0-3「泥」

 雨上がりの夕方、先程までの大雨の余韻が、湿気と不穏さとして静まり返った街を漂っていた。

 普段であれば、隣の人の声すら掻き消されるほどの喧騒に包まれている歓楽街。しかし、どういう訳か、この日は嘘のように静まり返っていた。

───ズチャッ、ズチャッ、ズチャッ…

 そんな街に響くのは、何かの濡れたような足音。

 足音は徐々に道端に停めてある車へと近づいて行く。わざとなのかは分からないが、足音の主はゆっくりと歩き、まるで誰かに聴かせるように足音を立てる。

 そして、足音を聴かされている「誰か」は車の中にいた。

───ズチャッ、ズチャッ、ズチャッ。

 足音は車の後部座席のドア前で止まった。直後、何かがドアを掴み、ゆっくりと開かれていく。

 ドアを開いたのは、全身から泥を噴き出す人型の異形。視覚が無いのか、車内を手探りで探しだす。シート、その下、荷台、と満遍まんべんなく。

 人通り車内を触り尽くした泥怪人は、泥だらけになった車内を前に眺めるように立ち尽くし、またノシノシと歩み出した。

「行った…?」

 車内の誰かがそう呟いた瞬間、泥怪人は車のトランクを勢いよく引き剥がした。その中には、涙目でうずくまる少女の姿があった。

「あ…ああ…」

 奇怪な異形を目の当たりにした事で、少女の恐怖は臨界点に達し、今まで抑圧されていた感情は声となって放出された。

「イヤアァァァッ!」

 泥怪人はその悲鳴に呼応するように、さらに勢いよく泥を噴き出す。そして、かつて手であったであろう部位で少女の右足を掴み、トランクから引きずり出す。

 泥怪人の頭から胴にかけて、大きな亀裂が入る。少女は自身を丸々飲み込もうとしているのだと直感し、より激しく抵抗する。

「イヤッ!離して!イヤアァ!」

 しかし、泥怪人を引き剥がそうと伸ばした左足は泥に飲み込まれてしまう。

 身動きがとれなくなった少女は、もはや悲鳴も上げなくなった。だだ空を見つめ、天に奇跡を祈ることしか出来なかった。

(お願い、誰か助けて…!)

 そして、泥怪人は少女を飲み込もうと、その足を引っ張る。その時だった。

 少女の視界を黒い物体が横切り、瞬間、足を引っ張られる感覚が無くなる。

 宙に浮いた脚はそのまま地面に落下すると思いきや、何者かに支えられ静止。何者かはそのまま背中にも手を回し、少女は抱きかかえられる。

「大丈夫ですか?」

 突如聞こえた少年の声。少女は声の主を一目見ようと上体を起こそうとするが、腰が抜けてしまったのか起き上がれない。

 少年の眼が少女の顔を覗き込む。マスクをしており、その素顔は見えない。

「あ…貴方は?」

「俺は…警備員みたいな者です」

「警備員…」

「立てそうですか?」

 少女は立ち上がろうとするが、やはり腰が抜けていて動けない。

「駄目みたいです、腰が抜けてしまって…」

「…まずいな」

 少年は先程の泥怪人を見る。切り落とされた腕は既に再生し、こちらに向かって歩き出していた。

「とりあえず安全な所に運びますね」

 少年はそう言うと、少女を抱きかかえたまま立ち上がり、泥怪人と逆方向に走り出す。少年は最初こそ小走りだったが、だんだんと加速していき、やがて車のそれにも匹敵する程になる。

「嘘…」

 全身泥の怪人、人のそれをはるかに超える身体能力を持つ少年。少女は目の前で間髪なく起こった非日常に、ただ唖然としていた。

───ドサッ、ドサッ、ドサッ…

 後ろから聞こえる泥怪人の足音は、先程のゆっくりとしたものから、勢いと重みのあるものへ変わっていた。

「少し、揺れます…よっ!」

 少年は、少女への忠告と同時に前方へ跳躍。跳躍した少年は前方の低層ビルの壁に着壁、そのまま壁を蹴り左へ跳ぶ。

「キャッ⁉︎」

 乱暴な方向転換に当然身構えることなどできず、少女の体には相当な負荷がかかる。

「大丈夫?」

「ちょっと…跳ぶなら跳ぶって、もっと先に言ってくださいよ!」

「ごめんごめん、だってあれから逃げないとだし…」

 あれ、とは泥怪人のことを指しているのだろう。少女は少年の肩越しに振り返る。

───ドサ、ドサ、ドサ、ドゴーン!

 泥怪人は、先程少年が踏みつけた壁に勢い余って衝突。壁は易々と破壊され、泥怪人はビルの中へと消えた。

「あんなのに追突されたら、俺たち粉々だよ」

「ひっ…」

 少年の言葉に想像してしまったのだろう、少女は短く悲鳴を上げる。

「それにスピードでは奴の方が上だしな」

「ええっ⁉︎」

「大丈夫だって、あのスピードで鉄筋コンクリートに激突したんだ、暫く動けないだろうよ」

 少年が少女をなだめた直後だった。

───ドサッ、ドサッ…

 背後から再び足音が聞こえてくる。

「…ん?」

 少年は思わず立ち止まり、振り返る。少年の予想は外れ、泥怪人は何事もなかったかのようにこちらに向かって来ていた。

「そんな…!」

「馬鹿な…あの衝撃を無効化したのか⁉︎」

 少年たちは、泥怪人の強靭さに驚愕していた。

───キイィィィッ!

「乗って!早く!」

 唖然としている少年の耳に甲高いブレーキ音と聞き慣れた女性の声が聞こえ、ハッとして声のした方を向く。

「スミくん!早く!」

 声の主の女性はバイクにまたがり、少年に向かって手を招いていた。

「紫雲…!」

 艶のある黒髪、雲のように白い肌、どこか幼さを感じる小顔。

 少年はその女性を紫雲と呼んだ。

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