第1話 魔法使い サメー・ロチカ
この世界に朝はなかった。あったという話は聞く。だが今はない。
黄ばんだ大量の汚い雲で、見渡す限りの空は埋まっている。同じ色の砂埃が空気中を漂い続け、空だけでなく世界全体が淀んでいる。薄暗い。
ズン……。鈍い音と同時に大地が震える。ここは戦場、最前線。隣の鋭利な岩石地帯では、今日も戦が行われていた。何百年も続く、終わりなき戦。
青の閃光が黄ばんだ空気を切り裂いた。それを皮切りに両極から数多の閃光がきらめき、大地をえぐる。轟音と叫び声、絶え間ない閃光。争う二軍。近づいていた。
「敵の腸をえぐりだせ」
えげつない号令と共に、二軍の姿が砂煙の中から突如出現した。一方の集団は、黒いコートを羽織った、凛々しい顔立ちの魔法使いの軍。対するもう一方は、獣を施した面をかぶり、下半身がエイの姿をした異質な魔物集団だった。
魔物の集団も、遠距離攻撃である色とりどりの閃光を飛ばしてはいたが、近距離戦闘の方を得意としていた。剛腕に虹色の膜を張り巡らせ、渾身の力で魔法使いに殴り掛かる。魔法使いたちは空色の盾を腕の前に創り出したが、あっさりと粉々に砕かれ、顔面の骨を真っ二つに割られた。
形勢は魔物側にあった。
戦闘を崖の上から見て、嘲笑している一人の魔法使いがいた。若い男だ。非常に整った顔立ちは、妖艶な美しささえ感じられる。何より自信に溢れていた。後ろに百人程の部下しかおらず、決して大きな軍隊ではないが、彼の自信に感化され、一つの部隊として最強の雰囲気を醸し出している。部隊の立ち姿だけで彼の手腕がよくわかった。眼下では殺し合いが行われているが、部下は誰一人として表情を変えていない。
「一体誰なんだ、この軍を率いている阿呆は」
男は呟いた。
「ゴーリ将軍です。ここ百年間は北部の守護の任についていました」
男の側近の女性がすかさず答える。それを聞いてふふんと鼻を鳴らす男。
「情けない」
遠距離攻撃で攻めれば十分勝てる戦であるのに、ゴーリ将軍は自ら相手の得意な近距離戦闘の展開に持ち込んでいる。愚かとしか言いようがない。
「作戦通りでいく。余裕で倒せる」
男は自分に言った。
「奴らを生き物だと思うな、慈悲をなくせ、徹底的に殺せ」
だんだんと自分の士気を上げていく。
「あの気味の悪い容姿をした奴らを見ろ。そして思い出せ。奴らの卑劣な行為を。民を手あたり次第殺し、喰らい、安らかな世界を破壊した。許せるか。許せない。憎い」
「奴らがやったことを、何百倍にもして返してやる」
男は、殺しの前はいつも自分にこれを言い聞かせていた。
男は崖の上から飛び、戦場に急降下した。部隊も男に続く。
男が指をパチンと鳴らすと、戦場に一本の青い糸がふわりと垂れ落ちてきた。荒れ狂 う戦線の中心人物たちは、戦いに熱中しすぎて上空の部隊には気づいていない。男に続いて、部下たちも次々に指を鳴らした。音の数だけ糸は生まれ、次から次へと折り重なった。やがてその糸は縄となり、縄と縄とが交わりあって、それは網となった。
「ゴミしか獲れない地引網といこうか」
巨大な青色の網は男たちに操られ、地面で戦っている人々を呑み込み始めた。今になって網に気がついた愚か者たちが、驚きと悲鳴を上げながら引きずられていく。魔物たちは後方に逃げ始めたが、とき既に遅し。網は魔物の軍勢のほぼ全てを覆っていた。
男がもう一度指を鳴らすと、網の両端が宙に浮き、うまい具合に網の中に魔物たちが大量に入り込んだ。男の言葉通り、それはさながら地引網漁のようであった。
突然の出来事に魔物の皆さんは大混乱を起こしていた。反対に、男の部隊は淡々と仕事をこなし続けた。
男は両手を叩いた。すると、空から大鍋が出現し、地面より数メートル上で制止した。魔物を捕えた網が、鍋の上空に移動する。鍋には見るからに汚い水がたっぷりと入っていた。
男は、鍋を見下ろせる位置に移動した。再び指を鳴らす。魔物たちが状況を整理するまでもなく、網は水の中へと落とされた。
魔物たちは、狭い空間で必死に酸素を求めてもがく。仮面から見える眼球は恐怖と苦しみで満たされ、仲間であったはずの者と互いに頭を押さえつけあった。そうしなければ死ぬ。実際、もみ合いに負けた者たちは簡単に溺死した。
網が鍋の中から上げられると、下の方にいた魔物は息絶え、生き残った多数の魔物たちの命乞いが聞こえた。無論命乞いには答えない。網はその後十回ほど鍋の中に浸かった。
魔物たちが慣れてきた。互いに協力して、溺死しないよう動き始めたのだ。
男は片眉を動かした。次の段階に移る。部下の数名が鍋の下に降り立ち、緑の業火を発生させた。鍋の汚水は緑の泡を噴き出し、不気味に水面を躍った。魔物たちの悲鳴、命乞いが耳をつんざくような高音になった。
男が灼熱地獄に網を落とそうとしたとき、一人の老人がやってきた。魔法使い側の将軍、ゴーリ将軍だ。
「ロチカ将軍、ロチカ将軍」
ゴーリ将軍は、すさまじい能力で戦況を激変させた若者に、びくびくしながらも駆け寄ってきた。
「何でしょうか、ゴーリ将軍」
ロチカは皮肉を込めた言葉と表情でゴーリを出迎える。
「あの網の中には、魔物だけではなく、我々魔法使い側の兵士たちも入っております。仲間です。どうか彼らを助けてやって下さい」
ロチカは網の中に目を向けた。なるほど、確かに近距離で魔物と戦っていただろう魔法使いたちが数十名、網の中で魔物と一緒に苦しんでいるのが見える。ロチカは腕を組んだ。
「お願いします……」
「しかしご覧ください、あの網を。あの網からどうやって特定の人物だけを取り除けましょうか」
「……いっ」
信じられない言葉が頭の中に響き、ゴーリ将軍は言葉を失った。仲間を見捨てるような発言がされるとは思っていなかったのさ。
「しか……なかm……」
やっとのことで絞り出した声を、ロチカの声が容赦なく遮る。
「勝利が先決だ」
煮え立つ鍋に、網が落とされた。言うまでもなく、そこは地獄。灼熱の水に体を焼かれ、全身に痛みという痛みが走る。痛みのあまり口を開くと、体の中にも灼熱の水が流れ込んだ。しかし、一番の地獄は決してここでは死ねないことだった。炎の緑は治癒の緑。鍋の中で死ぬ前に、その緑が彼らの命をつなぎとめるのだ。
こちらも、入れては出しての行為を何度も何度も繰り返した。悲鳴とうめき声ばかりが響くようになり、命乞いや謝罪の言葉は聞こえなかった。あまりの苦しみに、中の者たちの言語化能力が失われてしまったようだ。
「よし、最終段階だ」
ロチカが言う。
網と鍋が消え、魔物たちは地面に放り出された。逃げる心配はない。彼らの体は逃げられる状態ではないことくらいわかっている。
ロチカは、地面でのたうち回る彼らを見下しながら、部下に指示を出す。
「まず手と足……なのかわからないが、エイの部分を切り落とせ。その後はまかせる。自由に殺せ。だがなるべく即死しないようにしろよ。あと、目は最後の方にしとけ。最後まで視覚に恐怖を映させろ。それだけだ。よし、やれ」
恐怖におののく魔物集団に、部下たちが剣を取り出して近づいている。
「魔法使いはどうしますか?」
ロチカの側近の女性が聞いた。
「放っておけばいい」
「わかりました」
ゴーリは自分の部下に、網で捕らわれてしまった魔法使いたちの救助を何とか命令したが、目の前の景色を、起きた出来事を、信じることができなかった。地面に投げ出された魔法使いたちの皮膚はただれ、半開きの口からは煙が出ている。苦しんでいるような声の中から、怒りで満ちたような叫び声も聞こえる。
あふれ出る血しぶき。絶望に打ちひしがれた悲鳴、あるいは絶望を超えた恨みや怒りの歯ぎしり、うなりの声。
ロチカはそんな音を聞きながら、踵を返した。
見る価値もない。まだ終わりではないのだ。明日も、明後日も、敵を殺し続ける。あの魔物をこの世界から絶滅させるために、俺は生きるのだ。
ロチカの部下は終始無表情であった。というのも、ロチカの部隊は百人で構成されているが、部下全員が、ロチカが創り出したゴーレムで編成されていたからだ。操り人形である。
他の魔法使いたちがロチカの戦闘についていけないから、というのが表向きな理由だ。
しかし悪く言えば、ロチカが単に嫌われ、恐れられているということだ。いくら戦争という罪の世界とはいえ、ロチカの戦はあまりにも残虐すぎた。先の戦いを見ればわかるだろう。仲間を巻き込んででも、敵を殲滅する。あれを毎日やるのだ。
無論、ロチカの才は並みの魔法使いのそれをはるかに凌駕していることは周知の事実だ。そもそも、本来魔法使いが同時に創り出せるゴーレムなんぞたかが一、二体に過ぎないのだ。
要は、皆がロチカを嫌っているが、そのおかげで戦局が魔法使い側に向いているので、誰も何も言えない状況であった。
ロチカの素性を知っている者はほとんどいない。どこで生まれ、どんな生活を送ってきたのか。
彼は話さない。というより、話すような間柄の者を作らなかった。
いつの間にか、軍の中にいた。勝手に戦場に登場し、場を荒らす。文句を言いたくても、多大な戦功を上げてくるので何も言えない。
勝利のために、全てを利用していた。
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