第35話 花びら舞う下で
人混みを掻き分けて、ぼくは澄香さんの元へ歩く。
一歩一歩が、カウントダウンの秒針のように身体に刻まれる。さあ、覚悟しろ石野宗谷。男はいつだって気楽で、腹を括って覚悟を決める生き物だ。
残り数歩で君のとなり。
ぼくはすぅっと小さく息を吸い込む。
「澄香さん」
呼びかけた。たぶん、今日一番で良い声だったと思う。ゆっくりと君は振り返る。
長い黒髪が
「ついに、卒業だね」
実に他愛のない、生産性のない台詞。でも、このセリフにどれだけの意味が込められているだろう。君はどう思ってるのか。ぼくは澄香さんの言葉を待った。
「今日で……最後だね」
周囲ではしゃぐ生徒たちの声を縫うように、君の声がハッキリと届く。まるで、ここだけ空間が切り取られたみたい。「うん、そうだ」と頷いてみせる。
「あの不思議な会も、閉会式をやらないまま終わってしまったね」
そうだ。この日を機に全部終わってしまう。どれこれも、無理やりに蓋を閉めてしまうみたい。
「そっか。そういえば……そうだったね」
澄香さんは名残惜しそうに校舎を見上げる。学び舎に向けて哀愁を含めた瞳を向ける模範的な学生は澄香さんの他にはいないだろう。でも、慈愛の気持ちは勉学に向けたものじゃないんだろうけど。
思えば、君は誰かがなにかを言うたび、どこかを見つめていた気がした。きっと、誰かの言葉で自分の世界に潜っていたに違いない。
「少し、寂しくなるね」
そう言って空を見上げる。少しなんてもんじゃない。きっと、明日からもっと寂しい思いに身を悶えるだろう。
「もう、会えなくなるのかな……?」
思わぬ言葉にドキッと
こうして彼女が視線を上げる横顔を何度見てきたことだろうか。ぼくの視線はもう剥がせない。
「また、会えるよ」
桜の花びらが君の頬の横を舞う。君がぼくに視線を向けたタイミングで、唇に笑みを浮かべると自分で言葉を紡いだ。
「何か適当な理由を作って会いに行くよ」
ぼくも澄香さんを見た。どこか悲しそうな、儚く微笑む。
「意味が……わからないよ……」
釣られるようにぼくもクスリと微笑む。
「そうだね、意味がわからないかも」
僕らの間に小さな笑いの渦が出来て、少し間が空いた。
ただ、見つめ合う時間。
いつかの、いつもの穏やかな空間。ふと思い付き、「あ、そうだ」と声を上げる。
「それじゃあさ、約束をしない約束をしよう」
「約束をしない……約束?」
要領を得ないといった表情を浮かべる。ぼくはうんと頷いてみせる。
「会う、という約束はしない。でも、ぼくはきっと来年も、再来年も、澄香さんに会う。でも、それは決して約束しない。こんなのはどうだろう?」
不思議そうに見返し、少し間を置いて彼女はふふふ、と小さい声だが笑ってくれた。
「宗谷君って、よく……分からないね……」
少し逡巡したぼくは、また口角を上げた。
「その言葉、何度も言われたね。ぼくも、ぼく自身がよく分かっていない」
笑って濁すと澄香さんもクスリと薄く笑ってくれた。そんな笑顔が、春の陽だまりみたいな暖かいものを胸にくれた。
──また春がきた。
出会いだった季節が、別れの季節となる。この季節はいつだって色んな着せ替えをしてぼくらに訪れる。それがまたやってきただけなのだ。
自然と右手を彼女の前に差し出した。握手だ。自分でも何故握手しようと思ったのか分からない。次第に澄香さんの頬がさらに
「なんだか……そういう話をするのが……宗谷君らしい、ね」
頬を綻ばして目を細める。
ぼくには満開の花のように美しく、神秘的に見えた。
この一年間の中で、一番きれいな笑顔に思えた。きっと、一生忘れることのない笑顔だったと思う。それくらいに輝いていた。
自然と手を差し伸べていた。健闘を称え合うサッカー選手みたいに。
君はゆっくりと――でも着実に差し出したぼくの手に、ひとまわり小さい手を重ねてくれた。
そっと君の手を握りしめた。ひどく冷たかった。代わりに、自分の指先が暖かいことに気付いた。このまま、もう少しだけ暖めてやりたい。……本当はこういうことをしてみたかったんだな。
平静を装っていたが、ぼくの顔は耳まで真っ赤になっていたはずだ。こんなに照れ臭いことはない。誤魔化すこともできやしない。
「それじゃあ……またね……」
よくわからない表情を浮かべている。ぼくは何も言わず、手のひらを向けて見せる。
「それじゃあ、ね」
澄香さんは「うん」というが、まだ指を離すことはなかった。
次に、視線がぶつかる。
おそらく四、五秒と短い時間だが、ぼくの指と視線が重なる。
困ったもんだ。途端に、彼女の瞳に吸い込まれてしまうのだから。今度は心なんてもんじゃない、魂まで囚われてしまう。
手が離れた瞬間、ぼくは抜け殻になっていた。身体と意識だけ抜かれた、着ぐるみの様。自分の意志とは違う、不思議な力だけで立っているみたい。
「それじゃあ……また、今度、ね」
ぎこちない声だった。ただ、高揚感からくる上擦った照れ臭い声。
背を向けることが出来ず、後ろ向きに後ずさっていくぼく。自然と手を上げ、軽く左右に振り出す。
咲き始めたばかりのソメイヨシノの白と薄ピンクのグラデーションを背景に、屈託のない笑みで小さく振り返す澄香さん。その隣で同じように微笑んでいるぼくがいる気がしてならないのだ。
「元気でね」
そんな言葉を口にしたあと、手を振り終えるまで、ぼくはずっと彼女の虜のままであった。
ぼくの天邪鬼は、相変わらずだった。鍵をかけた向こうのそれも、心のドアをノックしている。
なにかを否定しようとしている。
なにかを受け入れようとしている。
なにかを告白しようとしている。
でも、今は鍵を開けることはない。いつもの天邪鬼とともに、ぼくは歩いていく。そいつも一緒じゃないと、ぼくは澄香さんに向き合えない。
なぜなら、そいつを含めないとぼくじゃないのだから。
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