだなぁ。いいんだよ別に。人付き合いってのは大事だぞ」

「兄さんは先生みたいな物言いをするね。そもそも僕は一人でいるのが好きなんだよ」

 しかし、今回の夢は今までのとは少し雰囲気が違うようだった。

 これは僕の頭が生み出したあり得ない状況じゃなく、過去の記憶のように思える。

 昔、僕は兄さんとこんな感じの会話を交わしたことがある気がする。ただ、それがいつの頃なのかは覚えていない。中学の頃か、それともごく最近の高校に上がった後のことか。

「……はぁー」

「なんなの、そのわざとらしいため息は」

「そんなだから海はみんなから誤解されるんだよ。教室でも友達を作らないし、みんな海の正体がわからないんだ」

「人をバケモノみたいに言わないでほしいな。正体って、僕は見たまんまだよ。何も隠してないし」

「見た目は俺と同じだろ。だから余計にみんなが俺とお前を比較するんだ」

「その点については兄さんに申し訳ないと思うよ」

 僕の言葉に、兄さんが顔をしかめる。こういう時、どうして僕達は双子として生まれたのかと思わずにはいられなかった。普通に兄弟として生まれていれば、お互いにとってよかったのに。

「……まあ、俺はお前がそういうやつだってことは知ってるし、みんなにもそう説明してるんだけどな」

「そういうやつって?」

「大人しくて真面目で繊細だってこと。俺と違って」

 違う。僕はただ臆病なだけだ。自分自身で光を発することができないと知っているから、意識的に陰になろうとしているんだ。兄さんと違って。

「ただそれを勘違いして、お前に変なちょっかいを出すようなやつも中にはいるかもしれないからな」

「なにそれ」

「海、お前、誰かからいじめられたりとかしてないだろうな?」

 真剣な顔でそう訊いてくる兄さんに、僕は一瞬ポカンとした後、すぐに苦笑した。

 幸いなことに、僕はイジメなどの陰湿な目に遭ったことはなかった。たとえば無視されたり、持ち物を隠されたり、殴られたり、そういった直接的な被害に遭ったことは今まで一度もない。

 兄さんと比較して嗤われたり失望されたりするのはいつものことだけど、それは僕の認識ではイジメとは言わなかった。それは正当な評価だ。僕自身の自己認識とも合致している以上、それを不当な行為と悔しがる理由はない。

「もしかして心配してくれてるの?」

 僕がそう訊ねると、兄さんは少し顔を赤らめた。

「ち、ちげーし。心配とかじゃなくて、双子なら当然のことだろ」

 それを心配というんじゃないだろうかと思いつつ、僕はそんな兄さんのツンデレ反応に心が温かくなる。

 兄さんはいつでも僕に優しかった。僕は兄さんにいつも守られていたし、そのことに常に感謝していた。

 僕と違って全てを持っている兄さんは、まさに太陽のような存在だった。その光によって存在できる日陰である僕には、そんな兄さんに迷惑をかけないよう、息を潜めて生きていくことでしか報いることはできない。僕は兄さんが大好きだし、心から尊敬しているのだ。

「……でもまあ、心配だって部分はあるかもな」

「なに? デレるのが早すぎない?」

「何の話だよ。これからのことを考えるとやっぱちょっと心配になるっていうかな」

 やがて兄さんは、少しだけ神妙な顔で珍しく言葉を濁した。

 僕は「これからのこと?」と訊ねた。

「将来のことだよ。これから先どうなるかわからないだろ。それぞれ違う道を進むことになると、兄弟で離れ離れにもなるかもしれない」

「まあ、それが普通だろうね」

「えらく落ち着いてるなお前は。俺としては別にずっと一緒でもいいんだけどな。ほら、俺達一卵性双生児だし」

「一卵性双生児だからずっと一緒にいるっていうのも意味不明だけどね」

 僕はそう答えつつ、兄さんと離れ離れになる時のことを考えた。

 兄さんがいない頼りなさや不安はあったけれど、それよりも安堵の方が少し大きかった。

 兄さんの近くから僕という陰が消えてその優秀さが純粋に評価されるようになれば、それ以上にうれしいことはない。僕が一番恐れているのは、僕の存在が大好きな兄さんの汚点となることだ。

「海は、将来は何になりたいんだ?」

 そんなことを考えていたら、兄さんが今度はそう質問をしてきた。

「いきなりなに。別にまだ何も考えてないよ。兄さんはどうなの」

「俺か」

「兄さんならいろいろ考えてるんでしょ」

「そうだな。俺は(??????????)」

 僕が質問をし返すと兄さんは何かしらの答えを口にしたはずだが、そこだけ音がなかった。

 兄さんがなんと答えたかはあんまりよく覚えていなかったから夢でも再現しきれなかったのか、それとももう将来がなくなってしまったという事実が無意識に働きかけたのか。

 おぼろげな記憶によると、確かこの時兄さんは僕なんかではとても手の届かないような目標や職業などをいくつか口にしていた気がする。

「兄さんなら何でもできるよ」

「俺のことはいい。お前のことを聞きたいんだよ」

「だから僕はまだ何も考えてないって」

「別に具体的なものじゃなくてもいいんだ。将来こんな人間になりたいってのもないのか?」

 その日、兄さんは妙にその話題で食い下がってきた。それだけ僕のことが心配だったのかもしれない。

 僕はそんなことで兄さんの頭を煩わせているのが申し訳なくて、なんらかの答えを返したはずだ。とはいえ将来のことなど本当に何も考えてなかったから、きっと適当だったに違いない。その後の会話はよく覚えていない。

「……そうだね」

 だが、なぜか夢はそこで終わらなかった。さっきの兄さんの台詞のように無音にもならなかった。

 この先の記憶なんてないはずなのに、どうして続きがあるのだろう? もしかして、過去の記憶ではなくてこれも単なる夢なのだろうか。

 僕はなにやら考え込んでいる様子だった。僕は自分自身のことなのに、何を言うつもりなんだろうと不思議に思った。そこで初めて、僕はこの光景を客観的な視点で見つめていることに気がついた。

 やがて僕は、兄さんをまっすぐに見据えながら言った。

「僕は……兄さんみたいな人間になりたい」

 その言葉を聞いて、僕は思った。

 ああ、やっぱりこれは夢だ。

 これは過去の僕じゃなくて、今の僕の姿だ。兄さんの代わりになろうと思った僕が、過去の兄さんに決意表明をするなんて、なるほど荒唐無稽もいいところだった。

 もし兄さんが生きていたなら、そもそもそんな台詞を口にしなくてもいいというのに。

 ネタが割れたからか知らないが、夢はようやくそこで終わった。やはり今回のも悪夢の類だった。




 目覚めると、もうすっかり見飽きた天井がそこにはあった。

 病室の中は森の木々に透かされた太陽の光で、どこかモノクロ映画のような雰囲気が漂っていた。

 僕はベッドから上半身を起こそうとしたが、身体に鈍い痛みが走ったのでやめた。そのままぼんやりと天井を見つめる。

 そうしてしばらくぼーっとしていたが、やがてふとおかしなことに気がついた。

 そういえば僕は昨夜、図書室で意識を失ったはずじゃなかったのか。それなのにどうして自分のベッドで目が覚めたのだろう。もしかしてあの一連の出来事も夢だったのだろうか。

 僕が夜と呼んだ少女のことを思い出すと、あながちそんな考えも間違いじゃない気がした。昨日のあの経験は、夢オチだったという方がまだ現実感があった。

「おっと、お目覚めかい」

 そんなことを考えていた時、ドアが開いて病室に一人の男性が入ってきた。

 男の自分から見ても整った顔立ちとわかるイケメン。自信に裏打ちされたような微笑。薄っすらと茶色に染まった長めの髪も自然で、覗く耳には銀色のピアス。

 年齢は二十代後半くらいで、外見的特徴だけ見れば男性アイドルやカリスマホストの類と言われても納得できるような容姿だ。だがYシャツの上に羽織っているのが白衣である以上、信じがたいことだけど彼は医者なのだそうだ。

 荒木康介、と名乗った。僕の担当医だとのことだ。最初、朦朧とする意識の中でそれを聞いて悪い冗談かと思った。今でもわりと思っている。

「おはよう。具合はどうだい」

「……おはようございます荒木先生。別に、変わりありません」

「ならよかった。昨日は随分と無茶したみたいだけどね」

「昨日?」

「日付的には今日の未明か。まさかベッドから抜け出すとは思ってなかったな」

 僕はそれを聞いて「ああ」と何とも言えないリアクションをした。

 どうやらあの出来事の方は夢ではなかったらしい。それがわかって、よかったとも悪かったとも思わず中途半端な感触を覚えた。

「きみはそういう無茶をやるような少年には見えなかったけど? まあ人は見かけによらないっていうか、俺もこう見えて超優秀な医者だったりするし」

「だったりするんですか?」

「真顔で聞き返さないでよ。そこは笑ってスルーするノリだよ」

「すいませんでした。絶対安静って言われたのに」

「あ、ここをスルー? まあ別に謝らなくてもいいよ。とはいえ一応担当医として理由くらいは聞いておくかな。当病院に何かご不満でも?」

 先生のノリについていけないこと以外はありません、と言おうとしたが、やめた。

「別に、何も」

「まあ確かに、きみにはなんだか思いつめたような雰囲気はあったけどね。余裕がなかったっていうかさ」

 僕はその言葉を聞いて、視線を天井から荒木先生に移した。気づかれていたのか、と少し驚いた。

「でも今はもうそんな雰囲気はないかな」

「よく見てますね」

「超優秀な医者だからね。余裕がないってところはあんまり変わってないみたいだけど」

 冗談なのか本気なのか、自分で自分を優秀とハッキリ言えるところには感心する。それが嫌味に聞こえないことにも。

 学校にもこういう人はいた。いわゆる陽キャとかスクールカーストのトップとかいわれる類の人物だ。僕のような日陰の存在には敬遠されることが多いようだけど、僕自身はこういう人に別に反感を抱いたりしたことはない。そういった言動をとれるだけの何かを持っているのだということを知っているからだ。兄さんが、まさにそうだった。

「なんとなく居ても立ってもいられない気分だったんです。それでつい。すいませんでした」

「だから怒ってないって。逆に感心してるよ。あんな状態から生き延びて、リハビリを始める前に動き出すなんてね」

「珍しいんですか?」

「交通事故患者としてもかなりひどい部類だったし、加えてきみは臓器移植まで受けたわけだから。普通は免疫抑制剤の副作用も加わるところなんだが、きみの場合は特殊だ。一卵性双生児からの移植はいわばスペアパーツとの取り換えみたいなものだからね。それにしたって、もう動けるようになるとは驚きだけど」

 ずいぶんぞんざいというか、歯に衣着せぬ物言いだったけど、別に腹は立たなかった。

 これも先生のノリによるものなのか。あるいは、僕が兄さんの死をどんな形にせよ認めたことを察したのかもしれない。

「けどまあ気持ちで動いた部分が大きいだろうから、あんまり無茶はしないようにな。まだしばらくの間は安静にしておくことだ」

「それは、あんまり気が進みません」

 僕がそう返すと、荒木先生は「お」と少し意外そうな顔をした。

「ハッキリ言うじゃないか。理由を聞いても?」

「僕は早く動けるようになりたいんですよ」

 それは、僕のキャラとしてはまったく相応しくない積極的な台詞だった。

 だけどそれは今までの話だ。これからは違う。僕は、兄さんの代わりにならないといけないと決めたのだ。

 荒木先生は僕の言葉にしばらく黙っていたが、やがて苦笑しながら「きみはそういう少年には見えなかったんだが」とさっきと同じようなことを繰り返した。

「ま、元気になろうって気になるのは結構な話だ。けど、今はまだ我慢だな。何度も言ってるけど、きみは事故で一度身体がグチャグチャになったんだ。いくら回復が早いとはいえ、元に戻るには相応の時間と労力がかかる」

「元に戻るだけじゃダメなんです。早くリハビリを始めさせてほしいです」

「ずいぶん急ぐなぁ。何かやりたいことでもあるのかい?」

「……サッカー」

「へぇ、サッカー? 意外だな。進藤君ってサッカーなんてやってたんだ」

「いえ、やってませんでした。でもこれからはやってみるつもりです」

 僕は兄さんのことを思い浮かべる。ボールを自在に操りながらコートを縦横無尽に走り回る兄さんの姿を。

 それはスポーツ全般――特に球技が苦手な僕ではとても真似できるものじゃなかった。真似しようとも思わなかった。

 でも、これからはそうはいかない。

「早くサッカーができるくらいに回復したいです。それに普通の勉強もしないと。できるだけ早く」

「そりゃまた、えらいやる気じゃないか。どうかしたの?」

「……別に。ただ、兄さんのことを考えていたら、なんとなくそんな感じになったんです」

 僕は直接的な物言いを避けた。誤魔化す必要はなかったが、かといって誰かに宣言する必要もないことだった。

 荒木先生はそれを聞いて微笑を浮かべながら、やれやれといった感じで肩をすくめる。

「そういうことならリハビリも早めにできるようにするけど、それでもまだしばらくは安静にしてないとダメだね。無茶をするとその分寝たきり生活は伸びることになる」

「……わかりました」

「ま、気持ちはわかるよ。ずっとベッドの上ってのは退屈だろうし、ここは特殊な場所だからお見舞いも自由にはさせてやれないからな。ご両親にもまた会いたいだろう?」

 両親と聞いて、そういえば意識が戻った後に父さんと母さんがお見舞いに来ていたことを思い出した。

 ただその頃はまだ頭がハッキリしていなかったから、ほとんど夢心地で二人の話を聞いていた。何を言っていたのか、正直ほとんど覚えていない。

「両親は、何か言ってましたか?」

「きみが助かってよかったとか、今後どうなるかとかはもちろん訊かれたよ」

「それ以外では?」

「うん? それ以外って、きみの容体に関しての話以外は特に何も。なんか気になることでもあるの?」

 どうして助かったのが僕じゃなく兄さんじゃないのか。

 そんなこと、父さんと母さんが口にするはずがないのに、僕は何を考えているのだろう。たとえ心の底でそう思っていたとしても。

 僕は「いえ」と首を振って誤魔化した。

「……昨日、ベッドを抜け出して何かあったのかい?」

「え?」

「いや、なんか今までと少し雰囲気が違うからさ。心境の変化の理由も知りたいところだね」

 その問いかけに、僕はどう答えていいものか迷った。

 兄さんの代わりになろうという決意を話すのがためらわれたってだけじゃなく、それ以上に図書室での出来事が口にしにくかった。

 よく考えてみると、別にあえて秘密にするようなことじゃない。同じ入院患者の少女に会って話をしたというだけのことだ。

 でも僕には、どうにも夜という少女の存在を言葉で伝える自信がなかった。夢の中の景色を、それを実際に見ていない人に説明するような頼りなさがあった。

「いえ、別に何も」

 僕は結局そう答えた。その直後に、荒木先生に夜のことを訊けばいいんじゃないのかと思った。

 同じ入院患者なら、医者である荒木先生は何か知ってるはずだ。そう考えつつも、僕の口からはなぜかそれを訊ねる言葉は出てこなかった。

「……あの、ちょっと質問があるんですが。ここって臓器移植手術を待つ子供達の病院なんですよね? 僕以外の入院患者って、どういう人達がいるんですか?」

 その代わり、僕はそんな婉曲的な質問をした。夜のあの入院患者とは思えないくらい元気な姿が頭に思い浮かんだ。

「いろいろだよ」

「いろいろ、ですか」

「本当にいろんな事情の子達が集まってきてるんだ。みんな臓器移植を待ってるって点は同じだけど、置かれている状況は個々人でまるで違う。病状も、必要としてる臓器もね」

「……一見病気になんて見えないような子も?」

「いるね。元気そうに見えて手術しないと余命が差し迫ってる子もいれば、寝たきりで身体も動かないのに長く生き延びる子もいる。移植が必要となる理由もそれぞれだし、かなり特殊なケースだってある」

 夜はどうなんだろうと思った。彼女も余命が差し迫っていたりするのだろうか。

 そう考えると、お腹の辺りが少し重くなった気がした。

「そういう意味じゃきみもかなりの特殊ケースだ」

「どういう意味ですか?」

「まず病気じゃなくて事故だったこと。臓器提供者、つまりドナーが既にいたことだ。そしてもう手術が無事に終わって後は回復を待つだけっていう点。どれをとっても一級品の特殊さだな」

 先生の表現はよくわからなかったけど、自分の置かれている立場が他とは少し違うということは理解できた。

「後はリハビリをして完全復活するだけだ。普通だったら移植手術が成功して回復段階に入った患者はここを出て転院するところなんだが」

「じゃあ僕も別の病院に移るんですか?」

「……きみの場合はそこも特殊でね。一卵性双生児間の臓器移植例はかなり希少だから、いろいろと今後のためにデータを取りたいのでここに残ってもらうことになったんだ。研究のためっていったらあれだけど、ちゃんと面倒は見るから、そこはご了承願いたい」

 荒木先生は申し訳なさそうに少し顔をしかめながらそう言ったが、僕は「そうですか」と特に気にせずに答えた。

 病院側が僕を研究対象として見ていようが、そんなことはどうでもいいことだった。むしろ転院なんて面倒なことにならず、身体の回復に集中できるからよかったとさえ思った。

「すまないね。ま、そんなわけできみは基本的に元気で、後は身体が動かせるようになるのを待つだけって状態だ。だからこそ余計にじれったくなるかもだけど、きみがおイタをすると担当医の俺が叱られるんで、大人しくしといてねってこと」

 荒木先生はそう言って笑みを浮かべた後、他に質問はと言われて首を振った僕を残して「じゃあそういうことで」と病室から出ていった。

 ドアが閉まった後、僕は再び天井を見上げてこれからのことを考えた。

 早く動けるようになって、兄さんがしていたことをできるようにならないと。可能かどうかはわからないけど、僕はそうしないといけない。

 とはいえ、荒木先生の言う通り無茶をしてもいたずらに療養期間が延びるだけというのはその通りだろう。

 僕は身体が――兄さんの血肉が早く馴染むよう祈りながら目をつぶった。今はとにかく眠って回復を待つ以外にない。

 その時、ふと僕は昨夜の夜の言葉を思い出した。またあの図書館で同じ時間に会おうと彼女は言っていた。もちろん、僕にはそんな約束を守る義務なんてなかった。ましてや、僕と同じクローンだなんて性質の悪いからかいを残して去っていくような女の子との約束だ。

「…………」

 僕は夜のことを忘れて眠ろうとして、今まで眠ろうと意識して眠れたことなんてなかったことを思い出した。

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