番外編
追憶編
1話 隠密・ウルティオラ
※前書き※
過去編。全8話。よろしくお願いします。
※前書き※
覚えているのは、深海のような苦しさだ。
暗く、冷たく、心細い。
指の先から冷え込むようで、骨の髄から凍てつくようだったのを、俺ははっきり覚えている。
だからだろうか。
今でも、時折不安になる。
あの日、アリシアと出会えなければ――
*
それは、秋霖の後に訪れた晩晴の事。
水無川に斜陽が照り返していたことを覚えている。
別に、情景に感銘を受けたわけではない。
ただの事実として記憶しているだけだ。
河川敷を、上流に向かって歩き続ける。
川はいい。
敵から逃げやすく、攻撃を仕掛けやすい。
川の匂いが立ちこめる。
水草や、泥などの、むせ返るような自然の香りだ。
しばらく行けば、大きな橋が架かっている。
その橋の下が俺の目的地だった。
『――報告。任務、#2757達成』
緩やかな坂道に立ち、俺は一人呟いた。
すると、どこからともなく黒い霧が現れて、人の形を取った。やがて不確かな影は実体を持った。現れたのは俺の上司の「お頭」だった。
お頭は、俺の報告に何かを返す事は無く、ただ、次の言葉を口にした。
『ウルティオラ、次の仕事だ』
それに対し、俺が思ったことは……覚えていない。
このころの俺は、感情を持たない道具だった。
王国の影として、また隠密として生きていた。
そのくせ、依頼の内容は、一つ残らず覚えている。
魔族領への諜報活動に情報操作。
最前線の戦場で遊撃手を務めた事もあれば、国内のスパイをあぶり出したこともある。
たいていの場合が命懸けだった。
駒の替えなどいくらでも利く。
そういう事だったんだと思っている。
だが、俺は生き伸びた。
何度死線を経験しても、必ず生きて帰ってきた。
おかげで、随分古参に分類されるらしい。
ふと、お頭の手に収まるファイルに目が行った。癖みたいなものだった。生き残るためには、情報の一つも取りこぼしてはいけなかったから。
そのファイルは、今までと同じ色、同じ大きさだった。だけど、前まであった傷跡が無かった。つまり、新たに購入したものだという事が分かる。
(……ああ、また一人、死んだのか)
そのファイルには、隠密となった人間の経歴が残されている。どこの生まれで、どんな人間関係で、いつ生まれて、いつ隠密になったのか。そんな情報が記されている。
また、隠密の人数は一定だ。
死亡などで欠員が現れると、新たに補充される。
この二つから、ファイルが新しくなる理由なんて、一意に特定できる。欠員が現れて、新人を補充した。十中八九正解だろう。
悲しい、と思う気持ちはもちろんある。
だが、それは死を悼んでの感情なんかじゃない。
(ああ、俺は「ヒトデナシ」だ)
自分に対する失望だ。
隠密同士は、基本的に面識がない。
たまたま同種の任務について、情報のやり取りをする場合もあるが、顔を合わせず、仲介人を通しての交流程度が普通だった。
無理がある。
いくら仲間と言っても、知らない人間の為に涙を流す事なんて。
祖父の祖父のそのまた祖父の死に、涙することができるだろうか。そのまた曽祖父であったなら? 最初に生まれた人間の死を嘆くことができるだろうか? 俺に感じられる精一杯と言えば、せいぜいそれによく似た刺激程度だった。
……ああ、思い出した。
このころの俺は、感情を持たないんじゃなくて。
――感情が、死んでいたんだった。
*
死んだ感情というものは、どうにも、復活しないらしい。どんな綺麗な景色を見ても、街行く人の幸せそうな笑顔を見ても、前にもまして、何も感じることが無くなった。心が揺れ動かなくなった。
こんな言葉を聞いたことがある。
豆腐メンタル。
非常に精神が弱い人間の事をこう呼ぶらしい。
いや、違うだろ。
豆腐は崩れたら元に戻らない。
だが、そんな事を謳う人間は往々にして、少し期間を開ければまた日常へと戻っていく。
要するに、彼らの精神はそれほどやわじゃない。
あるいは、再生能力を持った豆腐なのだろうか。
それはそれで希少価値が高そうだ。
砂の山とかの方がふさわしいと思う。
本当に豆腐メンタルだったなら。
その言葉を理解するころには、とっくに心が壊れているはずだ。気づいた頃には、言葉のナイフでズタズタで、優しい言葉の刺激でさえ崩すための作用に過ぎない、そんな状態になっているはずだ。
(ちょうど、今の俺のように)
……これから話すのは。
そんな「ヒトデナシ」の隠密が、「独りの聖女」と出会い「一人の人間」に至る。
そんなありふれた物語だ。
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