第22話 澄香さんと知らない誰かと


 しばらく眺めた後、澄香さんは細い腕に巻かれた小さな腕時計に目を落とし、ゆっくりとした足取りでカフェに向かう。気付かれぬ様に平積みされた本に目を通すフリをしながら追いかける。テレビドラマで見るような下手な尾行術。

 そのままカフェに入り、注文カウンターに向かう澄香さん。ぼくは視界に入らぬように一度退散し、コミックコーナーへと移動した。傍から見れば、不審な動きをする人物だろう。幸いなことに、そんなぼくの行動を気にする人はいないようだ。


 ひとしきりコミックコーナーを回った後、澄香さんの姿が確認するのにカフェの入り口付近にあった『新作/おすすめ』とポップが貼られた離れ小島の棚に移動する。現在の日本経済を批判するものから昨今の社会に対しての自己啓発本、ミステリー賞を取った作家の本などが陳列されていた。


 ぼくへ澄香さんが書いた本が好きであって、決して読書好きというわけではない。なので、どれも興味を惹くものが見つからなかったので、『社会性とはコミュニケーションからなるものではない』というタイトルの本を取り、立ち読みするフリをしてカフェに目をやる。


 澄香さんは窓際に置かれた二人掛けの小さなテーブルに腰掛けており、ぼくの方からだと横顔しか見えない。これならば彼女がこちらに身体ごと顔を向けなければ気付かれることはないだろう。一方で、他人のプライベートを盗み見するという背徳感と罪悪感という後ろめたい気持ちが心を支配した。


 こんな姿をタっちゃんや剣崎が見たらどう思うだろう。きっと情けなく、哀れな男だと思うだろう。特にタっちゃんには絶対に知られたくないものだ。客観的に見た自分のことを想像するたびに、焦りに似た負の感情の波が押し寄せ、開いているページの文字が頭に入ってこない。


 澄香さんが席に座って本を読み始めてから十分した頃だろうか。

 ひとりの男がふらりとカフェに現れ、わき目も振らずに彼女の前に立った。


 男の背中から推測するにぼくと同年代くらいで、見慣れない学校の制服を着崩していて、随分と小奇麗に整えた髪型をしている。ブレザーの裾から覗かせるはみ出た白いワイシャツの裾も、振り返って注文カウンターに行くとき見えた第二ボタンまで外した襟元から、ぼくの住む世界とは違う人間だと理解させた。


 心臓の音が狂ったように動き、視線が剥がせなくなる。

 その男の毛並みはぼくがあまり関わらなかったタイプの人間。尖がっていて、大人に対しても平気で悪態を吐けるようなタイプといえばいいのだろうか? 小出が“不良”というのも納得ができる。十代ながら、アウトサイダーな人間は少なくはない。


 ぼくは本で顔の下半分を隠すように男を注視した。マグカップが乗ったトレーを持って澄香さんの席に座ると、肩に掛けていた薄っぺらい学校指定の鞄を椅子の脇に置き、中から一冊の文庫本を取り出した。不良が文庫本を持つというだけで珍妙な光景だ。人は見た目で判断できないとは、このことを言うのだろう。


 そうして、男が話し始めた。会話の内容はこちらまで届かないが、澄香さんは相変わらず静かに頷いている様子だ。それでも、男の方はかなり饒舌だと遠目からでもわかる。

 身振り手振りを使って語る話題を上手く盛り上げている。ひとしきり話したあと、澄香さんの言葉に対して一言一句聞き逃さず、頷いている様子だ。誰かを笑わせることが上手い男なのだと、同年代のぼくにはわかる。


 男はとにかく笑っていた。片手に持った文庫サイズの本を何度か指さしたり、ページを開いてそれを読み上げている様子だった。想像するに、読書の感想交換会のようだ。


 男の声はどうしても聞き取れないが、大きく口を開いて、楽しそうにはしゃいでいる。そんな彼の様子を見つめる澄香さんの顔もまんざらでもなさそうだった。澄香さんの口元が緩んでいくたび、嫉妬めいた黒い感情が心を蝕んでいく。


 お願いだ。それ以上、澄香さんの笑顔を引き出さないでくれ。

 頼むから、彼女の心を揺れ動かさないでくれ。


 なんとも子供じみた、情けない男の口に出来ない懇願ばかりが心の中で重複する。店内に流れる有線の音楽すらも煩わしく感じ、普段気にしてないはずの呼吸すらも重くて苦しくなる。


 ついに耐え切れなくなったぼくは、持っていた本を棚に戻し、そそくさと店の出口まで歩いた。

 辛かった。自分の知らないところで、笑っている彼女が。


 外に出た瞬間、太陽が消え去ったあとの鋭い寒さが露出していた肌を突き刺す。指先や耳が痛くなるような寒さなのだろうが、気にすることもないほど焦燥していた。


 考えてみれば、当たり前だ。

 ぼくにはぼくの世界があり、彼女には彼女の世界がある。

 誰もが、誰かの知らないところでいくつもの繋がりを作り、それを膨らせた大きな世界にするのだ。ぼくは、ぼくが知らないだけの彼女の世界の一幕を覗き見しただけ。


 頭ではそう理解しているのに、心が追い付かない。

 やはり、ぼくは泳ぐだけのガキだった。単純でいたいと願ったからこそ、身体が成長するときについてくる心の成長を置き去りにしてしまったのだ。


 去っていくTSUTAYAを振り返ることもなく、ぼくは足早に帰りのバスが通るであろう通りへと足を進める。さっきまで暖かったはずの身体が冷えていくのを感じながら。


 悔しさと無力さ、そして己の未熟さを痛感する。

 ぼくの背後、百メートル後ろにはそばにいたい人がいるのに、ぼくはこうして背中を向けて歩いている。自ら離れるように進むのは、いつかのミライのことを思い出す。でも、ミライの時と違うのは、ぼくが縋る方だということだ。


 何十台と激しく行き交う通りを渡り、誰もいないバス停に立つ。掲示板に張られた時刻表に目をやり、スマホの時計と見比べながら到着時間を確認する。バスは十四分後に来る予定のようだ。


 バス停に設置されている古くて所々ヒビ割れたベンチに腰掛け、通りの斜め向かいに見えるTSUTAYAに目をやる。

 勢いで飛び出した自分に内心呆れたが、それ以上にこれまでの自分に嫌気が差していた。

 勝手に人のプライベートを覗き見して、勝手に傷付いて。本当にぼくは自分勝手だ。


 天邪鬼というのは、いつも勝手なのだ。

 表面で見えるだけのものを信じ、それで素直に喜んだり、悲しんだりすればいいのだ。目に見えるものが真実だと思えないから、少しはみ出してしまう。


 通り過ぎる車が作る風が、首元を掠めていく。吐いた息の真っ白さをライトが浮かびあげる度に、ぼくは冬の憐憫れんびんな悲しさに同情されている気分になる。

 道路の向こうで、ひとしきり楽しい時間を過ごす男女がいれば、こうして独りぼっちで帰りのバスを待つ男がいる。皮肉を思い浮かべても、笑えないばかりだ。


 どうして、ただ目の前で笑っている彼女を見て喜ぶだけで満足しなかったのだろうか?

 どうして、小出の話を聞いて行動してしまったのだろうか?

 こんな風に彼女の一面を覗いて、ぼくは一体何がしたかったのだろうか?


 後悔と答えの出ない自問自答がグルグルと頭の中を回り、自己嫌悪に苛まれていると、待ち望んでいたバスがやっとぼくの前に現れた。

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