第5話 今度は
夕焼けが眩しく輝く商店街。
都会でもなく、それでいて田舎という田舎でもない僕が住む街は、少しだけ混雑し
ていて、少しだけ騒がしかった。
引っ越してから三年が経つが、飽きることなく、新しい故郷の空気に高揚する。
人殺しの万引き少年であった僕の、数少ない癒しの空間。僕のどす黒い存在を眩し
く照らすこの夕陽が心地よかった。
万引きから退いた帰り。商店街を突き抜けて、少し歩いたところに僕の家があるの
だが、今日は何となく、本屋へ立ち寄りたくなった。
一年前、翔に出会ってからずっと、万引きしては、次の日に翔には内緒でこっそり
本棚へと戻した本たちを思い出す。
今度は、ちゃんと『買って』から、あの店を出たかったのだ。
だから僕は、あの本屋へと行かなければならなかった。
万引きの重圧で重く感じた木の扉は、嘘みたいに軽くて、開けるのが容易だった。
桃井さんがいた。
色付きのビニール袋を手にぶら下げている。
微笑む彼女に、僕は少し気恥ずかしい気持ちで苦笑し、そのまま彼女の前を通り過
ぎる。
一昨日、本棚から引き抜いて、昨日、同じ場所に戻した『世界で最も望まない恋』
を、僕は再び引き抜く。
そして。
「すいません」
と、レジの前に立つ老人に、対応を求める意味と謝罪の両方の意味を含んだ言葉
を、真っすぐに届けた。
すると、衣類のような白いひげを蓄えた老人は、シワだらけの顔を横に広げ、朗ら
かに笑った。
目の奥が、水っぽくなるのを感じた。
「678円です」
嗄れた声の暖かさが、僕を柔らかい衣のように包み込んだ。
「はい…」
涙声を情けなく漏らす僕に、何の反応も示さなかった。
「ありがとう」
僕の目を見て、再び微笑んだ。
桃井さんが手に提げていたのと同じビニール袋に本を入れて、それを僕に渡して、
「また来てね」
と、添えた言葉が、僕の琴線に響いた。
気付いたころには、僕は、深く、それはもう、深く頭を下げた。
我慢していたはずの涙が、大粒となって、ボロボロと落ちた。
涙が治まったところで、僕は店を出た。今も少し、目元にじんわりと圧力を感じる
が、それが引くのを待っていては日が暮れそうなので仕方なく家に帰ることにした。
目元が腫れてないといいけど、などと心配しながらも、心はどこかスッキリとした解
放感に包まれていた。
「ダメだ…」
しばらく歩いて、帰路の途中の上り坂で立ち止まる。
僕は、慌てて被りを振る。人殺しだということを忘れて、こんなふわりと浮ついた
ような幸せを感じてはいけない。僕なんかが。
そう、僕は、あの子を殺しておいて、あの子の時間を永久に止めた責任を取り切れ
ていない。
そう、僕は、喜んだり、楽しんだり、自分の満足のために笑ってはいけないん
だ…。
しかし。
急に覆いかぶさる闇を、ほんの一声で、かき消してしまった。
彼女が。
「良かったね」
桃井春流の、陽だまりのような優しい声が、冷たく乾いた心の闇を、仄かに眩しい
光で暖かく照らした。上り坂で僕の前に立つ彼女の輝きが、降り注ぐようだった。
「僕…、僕は…」
「大丈夫だよ」
僕の事情を知ってか知らないでか。きっと、万引きをしたという消えない事実に苦
しんでいると思っている彼女が、僕の肩にゆっくりと手を置き、柔らかく微笑んだ。
言いたくなった。
僕は、人殺しなんだ、と。
勇気が無かった。
それを打ち明けたことによって、彼女が離れていくんじゃないかと思うと、怖くな
った。
責任を取らなければ、などと言いながら、逃げるような言い訳を胸中で並べて、打
ち明けられない僕は、臆病で自分勝手な人間だと、改めて思い知らされる。
「僕のチカラは…」
それでも、せめて、という思いで口を開く。
「僕のチカラで、多くの人が不幸になった。僕だけが、特をしたんだ。無責任に発
動して、薄っぺらい正義感に身を任せて、自分は良いやつだと思い込んで、人が望ん
でも無いようなことばっかりして、迷惑をかけた。…迷惑、なんて言葉じゃ収まらな
いくらいに、僕は…」
彼女は、黙って聞いてくれた。
そして、僕に言った。
「違う…」
呟くように、風に流されるようなか細い声で、否定する。
「違う、と思う。絶対とは言い切れないけど、私はまだ、白木君のことをほとんど
知らないから、勝手なことは言えないんだけど、違う。私はそう、信じてる。だっ
て…」
目を逸らす。
「前にも言ったんだけど、白木君の『チカラ』でしか感じられなかった、あの特別
な感覚。忘れてた本の内容が一気に戻って、頭の中で作り上げてきた世界が、一気に
再構築されるあの感覚、私は好きだったよ」
自分の買った小説を抱きしめるように両手で抱え、『チカラ』から解放されて記憶
を取り戻した時の感覚を思い出すように、笑みがこぼれる。
でも…。
「でも、そんなちっぽけなことじゃ、僕のやってきた責任を、取り返せな…」
「そんなことない!」
ピシャリと、鋭く圧力のある声が、一瞬、誰のものなのか分からなかった。
「えっ…」
親しい友達や、家族ですら見れないような、穏やかな桃井さんの、誰かを睨む顔。
「そんなこと、言わないで…。私は、幸せだったよ? 思い出すとね、すごく、幸
せになるんだよ? それに、私は白木君のおかげで、ここまで生きてこられたんだか
ら」
「そんな大げさな…」
「大げさなんかじゃないよ」
「そうかな…」
俯いたままの僕に、急に言葉をかけるのをやめた彼女。
ふと気になって、少し頭を上げて様子を見ると、彼女は右手の中指と親指で、自分
の唇をもみほぐすように軽くつまんでは離す行為を、繰り返して、何かを考えてい
た。
「あっ、そうだ!」
「なっ、なに?」
何かを閃いたように下唇から手を離し、次は両手の指を組み合わせ、ソワソワと絡
ませ手動かしながら、どこか緊張したような面持ちで下を向いた。
「単純にさ、単純に、続けて行けばいいんじゃないかな」
「なにを?」
僕は、全くというほど意図をくみ取れなかった。
しかし、次に放った彼女の言葉で、僕の中で、少しの期待感と、大きな不安感が、
同時に生まれることになる。
「もう一回、もう一回とは言わず、もう何回も。…人のために頑張ればいいんじゃ
ないかな?」
「なっ…!」
「今度はね、今度は違うよ」
彼女の童顔が、照れに反応し、少し紅潮する。下を向いたまま、言葉を続ける。
「今度は、私も一緒に頑張るから、その、…次は二人で、頑張ってみませんか?」
「…」
夕陽に照らされた彼女の双眸は、綺麗で、無垢で、それでいて失いたくなくて、僕
はただ、魅了され、圧倒されるばかりだった。
初夏の暑さが、滲むように、沈むように、僕を包み込んだ。
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