第17話 運命のイタズラ

 少しの無言が続いたあと、炭酸飲料の入った缶を横にそっと置き、背を少し丸める。

 しどろもどろになりながらも思考をなんとか巡らせて、どうにか彼女を慰める言葉を探す。自分の身勝手な行動が、彼女の大事にしているものを奪っている気がしてならなかった。

 沈黙が怖く、本心を呟く。


「その……ごめん。こういう時、どんな風に声を掛ければいいか、わからなくって……」

「謝らないで……いいのに……」

「いや、謝るよ。ぼくが、あんな風に声を掛けなければ、君は新たな小説を書けていたのかもしれない。そう思うと、なんだか申し訳ないと思うんだ」

「あんな……風に……?」


 ぼくは頷く。


「きっと、あのとき声を掛けなければ、澄香さんの小説は書けていたのかもしれない。もしかしたら、君の大切な時間を奪ったんだ。そう思うと……」

「そんなこと……ないよ。私は……ソーヤくんとこうして話せるだけ……嬉しかった」


 ぼくとしても嬉しくなる言葉だ。でも、まだ猜疑心が働いていて、素直に喜べない。なんだか、怒られているような気分で、本当に彼女がぼくを許してくれているのか、勘ぐってしまう。


「でも、君は小説家だ。君は書く事に意味がある。ぼくは――」

「私は……そんな大した人間じゃ……ないよ」


 最後に小さく微笑む澄香さん。思い込みかもしれないが、なんだか力がないように見える。


「でも、君は確かに本を出した。そしてこれからも進み続けていくんだ。だから、君は……」


 元気づけようと発した言葉は途中で詰まった。ぼくは、澄香さんにどうして欲しかったのか? 急に冷静になり、思考を巡らせる。

 君はぼくと違う。そう思うけど、ぼくや他の皆とどう違うのか? そんな曖昧で言葉に出来ない気持ちをどう伝えたらいいんだろうか? 整理がつかず、心だけが先走るのだ。

 考えあぐねた時、先に口を開いたのは彼女だった。


「本になったのは……偶然……なんだと思う」


 彼女は伏目がちに続ける。


「きっと、本当に……運が良かったんだって、思ってる。何千という人たちの中で、選ばれた……。運命のイタズラでも……その結果だけでも、すごく嬉しかった。自分の書いた物語がひとつ……本屋で売られるなんて、夢でも嬉しいことだから……」


 独りごちる澄香さんには発言を許さない雰囲気があった。

 憧れた夢に手が届いた。その結果だけでも人は最高の幸福を得れるだろう。だからこそ、ぼくはずっと澄香さんにはもっと輝いて欲しかった。無責任な話だけど、いつまでも夢に目掛けて、悩んで、それでもめげずに進み続ける人でいてほしいのだ。


「だから……一瞬だけど、いい夢を見れたと……そういう事にしようって」


 いい夢を見れた。その言葉がどんなに悲しいことか、彼女は気付いているのだろうか?

 ずっと彼女を見ていたわけじゃあない。でも、澄香さんが諦めたような表情をするのは、胸を抉られる気分だ。

 澄香さんの横顔を見つめる。達観した目で遠くを眺めていた。

 少しの間が空き、唇が開く。


「でも……やっぱり……。こんな夢をずっと見ていたい……。これから先も……ずっと」


 途端に、一陣の風がぼくらのすぐ脇を吹き抜け、澄香さんの長い髪をさらった。鼻を掠める土と草の匂い。

 雪肌のような透き通った頬の横になびいた髪と、差し込む西日が彼女の心を表しているみたいだ。答えを見出した彼女に、自然が気前よく味方する。


 どこか早とちりしていた。澄香さんは、決してすべてを諦めたわけじゃない。いったん身を引いただけだった。

 澄香さんの言葉は続く。


「いまはまだ難しいけど……また、必ず……書くから」


 そう言い終わると企みのない、純粋な快哉かいさいな笑顔がぼくに向けられた。照れ隠しなのか、小さくフフフと息を漏らすと同時に目を細める。

 その瞬間に彼女が解き放った見えないエナジーに巻き込まれ、高揚感に溺れてしまった。運命の神様というやつは随分と酷な試練を与える。こんな人から離れることなんて、できやしないと悟ったからだ。


「出来るよ……。澄香さんなら、絶対に出来る」


 理性と呼ぶべきなにかが頭の上からすっぽ抜けそうになりながら、ぼくは力頷いてみせる。いま、自分がどんな表情をしているのかがわからない。きっと、だらしない顔をしているのかも。


「そう……かな?」

「うん、絶対に出来るよ。澄香さんなら、絶対にね」


 得意げに言ってしまう。言葉を選ぶ余裕も、冷静さもない。本心が口から放たれるのだ。

 ぼくの自信に溢れた言葉に、どこか照れくさそうに頬が緩む澄香さん。


「ありがとう……。大学に入ったら……また、書くから……」

「そう言ってくれるとすっごく嬉しい。そしたらぼくは、絶対に君の小説を読むよ。約束する」


 ありがとう、という言葉にぼくは浮かれて、様になっていない台詞を飛ばしている。

 いまぼくは彼女が幸せに笑えるのなら、どんなことだってしてやるつもりなのだ。こんな風に自分を見失うほど舞い上がり、踊りたくなる気持ちは久しぶりだ。

 

「そこまで……言われると……もう頑張るしかないね」

「あ、ご、ごめん……! つい熱くなっちゃって……」


 苦笑した澄香さんに気付き、のぼせあがった自分に恥ずかしくなった。失速したぼくの声が生ぬるい風に攫われていく。

 恥ずかしさのあまり俯いたあと、また視線を戻すとぼくらは糸がほどけたようにまた微笑み、そのあとはクスクスと小さな笑いが起きた。お腹を抱えるように前屈姿勢になり、目を細めている。

 

 久しぶりに澄香さんが心の底から笑ったのを見たような気がする。いつかの、あの雲を見ていた日の笑顔。でも、あの時と似て非なるものなのだ。

 こんな彼女を見ると、ぼくはなんとも幸せな


 ひとつ彼女のことを知るたびに、ぼくはどんどんと澄香さんの中に落ちていく気がした。


「こんな話をするのは……どこか恥ずかしいね」

「ぼくもだよ。でも、なんかこういうの、悪くないね」


 そうだ。ぼくらはまだ十代なのだ。

 澄香さんをずっと高尚な世界の住人に捉えていたけど、澄香さんだって何かに悩み、そして躓いたことに落ち込む人間なのだ。

 どんなに憧憬どうけいしたって、綺麗に思い描いていても、ぼくらは身体的一部が違うだけの人間だ。こうして、ぼくの偶像崇拝はこうして脆くも崩れた。それが、なんだか嬉しくって、つっかえていたもやが晴れたようだった。


 住宅街の連なった屋根に沈んでいく夕日を眺めながら、ぼくは思う。

 看過できないものや許せないもの、諦めたくないものを睨みつけ、もがいている日々があっていいじゃないか。澄香さんはそれが夢であり、ぼくは君という存在を諦めたくないのだ。きっと、こいつも青春っていう恥ずかしい言葉に括ってやっていいじゃないか。


 暗い話はここで終わった。やがて自然といつものような雑談に花を咲かせた。

 ぼくはようやく、打ち明けたかった話題切り出すことが出来た。それは『月と影の間に』の書籍化した本を買ったこと。そして、ウェブ版に比べて加筆された部分のことについて、だ。表現や言葉まわしが変わったおかげで、登場人物の印象も少し変わったことを打ち明ける。

 

 すべて伝えると、澄香さんは照れくさそうに笑ってくれた。なんだか、あれからずっと笑ってくれているみたいで、ぼくも嬉しかった。

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