番外編

追憶編

1話 隠密・ウルティオラ

※前書き※

 過去編。全8話。よろしくお願いします。

※前書き※


 覚えているのは、深海のような苦しさだ。

 暗く、冷たく、心細い。

 指の先から冷え込むようで、骨の髄から凍てつくようだったのを、俺ははっきり覚えている。


 だからだろうか。

 今でも、時折不安になる。

 あの日、アリシアと出会えなければ――



 それは、秋霖の後に訪れた晩晴の事。

 水無川に斜陽が照り返していたことを覚えている。


 別に、情景に感銘を受けたわけではない。

 ただの事実として記憶しているだけだ。


 河川敷を、上流に向かって歩き続ける。

 川はいい。

 敵から逃げやすく、攻撃を仕掛けやすい。


 川の匂いが立ちこめる。

 水草や、泥などの、むせ返るような自然の香りだ。

 しばらく行けば、大きな橋が架かっている。

 その橋の下が俺の目的地だった。


『――報告。任務、#2757達成』


 緩やかな坂道に立ち、俺は一人呟いた。

 すると、どこからともなく黒い霧が現れて、人の形を取った。やがて不確かな影は実体を持った。現れたのは俺の上司の「お頭」だった。


 お頭は、俺の報告に何かを返す事は無く、ただ、次の言葉を口にした。


『ウルティオラ、次の仕事だ』


 それに対し、俺が思ったことは……覚えていない。


 このころの俺は、感情を持たない道具だった。

 王国の影として、また隠密として生きていた。


 そのくせ、依頼の内容は、一つ残らず覚えている。


 魔族領への諜報活動に情報操作。

 最前線の戦場で遊撃手を務めた事もあれば、国内のスパイをあぶり出したこともある。


 たいていの場合が命懸けだった。

 駒の替えなどいくらでも利く。

 そういう事だったんだと思っている。


 だが、俺は生き伸びた。

 何度死線を経験しても、必ず生きて帰ってきた。

 おかげで、随分古参に分類されるらしい。


 ふと、お頭の手に収まるファイルに目が行った。癖みたいなものだった。生き残るためには、情報の一つも取りこぼしてはいけなかったから。

 そのファイルは、今までと同じ色、同じ大きさだった。だけど、前まであった傷跡が無かった。つまり、新たに購入したものだという事が分かる。


(……ああ、また一人、死んだのか)


 そのファイルには、隠密となった人間の経歴が残されている。どこの生まれで、どんな人間関係で、いつ生まれて、いつ隠密になったのか。そんな情報が記されている。


 また、隠密の人数は一定だ。

 死亡などで欠員が現れると、新たに補充される。


 この二つから、ファイルが新しくなる理由なんて、一意に特定できる。欠員が現れて、新人を補充した。十中八九正解だろう。


 悲しい、と思う気持ちはもちろんある。

 だが、それは死を悼んでの感情なんかじゃない。


(ああ、俺は「ヒトデナシ」だ)


 自分に対する失望だ。


 隠密同士は、基本的に面識がない。

 たまたま同種の任務について、情報のやり取りをする場合もあるが、顔を合わせず、仲介人を通しての交流程度が普通だった。


 無理がある。

 いくら仲間と言っても、知らない人間の為に涙を流す事なんて。


 祖父の祖父のそのまた祖父の死に、涙することができるだろうか。そのまた曽祖父であったなら? 最初に生まれた人間の死を嘆くことができるだろうか? 俺に感じられる精一杯と言えば、せいぜいそれによく似た刺激程度だった。


 ……ああ、思い出した。


 このころの俺は、感情を持たないんじゃなくて。


 ――感情が、死んでいたんだった。



 死んだ感情というものは、どうにも、復活しないらしい。どんな綺麗な景色を見ても、街行く人の幸せそうな笑顔を見ても、前にもまして、何も感じることが無くなった。心が揺れ動かなくなった。


 こんな言葉を聞いたことがある。

 豆腐メンタル。

 非常に精神が弱い人間の事をこう呼ぶらしい。


 いや、違うだろ。

 豆腐は崩れたら元に戻らない。

 だが、そんな事を謳う人間は往々にして、少し期間を開ければまた日常へと戻っていく。


 要するに、彼らの精神はそれほどやわじゃない。

 あるいは、再生能力を持った豆腐なのだろうか。

 それはそれで希少価値が高そうだ。

 砂の山とかの方がふさわしいと思う。


 本当に豆腐メンタルだったなら。

 その言葉を理解するころには、とっくに心が壊れているはずだ。気づいた頃には、言葉のナイフでズタズタで、優しい言葉の刺激でさえ崩すための作用に過ぎない、そんな状態になっているはずだ。


(ちょうど、今の俺のように)


 ……これから話すのは。

 そんな「ヒトデナシ」の隠密が、「独りの聖女」と出会い「一人の人間」に至る。

 そんなありふれた物語だ。

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