1-2
兄さんの名前は陸といった。
海という僕の名前と対になっていることから大体予想できるように、僕と兄さんは双子だった。
双子にも二種類あるけど、僕達は一卵性双生児というやつだ。遺伝子レベルで全く同じなので、もちろん見た目もそっくりだった。
ただしそっくりなのは外見だけで、中身はまるで違っていたのだけれど。
「その日、僕達は親戚の家を訪ねるために二人だけでバスに乗ってた。そこで事故が起きたんだ。僕はその時のことをほとんど覚えていない。意識が戻ってから聞いた話だと、対向車線のトラックがカーブを曲がり切れずにバスの横っ腹に突っ込んだらしい」
先生がそう淡々と語っていた。だから僕も淡々と口にする。他人事のように語らないと、語れないこともある。
「僕達の乗っていた位置はまさにそのど真ん中で、特に僕は直撃だったらしい。腕や脚はもちろん、重要な臓器がいくつも損傷してたと言ってた。一方で兄さんが怪我をしたのは一箇所だけだった。ただ、その一箇所が致命的だった」
頭だ。頭部だよ。
先生はぼんやりと天井を見上げながらそう言っていた。
兄さんの身体には奇跡的に傷一つなかったが、頭部のダメージは深刻だったそうだ。救出された後少しの間は意識があったそうだが、すぐに昏睡状態に陥り、そして間もなく呼吸がなくなって脳波が停止――いわゆる脳死状態と判定されたということだ。
その頃、僕は文字通り生死の境をさまよっていて一刻の猶予もない状況だった。すぐさま、それが当然と言わんばかりの判断がなされた。即ち、脳死状態の兄の臓器を弟へと移植するべきだ、というものだ。
僕は実際には臓器だけじゃなく、筋組織や皮膚、血液までもを兄さんからもらった。
僕達は一卵性双生児の兄弟。同じ遺伝子を持つ天然のクローン同士だ。拒絶反応などあるはずもなく、僕は無事に生き延びた。そして、結果として兄さんは死んだ。いや、医学的には既に死んでいた兄さんから臓器が移植されたという構図なんだろうけど、そんなことは関係がない。
「僕は生き延びて、兄さんは死んだんだ」
改めて、僕はその事実を口にした。それがどれほど理不尽なことなのかという気持ちを強く込めながら。
話している間に全身の痛みはより激しくなって、腹の中で渦巻く正体不明の熱量が暴れる。
どうしてなんだ? なんでこんなことが起こる? 僕はこれからどうすればいいんだ?
実際に言葉にしてみたことで、ベッドの上で繰り返していた問いが再び頭の中を回り出す。
どうしてこんなことを会ったばかりの謎の少女に話してるんだろうという疑問も、そんな回転に巻き込まれて消えていった。
「えっと、つまりカイのお兄さんは、カイのドナーになったってことだよね?」
だけど、僕がそんな風に動揺している一方で、夜は相変わらず無邪気な雰囲気のままだった。
いや、それだけじゃなく、続けてパンッと手を合わせたかと思うと、満面の笑みを浮かべながらこんなことを言い放ったのだ。
「よかったねぇ。カイが生きてて」
「全然よくない!」
僕はその言葉に、反射的に声を荒げた。
夜は僕の剣幕に目を見開いてビクッと身体を震わせる。
「あ、ごめ……」
それを見て、僕は咄嗟に謝った。
けれど、身体の奥からせり上がってくる反感と初めて女の子に怒鳴ってしまったという後ろめたさが喉でぶつかって、上手く声にならなかった。
「……どうしたのカイ? どうして大きな声を出すの?」
夜は本気でわからないといった感じでキョトンとしていた。
僕はその反応にますます気後れする。まるでこっちがおかしなことを言ったみたいだ。
「……きみが非常識なことを言うからだ」
「非常識? なにが?」
「なにがって……」
「私はカイが生きててよかったって思ってるよ。カイが生きてなきゃ、こうして会えなかったもんねぇ」
「でも、それは兄さんが僕に臓器を提供して死んだからだよ」
「お兄さんは脳死だって判定されたんだよね? 法律上、脳死は不可逆的な人の死なんだよ。そして人は本来の性質として他者に臓器を提供して然るべき存在と規定されている。だからそれが可能な脳死者は人が普遍的に持つ善意の発露として、生前に敢えて拒否する意思表示がない限り臓器の提供をすべきだと法律上定められている」
突如流暢に法律について語り出した夜に、僕は面食らう。
さっきまでは、まるで小さな女の子のような幼い雰囲気をまとっていた少女だったのに、今は別人のように大人びて見えた。
そういえば、さっきも一度こんな感覚を覚えたような気がする。
月光の粒子が夜の身体にぶつかって輝き、透明な視線が真っ直ぐに僕を見据えている。その神秘的な姿に、また僕は現実感を喪失しそうになった。
「だから、お兄さんの臓器がカイに提供されたのは当然なんだよ。そうじゃなきゃダメなの。カイが死んじゃダメ」
けど、夜はまたすぐにえへへと子供っぽい笑顔になって、張りつめた気配は消えた。
「……そういうことじゃないよ」
僕は戸惑いを覚えながらも、かろうじてそう反論した。
一瞬気圧されてしまったけれど、それはともかくとして夜の言葉に素直に頷くことは、僕にはできない。
「そういうことじゃないってどういうこと?」
「僕に臓器を提供したのは兄さんの意思じゃない。法律とかも関係ない」
「お兄さんの意思? でも、お兄さんもカイに臓器提供できてよかったって思ってるよ」
「なんでそんなこと言い切れるんだ」
僕は少し気色ばんだ。しかし夜は全然気にした様子もなく、平然と言った。
「だってわかるもん。お兄さんが脳死して、カイが死にそうになってる。だったら臓器をあげるのが当然だって思うよ」
それは力強く、そして残酷な理屈だった。そんな残酷な理屈が、無邪気な夜の口からするりと出てきたことに僕は驚いた。
今まで敢えて考えないようにしていたけど、この病院にいるということは夜もまた何らかの臓器の提供を待つ身なのだろう。そんな境遇が、ここまでのシビアさを彼女に与えたのだろうか。それにしたって夜は屈託がなさすぎる気がした。
僕はだんだんムカムカとしてきた。夜の言ってることは確かに正しいかもしれない。でもそういうことじゃないんだ、と僕の心は叫んでいた。
顔を上げると、夜と目が合う。その透明な視線は僕の心の奥底まで見通しているかのようだった。そう考えた瞬間、僕の中で渦巻いていた熱が、形となって口から出た。
「……僕が生き残るべきじゃなかった」
それはずいぶんと静かな声だった。自分のそんな声に、ドクリと一つ心臓が跳ねた。
「ん? なに? どゆこと?」
「僕じゃなく、兄さんが生き残るべきだった」
「え? え? 意味がわからないよ? だって脳死したのはお兄さんの方でしょ?」
夜は本気でわけがわからないといった顔でしきりに首を傾げていた。
しかし、それも無理はない。現実の話をしている夜に対し、僕はその現実そのものを呪っているのだから、話が噛み合わないのは当然だった。
けれども僕は、その辺りのことをいちいち説明する気はなかった。
「うーん。ううーん。うううーん」
僕が何も言わずに黙っていると、夜は難しい顔をして唸りながらなにやら考え始めたようだった。腕を組んで、しきりに頭を揺らしている。
だけどやがてピタリと動きを止めると、どこか恐る恐るといった様子で僕の顔を覗き込んで訊ねた。
「……もしかして、カイはお兄さんの臓器を移植されて生きてるのがうれしくない?」
「うれしくないよ」
「うそぉ!?」
即答すると、夜は驚いた様子で声をあげた。というか、なんだその今更な質問はと思った。
やっぱりバカにされているのかと一瞬考えたけど、夜は間違いなく本気でビックリしているようだった。もしかして、僕の発言はそれだけ常識はずれなものだったのかもしれない。
そういえば、ここは移植手術を待つ子供達の病院で夜もその一員だ。せっかく移植を終えて生き残った僕がそんなことを言ったので、そういう意味では信じられないと思われても無理はない。
でも、だからといって訂正なんてしない。事実として、僕は今の僕の存在をどうしても認められないのだから。
「…………」
僕は無言のまま夜の反論を待った。これまでの会話の流れを考えるとまた「なんで?」「どうして?」と追及されるだろうと身構えていたのだ。
だけど予想に反して、夜は何も言ってこなかった。それどころか身動き一つしない。しばらくの間そのまま待っていても、何の動きもなかった。
「……夜?」
そこで初めて、僕は様子がおかしいことに気がついた。
最初は何か言うべきことでも考えているのかと思っていたけど、どうもそうではないらしい。
夜はその場に立ち尽くしていた。どこか放心したように、ジッとこちらに視線を向けたまま、まるで彫像のようにそこに佇んでいた。
その黒い瞳は僕を映しながら、しかし何も見てはいなかった。突然気配が希薄になり、さっきまで普通に会話を交わしていたはずの少女が不意にマネキンかなにかに入れ替わったような奇妙な感覚に陥って、僕は混乱した。
僕は何か話しかけようと口を開きかけたが、その寸前で「あっ」と声をあげた。なぜなら急に、夜がフラリとこちらに倒れかけたからだ
慌てて点滴台から手を離して支えようとしたけど、その寸前で夜はハッとした様子で踏ん張り、少しだけ前につんのめった。
「あ……ごめん。ちょっとボーッてなっちゃった。今日はもう時間みたい」
「時間?」
「うん。そろそろ戻らないと」
戻るということは、自分の病室にという意味なのだろう。大丈夫なのかと思ったけれど、そう答えた夜は笑顔だったので、僕は何も言えなかった。
さっきのあれは一体何だったんだろうと思ったけれど、ここは病院だ。そんな気配は微塵も感じられないけど、夜もまた何らかの事情を抱えてここにいる以上、あまり詮索はしない方がいいように思えた。
僕はそのまま夜を見送ろうとした。おそらくもう会うことはないだろうと考えながら。しかしその時。夜は僕の顔を覗き込むようにしてニカッと笑顔を見せた。
「カイ、明日もここに来て」
「え? 明日もっていうのは」
「私、カイといっぱいお話ししたい。カイのこと、もっと知りたい」
ストレートにそんなことを言われて、僕は照れるのを通り越して驚く。
今まで僕に、兄さんの双子の弟という以外で興味を覚えた人はいなかった。
「でも今日は無理だから、明日ここで同じ時間に。絶対来てね」
「あ、うん」
僕は勢いに押されて、思わず頷いてしまっていた。
すると夜は僕の答えに満足したように、またえへへーと幼い笑みをうれしそうに浮かべた。
「じゃあね。明日ね。絶対だよ」
夜は何度も念を押して、図書室から出ていこうとする。その動きに長い髪が揺れ、月光の粒子が薄暗い室内に散らばったように見えた。
その瞬間、僕の頭の中に妖精という単語がまた浮かんで、同時になぜかそのまま夜とは二度と会えないんじゃないかという感覚がして、気がついたら呼び止めていた。
「ん? どしたのカイ?」
振り向いた夜に、僕はなんで声をかけたのかと自分の行動に困惑していた。
けれどすぐに、そういえば答えを聞き忘れていたことがあったと思い出した。
「……それできみは、夜は結局何者なんだ?」
その問いに、夜は最初キョトンとした顔で何度か瞬きをしていたが、やがて「うーん」としばらく考え込んだ後「うん」と一度頷いた。
「私もカイと同じ、クローンだよ」
そしてニッコリと楽しそうに笑うと、僕の反応も待たずにそのまま図書室から消えていった。
僕はその答えに呆気に取られていた。やっぱり僕は、あの子に最後までからかわれていたんだろうか。
そう思ったら、なんだか脱力した。ついに何もわからなかったけど、もうそれでいいような気もした。どこの誰かもわからない、ひょっとしたら実在したかどうかさえ怪しい相手だとわかっていたからこそ、僕も言いたいことを言ったのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は一人になった図書室の中でしばらくの間佇んでいた。けれど間もなく全身が重くなり、絡みつくような痛みに立っていられなくなった。
どうやら夜のおかげで薄まっていた現実感が、痛みという形で舞い戻ってきたようだった。
僕はその場に座り込み、壁に背を預けた。病室には戻れそうもないと悟った時「このままじゃダメだと」という言葉が、あの全身を駆け巡る熱と共に頭の中に浮かんだ。
その時不意に、僕は「ああ」とごく自然にその熱量の正体がわかった。意識が戻って兄さんが死に、僕がその命を奪って生き延びたとわかった時から、ずっと僕の中にあった正体不明の熱量。
僕なんかじゃなく、兄さんが生き残るべきだった。けど、現実は僕が生き延びてしまった。じゃあ、どうすればいいんだ? とずっと自分自身に問い続けてきたわけだけど、答えは呆気なく見つかった。
これからは、僕が兄さんの代わりとして生きていけばいい。
なんだ、言葉にしてみればこんな簡単で当たり前のことだったのか。どうして今までわからなかったんだろう。
僕は痛みと熱で朦朧とする意識の中、そんなことを考えてふっと笑った。本当に、僕は頭が悪い。
ああ、ダメだ。このままじゃダメだ。身体が動かないけど、もし兄さんだったらこれくらいのことは平気なはずなのに。
兄さんの命を奪って生き延びたんだから、これからは兄さんの代わりとして生きていく。これくらいで音をあげてる場合じゃないのに。
僕はその場に倒れる。ふと、夜の姿が頭に浮かぶ。正体不明の少女。夜が形を持ったような。
結局、夜のことは何もわからなかった。女の子の相手に慣れていた兄さんなら、もっとうまく会話ができていただろうに。
このままじゃダメだ。このままじゃ。
兄さんの代わりに、ならないと。
今や正体の判明したそんな熱量に揺られながら、僕はそっと目を閉じてそのまま意識を手放した。
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