第4話 処刑
「おーい。なにボーっとしてんだ」
一組にいるはずの翔が、僕の顔の前で手をひらひらとさせることに気付く。
「ん、あ、翔か」
そしてまた、僕は思いにふけるように肘を立てた左腕の手に、自分の顎を乗せる。
すると彼は、土台となる腕ごと、払いのけるようにしてずらした。顎がかくんと下
に落ちる。
「今日のお前、なんか変だぞ? 熱でもあるのか?」
「あ、いや、別に」
お前の方が変な奴だけどな、と言ってやりたいところだが、彼は喧嘩っ早いという
噂があるし、僕に万引きを乗り気で行う人間だから、逆上されると何をされるか分からな
い。気を遣って機嫌さえ取っていれば、彼は優しい男だ。
「二限の時に借りてた数学の教科書、返しに来たぞ」
「うん、ありがと」
僕は、いつものようにニコリと笑う。
「お前って、ちょっと勉強できるけど、なんだかアホみたいに間抜けだな」
いつものように、自分を優位に見せるために、僕を卑下する彼に、僕は愛想笑いが
バレないように笑い飛ばす。
「見て見て、あれ、灰岡翔じゃない?」
「なんでここにいるんだろう」
「白木君、絡まれてて可哀そう」
僕のクラスメートたちの視線が一斉に集まっては、僕や翔が振り返ろうとすると、
小魚のように四方へと逃げる。
そう、翔は…。
「うっせえな…」
非難されてなお、長い髪をした翔が、周囲をねめつけるように睨みつけた後に、自
分の最大音量を意識したような舌打ちを鳴らした。
「つ、次は、体育だっけ? 楽しみだね」
「ああ。今日はサッカーやるから、俺が三点でも四点でも取って来てやるよ」
翔は、気持ちを切り替えて僕に笑いかけた。
しかし。
「点とるどころか、一組のやつも、一緒に体育やる二組のやつらも、お前にボール
なんか渡さねえだろ」
「はは、言えてる」
「今どき流行ってないんだよね。悪ぶったような態度」
「あんな寒い出しゃばりと同じクラスじゃなくてよかった」
クラスメートの、聞こえよがしの小声は、終わらない。
「じゃあ、俺、チャイムなりそうだから、戻るわ」
「うん」
きちんと、笑顔になれているかどうか、不安だった。
翔は、一癖あるけど、本当に優しい男で、それをどうか、みんなには知ってほしい
けど、それを主張する勇気が無かったし、こんな『人殺し』が、そんな綺麗ごとを吐
く資格なんて無かった。
翔が馬鹿にした本『世界で最も望まない恋』を、楽しそうに語る彼女の顔が、ふと
頭の中で蘇った。
そして、あろうことか、僕は、席を立ちあがり、教室の外へ出て、廊下を慎ましく
歩く寂しげな背中に、声をかけた。
「翔」
振り向く彼もまた、どこか虚勢を張っているように、本心とは程遠い、明るい感情
を、表情に張り付けているように見えた。
僕は、自分勝手でわがままだ。
今から、彼の気持ちを全くと言って無視するような望みを、言ってしまうからだ。
もはや処刑だ。
「止めたいんだ」
「は?」
引き返すなら、今だ。
でも、今これを言わなければ、僕は一生抜け出せない。
僕が発案して実行に移した、彼との思い出。
そう、皮肉だけど、彼との思い出だった。徳に背を向けた背徳感に、スリルからや
ってくる高揚感を確かに共有していたんだ。
それを僕は…。
「僕、もうやめにしたいんだ。万引き」
言い放った。
声が振るえないように腹に力を入れて、言った後もずっと、腹に力を入れ続けて、
彼の返事を待った。
これから何をされるのだろう。殴られる? 蹴られる? 胸倉を掴まれて脅され
る?
しかし、そのどちらでも無かった。
「分かった」
彼はただ、それだけの返事を残し、再び僕に背を向けて、廊下を歩きだした。
襟足もまた簡単に校則に引っかかってしまうほどに長いな、などと場違いな感想
が、頭の中に、無情に浮かんで、次第に消えた。
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