第18話 過ぎ去る季節に

 しばらく雑談に耽っていると辺りは暗くなり、公園の街灯に灯りが灯り始めた。さっきまで遠くで聞こえていた子供たちの声もなくなり、今は夕闇の中を通り過ぎる車の音だけが響く。

 ポケットのスマホを取り出し、画面を見れば時刻は十八時を示している。タっちゃんとなら気にしない時刻だが、澄香さんは別だ。彼女も気付いたのだろう、満足気な目で見返してきた。


「今日はここまでにしておこっか」


 呟くと澄香さんは無言で頷き、尻の下に収めていたスカートを撫でるように伸ばしながら立ち上がる。

 いつだって楽しい時間はあっという間だ。せっかくこれからだというのに、最高峰のところで幕が下りてくる。スマホをポケットにしまい、「それじゃあ、またね」という。


 バス停へ歩き出すぼくを、澄香さんは付き添ってくれた。「わざわざいいのに」と伝えても、彼女は首を横に振って隣を歩いてくれた。

 律儀に友人を送ってくれるのは、社交辞令なのか? それはわからないが、ぼくのことを名残惜しいと思ってくれたら、どんなに嬉しいのにな。そんなバラ色な妄想を膨らませながら、生温い風を纏いながら薄暗い大通りの歩道を連なる。


 九月になってから、陽が落ちると熱を含んだ空気が冷え、随分と過ごしやすい気温になった。来た時とは反対の緩やかな坂となっている歩道の片隅のバス停に辿り着き、設置されていた日焼けでくすんだプラスチック製のベンチに腰掛ける。

 まるでそこだけ舞台の中心のように照らされた街灯の真下、他愛のない会話に花が咲く。この間の模試のこととか、夏休みに行ったオープンキャンパス。そこで出会った気の強い女の子の話なんかを聴かせてくれた。


「そういえば、澄香さんは都内のW大学を目指すんだっけ?」


「そう」と頷く澄香さん。

 W大学といえば誰もが知っている名門校。そして、ぼくらが住む県からは新幹線と在来線を使って一時間と少しの距離。時間だけで測れば、そう遠くはないように思える。だが、学校生活が始まればここからでは通えなくなるだろう。


「それじゃあ、合格したら向こうで一人暮らしだね」

「うん……。でも、料理とかそんなにしないし……不安だけど、ね」


 清廉潔白な少女が髪を結って、エプロンをつけて台所に立つ澄香さん。想像しただけでも、かなり絵になりそうだ。


「そんなもの、きっと生活に慣れてしまえば大丈夫だよ。料理なんて、自転車に乗るのと一緒で、やってしまえばきっと身に付くよ」


 そう言ってのけるが、実は料理なんてめったにやったことはない。見栄を張ったぼくに「そう、だね」と笑って見せる澄香さんがいるなら、それでいいだろう。

 やがて家路に向かうバスが、フロントライトを灯しながら坂の向こうからゆっくりとこちらにやってきた。遠目から見ても、バスの中の乗客はまばらだった。

 バスは緩やかにブレーキを掛け、ぼくらの前に停まった。その瞬間に漂うディーゼル車特有の排気ガスの匂い。むせるような不純物混じりの空気が通り過ぎた後、バスのドアがシューと音を立てて開いた。


「それじゃあ明日、また学校でね」

「うん……。ソーヤ君、気をつけてね」


 小さく手を振り、ぼくはステップを昇って運転席の脇に設置された運賃投入機に交通系ICカードをかざす。ピッという音がすると清算が終わり、ドアが閉まる。ぼくは彼女の顔が見たくて、歩道側に面する席に座り、まだバス停に立つ澄香さんに目をやった。


 街灯の下にポツンと立ち、ぼんやりと明るく灯った笑顔で小さく手を振った。ぎこちなさが残る手ぶり。ぼくも胸の中で納まるくらいのサイズで手を振り返した。

 

 バスは発車し、ぼくは遠くなっていく澄香さんを窓に張り付くように見つめた。遠くなっていく彼女は背を向けることなく、このバスをずっと見送っていた。

 緩やかなカーブを曲がり、彼女の姿が完全に見えなくなるとバスの座席に座り直す。正面に置かれた料金を表示する電光掲示板に視線を置くと、他の客に悟られぬように静かなため息を吐き、胸を撫で下ろす。

 

 先ほどまで起こっていた静かな高揚感は、バスの中の淀んだ空気に押し込められて消えた。代わりに、その暖かさに包まれていた痛みがズキズキと痛む。

 

 苦しい。

 澄香さんの顔を思い出すだけで、胸がズキズキと疼く。

 こんな風に笑い合えたことが。

 こんな風に共に過ごしたことが。

 あれだけ楽しく話したのに、何度だって頬を綻ばしたのに、思うというだけで胸が切り裂かれるように痛む。


 明日より、明後日より、ずっとを想像し、不安が襲い掛かる。

 ぼくは失うことを恐れている。

 君と一緒にいる時間を。いつか、君の笑顔がぼくに向かなくなることを。そして、君を独り占めしたいと願うのに、それが叶わないと思うからこそだ。


 バスは住宅団地を抜け、環状線へと合流する交差点に差し掛かった。スマホの時計を見れば、時刻は十九時前。バスのフロントガラスの向こうに目をやれば、環状線を過ぎ去っていく車たちのライトたち。それに目をやりながら考える。いつから自分はこんなにも臆病になったのだろうか、と。

 いや……いくら強気な気持ちをぶら下げても、彼女の前ではすべて剥ぎ取られてしまう。着飾っても、誤魔化しても、正直な心が真正面から飛び出しそうになるのだ。

 

 ありのままの自分をすべて打ち明けたいという衝動に駆られる。君を理解したからこそ、ぼくのことを理解してほしいという傲慢ごうまんに近い承認欲求。


 ぼくは、君のことが好きなのかもしれない。けど、いつしか嫌いになるのかもしれない。……いや、本当に嫌いになることなんて出来るのだろうか?

 どうしたらいい? こんな気持ちを、どう整理したらいい?


 すぐ隣の窓の向こうには帰宅を急ぐ車たちのライトの群れが見える。微かに見えるドライバーたちの顔色には温和な表情はなく、どこかイラつきに似た薄れた顔をぶら下げている。誰もが家路に帰りたく、この渋滞を早く通り過ぎたいのだ。

 誰もが早く進みたいと思うだろう。だが、ぼくはその逆だ。もっとゆっくりとしてほしい。秋という季節はあっという間に過ぎていくことを知っているからだ。


 この季節は、ぼくが悩んでいることなど気にせず、あっという間に暖かさを奪って、過ぎ去っていく。

 だからこそ願う。

 ぼくが澄香さんに対する答えを見つけ出す前に、もうばかり少し待ってくれ、と。


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