第23話 鏡の前の男

 項垂うなだれたまま家に帰り、連絡のないぼくの遅い帰宅に不機嫌な母が作った夕食を平らげた。

 落ち込んでいても、食欲はあるものだ。お腹の中は炊き立ての白米や焼き魚、しじみの味噌汁で満たされても、バスの中でずっと飢えていた答えは微塵も満たされることはなかった。


 夕食を平らげると、ぼくはいそいそと二階の部屋に向かった。リビングを出る寸前、母の小言を浴びるが、弁明もなにもせずに部屋に入って籠った


 扉を閉め、もたれかかるように背中を預けて、今日のことを思い出す。

 人の世界に勝手に踏み込んで、勝手に傷付き、思い悩んでいるのだ。愚行にもほどがある。だが、常日頃から押し寄せる感情を、抑えきることが出来なかったのだ。

 ブレザーを乱暴に脱ぎ捨て、ベッドに死んだように身体を横たえる。

 

 思い浮かぶのは、いつも澄香さんのこと。

 秋の日、公園で君と思い悩んだ時の伏目がちな表情。そのあとの笑い解けた朗らかな顔。僅かな西日に透ける髪。帰りのバス停まで歩いた時の緩んだ口元。細く伸びた瞳。帰りのバスで見送ってくれた手ぶり。


 今更になって、君がどんなに大切な存在か気付かせてくれた。

 澄香さんへの愛おしさが涙とともに溢れ出てきて、シーツの生地を濡らしていく。


 嫉妬染みた心が蝕み、心臓を冷たい血液が細動させる。

 あの澄香さんの笑顔と、あの男の笑顔。その二つの笑みにはぼくの存在などない。


 君がずっと見つめていた空に、あの男が映っているのか。

 彼はいつから君に入り込んだのか? それとも、君が招き入れたのか?


 ひどく女々しい思考からの逃避からか、ひどい破壊衝動が襲い始める。

 シーツも枕でもなんでもいい、投げられるものを投げたい。壊せるものをすべて壊したい。

 でも、頭の片隅でそれは無意味だと知っているからこそ、被さっているシーツを強く握りしめるだけ。


 無性に叫びたい。この息苦しい気持ちを、大口開けて無茶苦茶に叫びたい。その声がぼくの部屋を突き破って、何も知らない君に届けばいい。この声にならない声を、君の小さな耳が感じ取り、ふと空を見上げてくれればいいと思うのだ。でも、どうせ届きやしない。だから、シーツの中に顔をうずめて声をくぐらせて押し殺すばかり。


 どうして、伝わらない。

 こんなに苦しい気持ちを、君にも伝えたい。こんなにも狂おしく想うからこそ、君にも同じように受け取ってほしい。


 動悸が苦しくなる中で、ぼくは力任せにスマホを取り出す。

 君に電話を掛けたい。通信アプリで会話したい。いますぐにでも、君となにかしらの繋がりを持っていたい。


 だが、強張る指先は澄香さんの電話番号にも、アプリに触れることは出来なかった。教室で思わず声を掛けた勇気が、沸き起こることがなかった。

 

 怖かった。感情のままに流されて君と向き合うのが。本当の自分を、打ち明けてしまうのが。そうして、震える指先はSNSアプリのアイコンに触れる。

 ぼくの薄っぺらいプロフィールとその日の誰かの報告が表示されたタイムラインページが表示され、指先を転がして友人リストをタップする。そこから澄香さんのアカウント名をタップし、


 予想はしていたが、彼女のSNSは秋から更新されていなかった。

 以前から気付いていたが、彼女は日々起こる喜びや悲しみを誰かと共有することはなかった。彼女の幸せや悩みは自分の胸の中で思いとどまり、外に発信されることはなかった。


 それがぼくには理解不能だったが、今ならばわかる。

 君は自分が住む世界の中で主役を演じ続けていて、知らない誰かと共有なんかしなくても、胸を暖めながら眠ることが出来る人なんだ。だから、思い出の写真や不平不満をネットの世界に吐き散らすことはないのだ。


 だからこそ君を遠くに感じてしまうし、独占欲混じりの恋心を向けてしまう。君の本当の姿を、ぼくは見たい。

 隣に座って、君が髪を伸ばす理由だとか、どんなことで怒ったりとか、好きな匂いだとか、そんな大したものでないことを全部聞いてみたい。そして、ぼくのことを知って、どんな反応をするのか見てみたいのだ。


 スマホの画面を力なく見つめ続けたあと、また小さな涙が頬を伝っていく。

 呆れるほど泣き腫らしたあと、ぼくは天井を仰ぐように寝返りを打った。


 天井に煌々と灯る蛍光灯を見つめる。ゆっくりと流れる部屋の時間の中で考える。

 さっきまでの自分は、まんまワガママが通らずに駄々をこねる子供だったと自負し、心の中で嘲笑した。


 ぼくは、馬鹿だ。

 ひとりの女の子のために、人生をすべて賭けるような思考を馳せて藻掻もがいているのだ。

 

 不思議と頬が緩む。

 十八にもなったのに呆れるくらいに泣いて、ベッドの上で力なく項垂れている自分に対して情けない気持ちと、自分をひとつ知ったことへの喜びが同時に沸き起こるからだ。


 ゆっくりとした動きで足を伸ばし、ぼくはベッドから降りる。

 ずっと倒れているわけにもいかない。明日も学校がある。

 部屋を出て、ぼくは両親に見られぬ様に気配を殺しながら一階にある風呂場へと向かった。目を真っ赤に充血させた顔なんて見られたくないからだ。


 制服を脱ぎ、肌寒い空気が充満する風呂場に入ると、シャワーを捻り出す。

 シャワーヘッドから数秒ほど冷水が出て、湯気を交えた温水に切り替わると、頭から躊躇することなく被った。

 

 人肌ほどの温水が頭から全身に伝い、さっきまでの鬱屈としていた気分を洗い流してくれた。両手を頭に置き、十本の指先で頭を刺激するように撫でまわしていく。

 汚れとともに、さっきまでの自分を払拭させることに務める。もう泣いたり、悔やんだりするのはやめるのだ。


 だからこそ、正しいと思える答えを見つけたい。

 澄香さんのそばにいられることが一番だ。でも、澄香さんの笑顔を曇らせることはしたくない。

 

 ぼくは、澄香さんの最高の笑顔が見られる最善の道を選びたい。ぼくも後悔しないし、澄香さんがただ笑っていてくれるような。そんな甘ったるい答えが欲しい。


 残すところ数カ月もないこの時間の中で、ぼくは答えを見つけなければならない。

 シャワーを止め、目の前の湯気で曇った鏡を腕でなぞる。鏡の中の目を赤く腫らした鋭い目つきの妙な男と視線がぶつかる。

 これが、男らしい男の目つきだろうか?

 それにしても、なんともかっこ悪い男だ。


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